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2018年11月30日金曜日

石けんなし生活9年目



勝手に石けんなし生活がはじまって、9年と8ヶ月。

我ながらびっくり。
ほぼ10年近く、石けん使わないで生きているのだー。
なんだ。全然へーきじゃん。

乾燥する季節になった。色々とお肌のまがりかどなお年頃。いろんなものが必要かと思いきや。
なんもいらん。

かさかさお肌にも、かゆかゆお肌にもならん。
お手手もクリームいらん。
お顔にもクリームいらん。
お身体にもクリームいらん。
そりゃーばばあになったから、シワもシミもあるけどよー。
でもすべっすべさー。

朝お水で顔洗って、ハイ終わり。
お風呂でシャワーだけで身体と髪の毛洗って、ハイ終わり。

なんも必要ないカラダ。
なんとエコなのだ!

最近気に入ってる魔法の歯ブラシ、KISS YOUのイオン歯ブラシ。
必死こいて磨いてないのに、
歯磨き粉なしでピッカピカのつるっつる!
先日歯医者さんにもほめられちゃった。
「よく磨けてます」(笑)

シンプルでええのう〜。

追記:

石けんなし生活は、こうでなければいけないとか、こうするべきを、
緩めていくきっかけになった実験やったなあ〜とおもう。


なんだ〜。そんなに深刻にならんでも、
いらんもんが、この世の中にはいっぱいあるんかもしれんなあ〜と。

引き算人生のきっかけになったっす。



2018年7月14日土曜日

「どっちが正しいのか!?」




「電子レンジ?もってないよ」
「えっ!え~~~!電子レンジ、もってないのおー!?」
とゆー、思わぬ大きなリアクションに、こっちがびっくりするやんけ。

こっちはもってないのがあたり前な人。
あっちはもってるのがあたり前な人。
どっちも自分と同じじゃない事に、ビックリする。

人の常識って、自分の中の常識だったりするのよね。
『フツーこうだろ』といういっけんあたり前的な常識は、
案外思い込み常識だったりしてね。

んで、レンチンしない派のわたしは、
「そりゃー。ほらあれ。分子と分子がブツかり合って、破壊的な行為の元に熱が発生して、あちあちになるヤツでしょ?それって、もう元々の物質じゃなくなっているってふうにおもうのよねえ。。。。」
というと、

「えー。そんなむずかしーことはわかんない。それよか便利じゃん。それに体にいいって聞くよ。お湯でゆがくとビタミンも流れてしまうけど、レンチンだとビタミンは損なわれないしー」

『かっ、、、からだにいいのかー???たしか、レンチンした肉を食べつづけた犬はがんにかかって死んだってきいたぞ。。。』
と、心の中でぶつぶつ。


どっちも外から聞いた話。自分で確認したわけじゃない。
じっさい二匹の犬を実験台に使いたくねえし。
この世の良い悪いは、けっこう外からの情報をあてにしている。


石けんなし生活もかれこれ何年だ?7年ぐらいたつかなあ。
すこぶる調子はいい。
べつに石けんやシャンプー使わなくったって、病気にもなりゃせんし、菌だらけにもならん。



わたしは、「こうなったら、こうなって、こーんな恐ろしーことが起こりますよー」的な事から導き出される情報は、あまり鵜呑みにしないことにしている。

だからわたしが聞いたレンチン物語は、ほんとかどーかはしらない。

このおびただしい情報社会の中をみていると、ひとつのものごとが、いい悪いの真っ向から対立するま反対の二つの意見を平気で抱えている矛盾に気がつく。

恐怖を駆り立てるもののうしろには、何かしらの利潤追求が見え隠れする。


だからそーゆーのは、「どっちが正しいのか!?」って、答えを求めず、
「ふーん」って深刻にならんにかぎる。



2017年9月3日日曜日

ないないつくし




白状しちゃうけど、やまんばの年間化粧品代はゼロ円だ。

56歳のおばさんは、女っけまるでなし。口紅やファンデーションはおろか、化粧水もクリームももってない。

お化粧は高校の卒業式にしてたぐらい、不良な生徒(いまはそれはあたりまえらしいが)だったが、30歳前にやめちまった。ブスな自分の顔をいろいろいじくっても、なんか自分で自分をごまかしているようで、いやになった。

それでも冬はかさかさお肌になるので、クリームとリップクリームは手放せなかった。

そして石けんなし生活が始まった。

石けんを使わないおかげで、冬のかさかさお肌は消えてうるおい、唇もリップクリームぬらなくてもうるおった。踵のかさかさも消え、つるつる。夏の肌のべたつきもなくなった。冬のパチパチ君もかゆさもない。

ははは。な~んだ。人間の身体って、ちょーシンプルじゃねえか。色々つけるから、ややこしくなるだけで、なーんもつけないと、勝手に整っている。勝手に油分を出し、勝手に調節してくれている。
だからゼロ円。

シャンプーもリンスもまったく使ってないのでゼロ円。
歯磨き粉は仕事のとき、ツマヨウジの先っちょ程度に使うので、年間1個買う程度。あ、歯間ブラシとデンタルフロスは買うよ。

やまんばのお風呂場には、なーんもない。洗面台にちょこっとあるだけ。もちろん化粧台もない。

畑にも農薬も肥料も入れない。
入れなくても自然は勝手に野菜を育ててくれる。
石けんなし、肥料なし。
無い無い尽くし。

あ、『ないないつくし』だあー(笑)。


2017年4月6日木曜日

やまんばの「花粉症治っちまった物語」



わたしの花粉症が治っていった経緯を書いてみるね。

これは誰にでも当てはまるもんではないだろうし、一般常識から言ったら、かけ離れている。だから単なる読み物として受け取ってほしい。そーゆーおばかな実験をやった、おばさんの一物語だ。

ひどい花粉症に悩まされて、夜もろくに寝られなかったわたしは、粘っこい強烈な粘膜質の鼻水が喉に詰まって、息ができなくなって、マジで死ぬかとおもったこともあった。無意識にかきむしられた喉は真っ赤にただれ、眼はかきむしり過ぎて、白目の部分が風船のように膨らんでしまい、まぶたが閉じられなくなるほど。

