心のダンシャリってあるよーなきがするんだな。
物質的なダンシャリによって、心がすっきりする。部屋の中に空間を新たに作る事によって、新たなものを取り入れる事が出来るし、そして部屋の中がすっきりして眼にも新鮮なので、新たなアイディアも浮かぶ。いいことだー。
とすると、心のダンシャリってありじゃん。
やまんばはまず、物質的習慣のダンシャリをやったんだろうな。石けんやシャンプーや歯磨き粉を使って身体を洗うという物質的習慣のダンシャリ。
ついで、畑の野菜の栽培を農薬も肥料も入れないという物質的習慣のダンシャリ。
石けんなし生活は、身体の神秘をおしえてくれる。
肥料なし農薬なし栽培は、日々自然の神秘をおしえてくれている。
たぶんこの神秘は上限を知らないんだろうな。宇宙の神秘までいっちゃって、どこまで自分を運んでくれるのかわからないだろうな。
そーして、精神的習慣のダンシャリ。
物質って眼に見えるじゃん。だからそれをやめるってわかりやすい。といっても
「こっ、、、この本を捨てるべきか捨てないべきか。。。。」
という重大な決断を下さないといけない真剣勝負があるが。
「こっ、、、この本を捨てるべきか捨てないべきか。。。。」
という重大な決断を下さないといけない真剣勝負があるが。
だけど一時の勇気が必要である意外は、あとは何も仕事がない。だけど習慣となると、そうはいかない。
心ってとりとめもないし、目に見えないし、こっちの事考えてるかと思えば、いつのまにかあっちの事考えている。
「どこに着目すりゃーいーのよー!」
ってなかんじなのだが、じつは同じパターンの考えがぐるぐるぐるぐるまわっているんだな。
あれやって、これやって、、と言う実務的な思考のあいだに、ネガティブなこともはさまってしゃべってる。あいつやこいつの悪口、自分の将来の不安、自分の才能のなさ、身体の欠点、やっちゃった事への後悔、それのいいわけ。。。
るんるる~んってのは、ほんのいっときだけ。あとはぶつぶつぶつぶつ文句を言ってる。。。はためにはぼーっとしてるようで、心の中は忙しく働いている。
これが頭の中のほとんどを占めていて、ほとんどグッチャグチャな部屋の中と同じ。
おおっ、ぐっちゃぐちゃだ。
着古した服、もう卒業した本、押し入れに詰め込んであるいつか使うだろうと思ってしまってあるはずなのに、忘れ去られているものたち。
それとまったくおなじように、着古した考え、もう卒業した定義、押し入れに突っ込んで忘れ去られている常識たち。。。
それの一掃大処分市を開催するのだーーーー。
(おい、誰がそれを買うねん)
(おい、誰がそれを買うねん)