起こることが起こっている。
コントロールなど出来ない。
私はいない。
全体の表現でしかない。
非二元の言葉は、むずかしい。あまりに強烈なので、一気にその言葉に引きずられる。古くからある思想だったが、それはあえて奥義にされてきたようだ。
だがその言葉が一般的に知られるようになって来た。私もその言葉を聞いた時は「これだ!」とおもった。ついにここにきたか、と興奮を隠しきれなかった。しかしそれを知れば知るほど、それはおそろしいものだということに気がつきはじめる。
私たちは、「いい国作ろう鎌倉幕府=1192年(今は年代は違うらしいがw)」のように、その言葉さえ覚えておけばいいような記憶大事主義的な習慣があるから、非二元の言葉も、それを唱えていさえすれば、それを理解した気になってしまう傾向がある。
だがその中身を知るという事は、とてつもないことなのだ。その言葉は、今ここでしゃべっている言葉を使っている思考を越えた所にある。到底頭で考えつかない領域をあえて言葉に落としたものだ。
思考、つまり自我は非常にこうかつなので、その言葉は自我の領域でいかようにも「利用」してしまえるのだ。
つまりどんなことでも非二元の言葉で回避できるような気になるのだ。
自分が何か失敗しても、起こることが起こっているのだ。私はいない。それは全体の表現でしかない。と使える。
人に迷惑をかけてもその言葉は言い分けに出来る。
もちろんまわりはぽかんとするだろう。しかし本人はそれで満足できる。だって私はいないのだから。
その言葉がここまで「利用」されて来るには、現在の背景があるのではないだろうか。ありとあらゆる苦しさの中でもがき苦しみ、どうやってもうまく行かず、にっちもさっちもいかなかった時に、救いのように出会う言葉。私はいない。起こることが起こっているだけ。。。
私も含めて、スピ系の人々が一気にここになだれ込んで来るのは、くるしさからの突破口としての救いの言葉でもあったのだ。
しかしやがてそれも思考では「利用」出来ないことに気がつくだろう。
非二元の言葉は、本気で自分の中に入っていき、自分の思考と対面していくプロセスをへて、その思考のばかばかしさ、限界を知った先にあるものなのだろう。