つねに首から上がとてつもない不快な存在感をもち、とにかく息をうまく吸うことだけを願い続けた約20年間だった。(幸いNY生活のあいだは、スギの木がなかったので、花粉症にはならなかった)
誕生日が3月で、春は好きな季節だったのに、社会人になってから花粉症と確定申告のせいで、春がくるのが恐ろしかった。

もちろんその間、ありとあらゆる方法を試みた。だがいっこうに良くなる気配もなく。。。


ある時、ひとつのブログに行き着いた。

それは「野人エッセイす」という変なオヤジが人生を謳歌しているブログだった。40年間、石けん、シャンプーリンス、歯磨き粉など、文明人が使うものなどいっさい見向きもせず、野人のごとく、野原と海を駆け回り、野原で野菜の種をはなさか爺のようにばらまき見事に育て、海にもぐってはうまい海の幸を、山に分け入ってはケモノの背中にまたがって(?)、うまい山の幸をゲットしてくる、すごいオヤジだった。

それに全く感化され、わたしは石けんなし生活を始める。
顔や全身に使っていた石けんをやめたことで、からだに感じていたかゆみはもちろん、お肌のかさかさはまったくなくなった。顔は水でばさばさっとあらうだけ。お湯が皮膚の油分を取り除いていたのだ。

一般的には、自然にでた油分をきたないものとして石けんで落とし、そしてその補いに化粧水やクリームをぬる。
油分をとって、油分を補うのだ(あほみたいじゃね?笑)。

だがその加工品のせいで、肌荒れをおこすしまつ。そして日夜「からだにあう」化粧水はないか、石けんはないか、と走り回るのである。なんのことはない。さっさとやめちまえば良かったのだ。

歯磨きも、歯磨き粉をやめて、ただブラッシングするだけによって、喉のかゆみや痛みが消えたのはもちろん、お通じが良くなった。風邪も引かなくなった。

シャンプーリンスを使わなくなると、フケもでなくなるし、抜け毛はなくなるし、毛も太くなった。
美容室では「相変わらず、多いわね。。。」と文句を言われながら、すいてもらっている。

そういう実験を通して、私たちのからだは、何かを足して補う必要がないことを知る。むしろ省いて行くことによって、私たちのからだの自然治癒力や叡智がいかされる。あれを補い、これを足すと言う「よけいなこと」をしなくなれば、かれらがすべて勝手にやってくれているのだということを身をもって知る。
その詳細はここに書いてあるので、興味のある方は読んでほしい。


そういう実験の最中に、それが花粉症の症状をぐっと軽くしていることに気がついた。
喉のかゆみはほとんど消え、鼻水もさらさらになった。
花粉症の症状は8割消えていた

だがまだ眼のかゆさや鼻水は残っていた。私は甜茶などを試して、からだの改善を試みていたが、それも決定的なものではなかった。そんなおり、ハッカ油の存在を知り、それに随分救われた。

ほんの少し、ハッカ油を小さくたたんだティッシュにつけ、それを直接肌に触れささないように裏返しにして、マスクの中に入れるのだ。スースーする心地よい空気が、息をするたびに鼻に入って来て、心と鼻の粘膜をやさしくしてくれる。随分このハッカ油には救われた。症状のきつさ緩和には、これがいい。

ただものすごいきついものだから、くれぐれも用心して使ってほしい。ちょっとハッカ油を触った手でまぶたにでも触れようもんなら、眼から火がでる(笑)。とんでもない苦痛を味わうので、そこんところ、よろしく。



さて、そういう何かの道具を使って、症状を緩和させるのは、わたしの哲学に反した。
何も足さないことが、わたしの主義。であるならば、その次は何か。

わたしは「現れる現象は、やがて消えていく」という思想を知る。仏教の「諸行無常」のことだ。
ん?現れるものはやがて消えていく?

ならば、この眼のかゆみはどうだ?
実験開始。

山をみていると、スギから、花粉が、ぱっふ~~んととんでいく。
その様子を見ているうちに、だんだん眼がかゆくなる。
う。。きた。。。
手が、首から上にいこうとする。
だめだ。。。かいてはいけない。。。。
かきむしろうとする衝動を抑えて、じっとその症状を観察する。

かゆみはじょじょに大きくなり、山場を向かえる。
くっくるしい。。。かっ、、かゆい。。。。
手が動こうとする。。。
それでもじっとたえる。
あるピーク点を向かえると、じょじょにかゆみがおさまって行く。
あれ?消えていく。。。消えていく。。。。あ、、、、完全に消えた。。。。

まさに、わたしの怒りについて実験した「いかり踊りじゃあ~~っ!」と同じことが起こったのだ!

現れる現象は、やがて消えていく。
現れるかゆみは、やがて消えていく。
現れる怒りは、やがて消えていく。

それからわたしはかゆみが起こるたびに、じっとその現象が消えていくことを見守った。
眼はかくから傷がつく。粘膜の表面はもっと敏感になる。敏感になればなるほど、かゆみはまして行く。そういう悪循環が起こっていることにも気がついた。

さて鼻水はどうだ。
ずるずる流れる鼻水を、わざとほおっておいた。マスクの中で鼻水が洪水になる。それでもほおっておいた。
鼻水がでると、それが気になるから鼻をかむ。すると鼻の中の粘膜にスギ花粉がつく。それに刺激され、また鼻水がでる、という悪循環が起こっていることに気がつく。
鼻水は、粘膜を潤わせて、外からやってくる異物から保護する役割をしてくれているんだと知る。

寝ている時に、鼻が詰まって口開けて寝ることで、かゆさが出てきて、かいてしまうことも、勝手にやってくれと、まかせた。
鼻水が喉に流れてたまってしまっても、口から出すことはせず、「ええい。ままよ!」と、ごっくんと飲み込んだ(笑)。するとどうだ。飲み込んだ方が、かえってかゆさが消えているではないか。鼻水は、喉の粘膜の刺激を和らげてくれるのだろうか。

とにかく起こってくる現象に「抵抗せず、受け入れる」ということを徹底した。
あらゆる症状は、からだを保護するために、その叡智によってことごとく起こっていることを、身をもって知った。
だから症状があるごとに、「イヤだ!」とか「ダメだ!」とかおもって、なきものにするんではなく、あえて、「おお、そうきたか」と、うけてたつぐらいの心構えでいるとおもしろいことが起こる。


今でもときどき、鼻水が垂れたり、くしゃみが止まらないこともある。けれどもその時は、汗をかいて冷えたりしたときのようだ。
その状態にいちいち「えっ?まだ治ってないの??」
と、過敏に反応するのをやめた。放っておけば、自然と消えている。

気がつけば、目の前を飛んでいる花粉を見ても、
「おお!大自然の営みだ!」
と、よろこんでいる自分がいた。

鼻をオッピロゲて、春の匂いをかぐ。
春がくるのが楽しみな自分にもどっていた。

長くなりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
以上、やまんばの「花粉症治っちまった物語」でしたあ~~~。




2016年5月28日土曜日

ヒマなもんだから、次の実験開始!


石けんなし生活の実験も終えて、石けんなしがあたり前になっちまった昨今、また新たな実験に取り組んでおる。

その名も思考観察実験(笑)!

これがよー。
おもろいんだー。
ヒマなもんだから、四六時中見てるんだな。

夜中におしっこに起きたとき、
お茶入れてるとき、
仕事してるとき、
畑で草刈ってるとき、
ダンナとしゃべっているとき、
ちゃりんこ乗っているとき、

あたまの中に浮かんでいくる「考え」を、見つけて行くんだ。
「あ、今こんなこと考えてる」
って、気がついて行くんだな。

そーするとだ。
ほとーんどの「考え」の内容が、ネガティブなことばっかりなのがわかる。

ああ、まだ仕事が出来てない。やばい。
デッサン狂っとるやないかい。
新しいアートディレクターに嫌われたらいややな。
これで次の仕事がポシャったらどーしよー。
野菜は大きく育ってくれるんだろうか。
やっぱり肥料入れなきゃいけないんかな。
あ、ダンナに否定された。
こんな人生でどうしよう。。
あの人に、人間的に低く見られてるんやないやろか。
もっと有益な存在にみられるよーにするには、どーすりゃええんやろか。
なんか変なオレオレサギにつかまったらどーしよー。
このまま老後に突入したら、どーなるんやろ。。
もうのたれ死にしかない。。。。

などなど、たくさん出てまいります。
ネガティブな商品なら、事欠かないぐらい大量に持ち合わせております!
在庫豊富!
あなたも一度、つくしスーパーにぜひお越し下さい。
あなたがお探しのネガティブ商品、必ず見つかりますっ!

てな、かんじ。

よくもマーこんだけあとからあとからわいてくるもんだ。我ながら感心する。

すると、不幸って、自分の思考から来るんやなってわかってきた。
もし思考がなかったら、その人はそこで不幸を感じない。
ほげーっとしていると、あたまの中にふいに「考え」がうかぶ。

あれっ、そうだ、そういや、あれやってない。やばいやばい。
とか、

「老後」と言うキーワードが出て来ると、
「体」と言うキーワードが出てきて、
その次に「健康」とゆーキーワードが出てきて、
次は「お金」とゆーキーワードが出てきて、
「仕事」とゆーキーワードが出てきて、
「営業」とゆーキーワードが出てきて。。。。。。
そうやって、心はその言葉の中に埋没して行き、なにかしようとドタバタする。

さっきまで、ほげーっとしてたのだ。
お山をながめて、ほげっとしてたのだ。
いや、ヒマなもんだから、ネット見たのだ。そしたら、「老後」と言う二文字に引っかかったのだ。その後の連想ゲームはさっきのとおり。

不幸って、動揺って、なんてことない、こんな所からもたらされる。

それをずっとくりかえしているのが、わしなのだ。

思考ってなんなん?
「考え」ってどっからくるのん?



2016年3月8日火曜日

花粉症、その後


まわりの風景がかすんでいる。
みなさまお待ちかねの黄色い花粉到来の季節です。

やまんば、石けんなし生活5年目に入り、ひどい花粉症はどーなったか?とゆーと、ほぼ消えている。
こまかくゆーと、時々思いだしたよーにくしゃみをする。
思いだしたよーに、鼻水が足れる。
思いだしたかのよーに、目がかゆくなる。
思いだしたかのよーにのどがかゆくなる。
とゆー、いたって楽な状態。

じつは、ある法則に気がついたのだ。
それは、『症状はいっときだけである』ってこと。

目が無性にかゆくなる。
このときたいていかきむしってしまう。でも、そのかきむしったせいで、なおのことかゆみが増し、そして白目の部分が水ぶくれになって、まぶたも閉められなくなるほどひどくなり、そしてもっとしんどい状態になるという連鎖が起こっていた。

だからやまんばは、目がかゆくなったとき、その症状を見る、という事をやった。
「ふんふん。目がかゆい。それはどんなかんじ?」と。
おもしろいことに、かゆさは、いっとき、ぐわ~~~っ!とひどくなるが、ある一定の時間を過ぎると、急に収縮する。これ。これがポイント。
いっときは山場を向かえる。しかし、その後収縮する。
それがわかると、目のかゆみが来ても、「あーきたきた。」といって、放っておけるのだ。するとまもなくかゆみは消え、どっかいってしまう。

鼻水もそうだ。
ずる~~~~っとでてくる。
それを出るがままにほっておく。
それなはぜかとゆーと、鼻の中の鼻水は、いわば、鼻の粘膜を刺激する花粉の出入りをシャットアウト、または、潤滑油になってくれているからだ。
へたに「ぐしゅーん!」とかいでしまうと、せっかくの潤滑油もフタも消えてしまう。
すると敏感な粘膜に、刺激的なスギ花粉がまたまたやってきて、ますますじゅるじゅる~~~~~~~になるのだ。
だから出るままにほっておこう。。。といっても、大人はちと恥ずかしーから、
見えない程度に、鼻の中にためておこう(笑)。

ま、よーするに、抵抗しないってことやな。
起こってくる症状を、
「ひえ~~、またきた!」と、びびらないで、
「うん、そのうち消える」といって、そのままにしておく。
すると消えていくのだ。


これ、お釈迦さんも言ってるらしいっす。
色は無常である。原因や条件によって生じたものは、あくまで実体のない一時的な現象に過ぎない。

それがいつまでも続くのは、心が続かせている(こじらせているw)だけってことみたい。


2015年11月7日土曜日

スローガンはいらない



やまんばは、自然のすがたでできる野菜作りをやりたいとおもっている。

それを自然農や自然栽培や無肥料無農薬栽培とかいう。
そして石けんなし生活もしている。

どっちも、できるだけ自然な姿を生かしたいと持っているんだな。野菜と言う植物も、ニンゲンと言う大自然の体も。

でも、それが正しいと言う気はないんだ。

理屈で考えたら、シャンプーリンスを海に流すのはよくないとか、体に悪影響を及ぼすからよくないとかいうこともできる。でもそれを言ってやめさせることとは、ちと違う気がするんだな。

野菜作りも、農薬がダメだからとか、有機肥料は体によくないから、だから自然栽培なんだっていうのとも、ちとちがうんだな。

人はどうしても自分がやっていることが正しいって思いたがる。
農薬より有機肥料。有機肥料より無肥料。だからそれが正しい!と。
やまんばも初めのうちはそう思ってた。だけどそう思えば思うほど、生きづらくなってくるし、心はかたくなっていく。

でもそれって、せっかくの自然の神秘が消えちゃう気がするんだ。
自然って、ニンゲンがおしはかれるレベルにいない気がするんだな。全く違う世界を生きている。だからどうがんばったって、ニンゲンさまのおつむじゃわかりきれないとおもうんだ。

石けんやシャンプーだってそうだ。自然を破壊するからダメだ。リンスはおかあさんの子宮にたまるからダメだ。だからそれをやめる石けんなし生活は正しい!というのもちがうとおもうんだな。

これはスローガンをかかげてやるもんではないとおもう。運動にすることでもないとおもう。運動にすれば、必ずいざこざがおこる。派閥も出来る。最初のピュアな気持ちがゆがみはじめる。それは宗教だって同じじゃないか。

根源的なことだからこそ、とても見えずらく、繊細なんだ。概念的なうたい文句を必要としないところなんだと思うんだ。

ただ一人一人がじんわりと、それがだんだん好きになっていく。
それでいいとおもうんだ。

やまんばはそれが好きだからやっている。
ただそれだけなのだ。



2015年3月10日火曜日

自我さんの「問題意識」



自我は不快を見つけてくる。

けさふとんから出るのをためらっている自分に気がつく。
「さむい。でるのヤダ」
心の中で色んな言い訳をする。まだ時間がある。もうちょっとふとんであったまっていたら、気温も上がってくるかも。。。などなど。
しかし10分やそこらで気温が上がるわけもない。

そう、この色々浮かんであーでもないこーでもないと延々とくっちゃべっているのが自我さん。こいつに四六時中ふりまわされる。
コタツのコンセントを入れる。「あ、電気代がかかる。。」とつぶやき、コタツを引きずって移動させると、「あ、そのうちガタが来る。。。」とつぶやき、鼻がむずむずすると、「あ、花粉症が。。。」とつぶやき、お湯を沸かすと「あ、ガス代がかかる。。。」とつぶやく。

こーして、一日中ぶつぶつ言う。
その内容たるや、不安にさせたり、不快にさせる言葉だらけだ。
不快の次は「それが問題なのだ」と畳み掛けてくる。次は「それをどのようにか解決せねばならない」と言いはじめる。その言葉を間に受けて、「ヤバい」「まずい」「しまった!」「どうしよう」「なんとかせねば」とそれに乗っかって、行動を起こす。

他人の言葉は疑うが、自分の中から聞こえた言葉は疑わない。それは自分のものだと思っているからだ。つまり行動のモチベーションのほとんどが、不安や不快がベースになっているわけさ。

自我さんのお仕事は、そーゆー不快なものを探して来るところにある。なんでかというと、快適なものは、あまり時間がかからない。「あ~気持ちいい」で終わる。それじゃ、自分の出番が少ない。
しかーし!不快なものは、持続力がある。

これは不快である。→問題である→解決方法を見つけなければならないのであーる!
だがこの自我さんがみつけてきた解決法なんて、そこらでかき集めてきたちょろい小手先でしかないから、その矛盾が、また別の問題をも持ち上げてきてしまう。そのうちカラダもおかしくなる。するとまたそれを不快として、問題提議をする。
こーして、えんえんと問題に取り組ませる事ができるのだ。自分をえんえんと頼りにしてもらえるってわけさ。
このっ、自我のあたまのよさ!

やまんばはそんな手にゃ乗らん。
「あ、そ」で聞き流す。後ろでぶつぶつ言ってるのを聞きながら、受け取りながら、乗らない。不快が全身に押し寄せるが、はねのけようとしたり、ふりはらったりしない。そのままにする。するとほどなくして静かになる。

花粉症もそうだ。
症状を感じてビクつき、どうにか対処しようと躍起になればなるほど、ますますどつぼにはまる。
だけど、感じたものをおおげさにとらえず、そのままにしておくと、山は過ぎ去っていく。

先日も目のかゆみが尋常でなくなって、受け入れようと躍起になっていたが、ますますひどくなるばかりだった。そこで集中するのをあきらめて、ネットサーフィンしはじめた。
するとどっかの政治家が、熟年どおしで、しかも不倫で、路チューしているとゆーではないか。
「おおっ、すげー!」
とかナントカもりあがっているうちに、かゆみがどっかに消えていた。

どーもその程度の問題意識のよーだ(笑)。



2015年2月25日水曜日

お、ま、か、せ。おまかせ〜。



わしらは、自分の人生の場面場面で、目の前に起っていることを疑う。
こんなはずじゃない。
あってはいけないことだ。
あの人はどうしてあんなことをするのだ。
このままでは、わたしはだめになってしまう。
等々。

心はこういう。
どうしよう。
なんとかしなきゃ。

すると心は、「ほいきた。わしにまかせろ」と、あれやこれやと戦略を練ってくれる。
それに乗っかって、作戦通りに実行するのだ。

それが人生。


やまんばはそれを「ひょっとしたら逆じゃないか?」と疑った。

やまんばは自分の目の前に起っていることを信じる。
きっとそのことは偶然にやってきた不幸ではなく、今そのことを知ることが必要で、やってきたことだ。
そして、それに対してなんとかしようと画策する心のほうを疑う。


起ることは、起る。そこにはいいも悪いもない。ただ起る。
その次の瞬間、それを「これはいいこと」「これは悪いこと」と判断をするのが心だ。
心は「これは悪いこと」と、判断したものに作戦を練る。
「どうしよう」は、単なる動揺することばではなくて、
「この悪い状況をどうにかしよう」という意味だ。

心は、ほとんど自我に占領されている。この自我は、起ったことを疑えと言ってくる。これは恐れを抱かせることができる。恐れは、支配するのに最も使いやすい道具だからだ。
いったいだれがだれを?

心には対立する二つの意識がある。
「いいじゃあ、ないのお~」というものと、
「だめよ~ん。だめだめ」というものだ。

流れに身を任せ、おおらかに広がっていく心と、いい悪いの判断の中で、堅くなっていく心。自我は後者にあたる。自我は自分が存在していたいので、恐れをあおってこっちを向かせつづける。自我の作戦はいつもこうだ。

「それはいけないことだ。それをどうにかしなければいけない。わたしはそれを解決することができる。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。わたしを指示しなさい」だ。
どっかの種類の職業の人に似ていないか?
問題をあおり、その問題に集中させておく。人々はその問題が解決できない限り、私たちは幸せになれないのだと信じ込んでいく。

これのミクロバージョンが個人個人の中で起っている。

鼻水がだーだー流れたとき、くしゃみがとまらないとき、目がかゆいとき、いけない!と心が騒ぐのは、自我にのっとられている状況。
別の選択がある。そこに乗らないことだ。その騒ぐ心を疑ってみるのだ。そのようすをもう一人がただ見ている。疑うのは心の方。
そしてそのからだの状況を受け取る。こっちは疑わない。
するとその状況はもう『問題』ではない。起ることが起っている。

季節の変わり目だもの。からだは変化しつつ、新しい季節への調節をしているのだ。ありがたいことじゃないか。こうやって、私たちの知らないところで、からださんは動いてくれているのだ。そのおかげで生きていけるのだ。


しかしそれもやがて過ぎ去る。
すべては何かがひたひたと解決してくれている。
心がどう騒ごうが、七転八倒しようが、フンソウしようが、収まるところに収まっていく。
これは自我の策略のおかげではない。もっと大きなものが動いている気がするのだ。


やまんばはその大きなものに意識を向ける。
とても自我では考えきれないものへ、心を預けていく。

お、ま、か、せ。
おまかせ~。
(小仏川クリステル)




2015年2月24日火曜日

「欲しい」は「今ない」と言っている



たとえばわたしは、どうやってイラストレーターになったんだろう。

そもそも「わたしはイラストレーターになりたいっ!」って、頑張ったわけではない。もともと「わたしはデザイナーになりたいっ!」だったのだ。
デザイナーに憧れて、デザイナーになってあーしてこーして。。。と夢を描いてフンソーしたにもかかわらず、デザイン事務所に転職する度に、なぜかデザインの仕事はちっとも与えられないで、絵ばっかりかいていた。ちなみに飲料水のはちみつレモンの走りだった『ハチミツ通り』のミツバチの絵はわたしの絵だ。


なりたいものって、なれないんだろうか。
たとえば仕事が欲しい欲しいって思ってフンソウするけど、ちっともゲットできないのに、忘れているころ、ほいっと入ってくる。
たとえば、お金が欲しい欲しいとフンソウするけど、そのときはのれんに腕押しでも、忘れた頃にぽろっと入ってくる。

ビギナーズラックってあるじゃない。
あれはどういう原理なのだろう。

畑を始めたとき、最初の年は巨大な野菜だらけだった。なのに次の年からいきなりできなくなった。
絵本が出せたのは、絵本作家になりたいなりたいと思ったわけでもなく、ただ描いていたら、「これ、絵本にしない?」と、出版社の方がおっしゃってくださって、いきなり三冊も出ちゃった。だけどその後、ぱったりでなくなった。

これはどーゆーこっちゃ?
確かに絵本は売れなかったので、その後は出るわけもない。しかし絵本のアイディアはいろいろあるし、他の出版社で出てもいいではないか。たまたまその担当の方がいい人だったのだ、というのはもちろんだが、それだけではないなにかがありそうだ。



これは「欲」とからんでくるのではないか。
畑に最初に種をまいたとき、「大きい野菜ができろよ!」なんておもいもしなかった。
絵本のアイディアをおもいついたとき、「わたしは絵本作家になりたい!」なんておもいもしていなかった。
ただ種をまくことにワクワクしたし、絵本のアイディアを考えていることにワクワクした。
ただそれだれだったのに、それがうまいこと行ったとたん、「去年みたいにおっきい野菜ができて欲しい!」に変わったし、「また絵本が出したい!」に変わっていった。

やっぱり欲を持ってはいけないのか、という話ではない。
「○○したい」という言葉は、今そこにないと信じているのだ。

「イラストレーターになりたい」という言葉は、今なっていないことを意味する。
やまんばは、「わたしはイラストレーターになりたい」とはおもわない。すでになっているから。

引き寄せの法則で、なぜかイヤなことばっかりがいつも簡単に引き寄せられてくるのは、この原理があるからではないか。

「完全に信じているものが形になって現れる」

たとえば、やまんばの畑の野菜がちっとも大きくならないのは、「大きくなって欲しい」という言葉に言い表されている。小さい事を信じ続けているからだ。
「仕事が欲しい」という言葉は、仕事がないと信じ続けていることが現れているのだ。「お金が欲しい」という言葉は、「お金がない」と信じていることが現れているのだ。

ではどうやったら仕事やお金や大きな野菜がとれるのか。
やまんばは必死で考えた。スンゲー考えた。

その結論が今朝でた。
答えは、「ない」だ(爆)。



人の意識はそう簡単には変われない。ない、ない、ない、と信じ込んでいるものを、
「あー、そーか。わかったぞ。そんならさもあるかのようにふるまえばいいんだ」
なんてできるわけがない。
他人は外面でだませても、自分の中を自分でだませやしない。どこまでやっても絶対自分にバレる。

「ほしい」とおもっていることは、今そこにないと信じ続けていることだと、心底理解することだけなのではないか。そこまでしか私たちの頭は理解できないのではないか。そっから先の、なにが生まれてくるか、は、宇宙さんのエリアなのではないか。

わたしに絵本のオファーが来たのも、畑の最初の年に巨大な野菜ができたのも、なぜか絵ばっかり描かされていたのも、なにか宇宙の計らいがおこってのことだったのではないか。そこにはわしらのちっぽけな頭で考えつく次元のものではないのではないか。このことが「おまかせ」や「降参」や「明け渡す」ってことなんじゃないか。

自我ができることは、「欲しい」は「ない」と言っていることだと知ることまで。
そこから先は、自我の範囲を超えている。


花粉が飛び交って、やまんばの鼻をむずむずさせる。
だがやまんばはそれになにもしない。鼻もかまない。起きたことをそのまま明け渡す。するとしばらくすると消えている。
無抵抗。
起きたことを抵抗せず、そのまま受け取る。
すると宇宙は今まで気がつかなかったものを、そっと提示してくれる。









2015年1月30日金曜日

石けんは足りない心がつくる



今朝、雨戸を開けたら一面銀世界だった。外気温は2度。きのうは-4度だったから、やはり雪が降ると暖かいのだろうか。雪は外の雑音も、心の雑音も消してくれる。雪国の人々は心は静かなのだろうか。

こんな季節だからこそ、石けんなし生活を始めたいと思う人には、いいチャンス。
乾燥するこの季節に、やまんばは顔にクリームも化粧水も、手にクリームもからだにクリームもいらない。何もしていないのに、いつも肌はすべすべ。
喉もカラカラにならない。むかしのど飴を必要としてたなんて。
そういえば着替えのとき、静電気もおこらないなあ。

石けん類をからだに施すのをやめてから、日々の生活がなんてシンプルになっただろう。

あぶらがいけないからといって、それを(石けん類で)取りのぞいているうちに取りのぞきすぎちゃって、またあぶらをあとから補うアホなことを繰り返している私たち。でもそれだけじゃ終わらなくて、アンバランスな補いが、別の弊害を生み出し、もっとアンバランスになるシャレにならない現象。


この変な繰り返しの根本にあるのは、「私たちはいつも何かが足りない」という概念だ。
やまんばは石けんなし生活のなかで、人のからだはそのままで完璧なのだと知った。

「わたしはこのままではいけない。何かを足さないといけないんだ。」
という思いが私たちの心を大きく支配している。
その意識が、石けんと言うものを作り出し、シャンプーというものを作り出し、歯磨き粉というものを作り出した。その結果が、アトピーや、花粉症や、心の問題にまで発展している。



「ああ、不足感がいけないのね。じゃあ、満たされてるって思えばいいんでしょ」
というかもしれない。
これはポジティブ思考と呼ばれているものだが、これでは効かない。あっちからこっちという対極に横滑りさせただけだから。
ほんとは「足りない」とおもっているくせに、「満ち足りている」と言葉にして自分をごまかしている。

自分をいくらごまかしてもごまかしきれるものではない。他人をごまかしているのとはわけがちがう。筋金入りの検察官だ。だからうわべでポジティブシンキングしても、アファメーションしても、言い聞かせても、いいわけしても、逃げても、ぜったいにあばかれる。

石けんなし生活は、まずわたしに、このからだはそのままで完璧であるということを教えてくれた。そしてそれはすべてに当てはまるのだとヒントをくれる。

もともと心が問題を引き起こした。心がそのままではいけない、これが足りないと、石けんを作り、システムをつくり、自分や他人を裁いてきた。
でもやまんばはおもう。ほんとうは心もからだもそのままで完璧なんじゃないだろうか。今のところ、からだの完璧さを皮膚を通して知った。そしてじつはそれは心からくることも。まず心が「ひょっとしたら、からだはそのままで完璧なんじゃないか?」と仮説を立てたのだ。そのおもしろさから、実験がはじまった。
足りないものなどないんじゃないか?と広がっていったのだ。

今、やまんばは自分の心に直面している。もう太陽を54周したのだ。そろそろ見ないようにしてきた自分自身と対面してもいい年だ。

自分がなにに不足を感じているのか、そしてそれはほんとうに不足していることなのか?

日々の生活の中で、くそっぱらたつことがおこると、じっと自分に向かい合うんだ。やまんばをおこらせた相手ではなく、自分がどう反応しているか。どう感じているか。ただその感覚だけを味わう。すると消えていく感情や、隠れていた観念を見つける。
石けんも道具もなんにもいらない。ただシンプルに自分だけに向かう。
それを繰り返すうちに、今まで知らなかった自分を発見する。たぶんこれからもっと発見するだろう。

心も完璧だと仮説を立てる。答えは自分の中にあると仮説を立てる。
どんどん解放されていく自分を見つける。

お楽しみはこれからだ。



2014年12月30日火曜日

自分で作るお正月



お正月は究極の日本人文化が集約されている。
そしてまた、日本人の固定観念の集大成といっても過言ではない(おおげさだな)。

お正月は神様を家にむかえるために、きれいでなければいけない、うつくしくなければいけない、掃除しなければいけない、飾り物をしなければいけない、おせち料理はこれこれこーゆー物を入れておかねばならない、云々。

いいかえれば、もしそれをおこたると、その一年ろくな年にならないという法則(オドシ)が隠れている。
だから人々はこのクソ寒い中を掃除し、買い物に走り、大騒ぎで新年に向けてフンソーする。

このやまんばもごたぶんにもれず、そのオドシにのっかって、おととしクソ寒い中を風呂掃除をしてぎっくり腰になった。
もうそのオドシには乗らないのだ。


ことのはじまりは「こーやったら、たのしいから!」だったんじゃないか。
たのしかったもんだから、「去年のあれ、またやろう!」ってことになった。

日本人は工夫が大好きだから、
「じゃあこれは?」
「うん、いいね!」
と、次々にいろんな物を考案し、ついにダジャレもどきの料理(マメマメしくとか、よろ昆布とか、おふざけもここまでくれば、たいしたもんである)が出現し、それが膨大な量になってえんえんと続いてしまった。

いつのまにかそのダジャレが「伝統」などとゆー、おもくるしーもんになり、形ばかりを重んじるよーになってくる。

するとそうなってないと、「いいお正月がむかえられない=ろくな年にならない」法則を生む。
それ、勝手にシンドバッドでね?

どこのだれがお正月が
「きれい=いい年」
「きたない=悪い年」
と決めたのか。神様が決めたのか?宇宙の法則か?

ではどこからどこまでが「きれい」で、
どこからどこまでが「きたない」のか。

これだって、線引きしようがないではないか。
宇宙の法則はなんてむずかしーのだ!

とかなんとか。

よーするに、自分で自分の首絞めてんだな、とやまんばは考える。

もとの「たのしいから!」に戻せばいーだけの話だ。
神様だって、苦しんで自分のために準備されるよりは、おもしろがってやっている人のおうちにやってくるほーが、うれしいにきまっている。

自分で楽しんで、自分でオリジナルな伝統をつくっちゃえばいーのだ。



んじゃあ、やまんばのお正月の準備は?
たとえば風呂掃除。
11月頃からすこしずーつ、あそこのかべ、ここの洗面台、って、お風呂に入りながら洗ってた。
ひとかべつづだから、気が楽。化学薬品使わないので、はだかでできる。お湯だけでたいてい落とせる。これは石けんなし生活になってからかもしれない。かべのヨゴレは、石けん垢じゃねえか?

あとの掃除は、気が向いたら。やりたいっておもうときにやる。できなかったら、それでよし。自分の直感に従う。したがわなくてもそれでよし。
料理ももちろん、きぶん。作りたいなら作るし、作りたくないなら作らない。

「やらなきゃ」をもうやめにしたら、下から少しずつ小さな「なんか、やりたいな~」がわいてくる。
それが本来の衝動なのではないだろうか。

「ねばならない」に隠れて見えない、ほんとの自分の気持ちを見つけていこう。




2014年10月13日月曜日

「足りない族」がみつけだす「足りない問題」



私たちは足りない族だ。
「お金が足りない」
「エネルギーが足りない」
「コラーゲンが足りない」
「ハリが足りない」
「収納場所が足りない」
「ギガが足りない」
「肥料が足りない」
「アイディアが足りない」
「愛情が足りない」
「ダンナのやさしさが足りない」
足りないもの祭りじゃあ~っ!


私たちは問題意識を持てと教わってきたので、問題がどこかにころがってないかとむやみに探したがる。(ぼーっとしてるとおこられるしね)
問題が見つかると、解決に向かわねばならないという、これまた次の教えがあるので、その解決方法をさぐる。

でもその解決方法とは、外の何かを探してみてハマりそーなものをはめ込むという、その人オリジナルではなく、どっかのあつらえの既製品をもってくるので、根本的な解決にはならない。

こーして、穴が空いている(とおもわれる)パズルに、他のパズルのピースをムリヤリ当てはめて、
「ぴったしだあー」
と、ほっとする。
しかし間もなく、「なんかへんだ。。。。」
と、居心地の悪さを感じてまた他のピースを探しはじめるのだ。

いやいや。他のパズルじゃ入らんだろう。
自分のを探さんかいっ。

でも、ホントにそのパズルは欠けていたんかい?
ホントにそこ、足りなかったんかい?

何かを探したがっていただけじゃないかい?
自分の中の足りないなにかを。。。



人生のパズルは、ほんとうはその人にピッタリとすべて揃っているんではないだろうか。ないない、足りない足りないとおもったのは、外からのアイディアを拝借したのではないか。誰かがそういうふうに言ってるのをみて、テレビやニュースやネットでみて、自分もそうしなきゃとおもったのではないか。

お金もカラダも家も状況も、その人のままにぴったしある。
その人が本当に必要なものだけが、その必要に応じてやってきている。。。
やまんばは最近そう思うようになってきた。

問題を探そうとするのは、自我のクセだ。自我が自分を実感するために足りないものを探そうと躍起になっているのだ。そのクセに付き合っていると永遠に問題探しに翻弄される。だがその自我に解決する方法は見つけられない。そこからはなれることでしか解決はない。





やまんばが畑の「足りない問題」を解決するために、あらゆる農法を駆使してみたが、いっこうに解決しなかったのはそのためだ。
畑は、場所によって土がちがう。環境もちがう。既製品が入るわけがない。

だから自分のやり方を模索しはじめる。あーでもない、こーでもない。しかし悪くなる一方だった。
へとへとになって、もうお手上げだ。。。もう、ムリ。あたしにゃできない。。。となったとき、なんかのスイッチがおまかせモードに入った。
「植物さんのご都合におまかせしますう~」
野菜が変わりはじめた。


やまんばはずっと、あの土には肥料が足りないとおもっていたのだ。
肥料という概念にとらわれていた。
土そのものに植物を育てる力は足りなくて、肥料を入れないとできないと考えていたのだ。だから草マルチしたり、草をハヤカして草さんの根から、栄養を野菜さんに上げてもらおうとしていたのだ。

これは、化学肥料や有機肥料の「土そのものには野菜を育てる力はなく、栄養が必要だ」という発想とまるで同じではないか。有機肥料や化学肥料をきらっていたくせに、しっかり同じ穴のムジナではないか。それが単に炭素を入れる方法や、草マルチに変わっただけではないか!
「足りない問題」にどっぷりハマっていたのだ。

「ここにはすべてそろっているんだ。。。そうか。そうだったんだ。あたしが勝手に足りないと思っていただけだったんだ。。。!」

庭の木は毎年どんどんでかくなる。山の木は毎年どんどんでかくなる。なにが必要?なにを入れなきゃいけない?なにも。そのままで充足している。

ニンゲンのカラダだって、本当はアレコレ考える必要はないのではないか。アレコレするのが問題の原因だったんではないか。

石けんなし生活がそれを見事に証明してくれている。
すべてが充足している。
その言葉は、今ここにいる自分をまるっと肯定している瞬間なのだろう。



2014年8月18日月曜日

これからはクールスッピンだよ!



石けんなし生活は、ブログに書く気にもならないほど、あたり前田のクラッカーになってしまった。

石けんなし生活が始まった頃、お乳の分泌物がTシャツにつく、という現象があったが、そんなものとっくになくなってしまった。真っ白のTシャツ着ても、この真夏で汗かきまくりであってさえもじぇんじぇんつかない。
 
それになんちゅーか、気がついたのは、あまり暑さ寒さをびんかんに感じ過ぎなくなっていることがあるかなあ。今年も夏バテはしてないし。気温の変化を抵抗なくそのまんま受け止めている感じ。


きのう電車を待っていると、向かいのホームで60代の女性たちが、みんなウチワや扇で顔をあおいでいるのを見た。顔が熱そうだ。先日出かけた老人ホームでの盆踊りでも、一緒に踊ったきれいどころさんたちが、みんなウチワで顔をあおいでいたのをみる。

やまんばは野良仕事では顔に汗はかくけど、ふだんはあまり顔に汗はかかない。きれいどころさんのよーに、吹き出すまで汗をかいてもいない。

これってさあ、しらんけど、お化粧のせいってない?
ファンデーションって、石油?富士フィルムが化粧品作るぐらいだから、ビニールとかプラスチックで作ってたりしてね。
んでそれを顔にぬるってことは、顔にビニールを貼付けているのとあんまりかわりないんでないだろか。それじゃさぞかし暑いだろうなあ。お化粧をしなければいけない女性は気の毒だとおもう。
女に化粧しなければいけないなんてセクハラじゃね?男も化粧して顔に汗かいてみろってんだ。

やまんばは野良仕事にくのでも、銀座にいくのでもすっぴんのまま。だいたい化粧品をひとつももっていない。化粧水もクリームもなんにももっていない。それでも別に顔がコゲることなく、シミも増えていない。じんわりあふれる汗は天然の化粧水。保湿効果を高めてくれるし、紫外線にさらされることもなさそうだ。
むしろむかし石けんで顔洗ってた時の方が、すぐコゲた。

クールビズが定着しているんだから、クールスッピンも定着していーんじゃないだろか。

口紅ひとつピってつけて、アイラインピピッって引いたら、それだけでキレイに見えるじゃん。しみソバカスなんて、かわいいことの象徴!

夏はクールスッピンだよ、これからは!

2014年6月6日金曜日

誰かのマネをしてありのままをヤメるのよ〜っと。



やまんばもそーだが、人ってつねに、誰かに、何かを、教わろーとする。
テレビでも本でも方法論をいっぱい教えてくれる。

どこかに「これあれば完璧!」的な、クスリや、食べ物や、生き方や、農法や、医療や、生活習慣や、教育や、教えや、宗教や、科学や、社会があると考えている。もちろん人それぞれにあったものだから人それぞれ違う。それでその人それぞれにあった「方法論」を探しつづけるのだ。。。。。

さて、やまんばはこれまでの人生、太陽53回転してきて、その完璧的な方法論をみつけたか!?
いまのところない。
これはまだ53回転しかしていないからだとかんがえるなら、79回転してきたハハはもう探し当てたか?
とみるにつけ、どーにもこーにも見つけているフシがない。どっちかっちゅーと、混乱のまっただ中にいるよーにみうけられる。
じゃあ人生150回転くらいすれば見つかるのだろーか。






どの成功本もどの方法論も、じつのところその人にしかできなかったことであり、起こったことじゃなかったか。
二宮金次郎のあの「努力」も、彼にしかできなかったことで、彼にしか起こらなかったことじゃなかったか。
そしてそれだって、ホントにその方法論は、その人が「一生使える方法論」だったんだろうか。。。

なのにそれをマネしろといわれる。自分の人生の歩み方を人まねしろっていわれている。
成功した人はエライから、成功した人のマネさえすれば自分も成功できるって教え込まれた私ら。

これって、アホみたいじゃね?よーかんがえたら、そんなわけないじゃん。素材がまるで違う。ふざけんなよ、センコー。


やまんばもさんざん本を読んできた。畑の方法論もいっぱい読んだ。だけど結局ウチの畑のことはウチの畑の中でしかわからない。他人んちの畑の方法論を聞いたところで、同じようになりようがない。土地も土もその土地に生えている植物も、そしてそれを育てている人も、まるでちがうのだ。
ある方法を見つけて「やった!これだ!」っておもっても、次の年にはそれが崩れる。

つねに変化しつづけるのが宇宙の姿だとしたら、方法論という固定化されたものでやりつづけても、つねに裏切られることになるんではないだろうか。

方法論はない、という視点に立って生きると、その瞬間瞬間を生きるようにならないだろうか。



人は安心や安定願望がある。だから方法論や方程式を求めるのだろう。
「これさえ食べればわたしは大丈夫」とか、
「このやり方さえやっておけば安心だ」
という思いは、つねに変化していく人生を
「不安定だからいけない」とか
「不安定は怖いことだ」
という観念が心の深いところで横たわっているからなんだろうな。


そして「このままではいけない」という思いがそれではない何かを求めている。
「ありのままの~」ってゆう、最近ハヤリの歌は、その心の奥深くにひそんだ自分否定を浮上させて来るいいきっかけになっているのかもしれない。

「ありのままのすがたみせるのよ~」と歌いながら、
成功本を読んで、
「んで、誰かのマネをして、ありのままをヤメるのよ~」
とやっている。



絵:「うんちく北海道」MF新書表紙イラスト
出た〜!うんちくシリーズ北海道!
これは笑える!やまんばの友だちに北海道出身の人がいる。どっかであれ?っておもってたやまんばの知らないところをぐいぐいついてくれるのでおもしろかったよ〜ん。

うんちくさんもグラーク博士のかっこうのマネをしている。しかーし!彼は決して人まねはしない。彼独自の生き方を貫いている。人はそれこそが一番美しい姿なのだ。

2014年4月8日火曜日

花粉症、ほぼ消えちまっただよ〜ん。



やまんば、今花粉症がほとんどでない。

花粉の量は今年は少ないと言われているが、それでも我が家の目の前の杉林から放出される花粉量はハンパない。ここは砂漠か!?とゆーぐらい、砂嵐が吹き荒れる。今はヒノキ。ヒノキは重いらしく、下をはうように飛んでいく。

しかーし!やまんばはくしゃみもほとんどない。鼻水もたれない。目もかゆくない。せいぜい夜ちょっと喉をかくだけ。明け方、鼻水かタンか知らないが、黄色い粘っこい液体が喉を伝うので、それを口からだすだけだ。

石けんなし生活でずいぶん楽になった症状だったが、冬から春に向かってカラダが敏感になっていく過程で花粉症の症状が軽く出ていた。
やっぱり完全には消えないのかなあ~とおもっていたが、あるとき
「すべての問題は本人の心のテイコーから起こる」
と気がつき、症状をイヤがることをやめてみた。

すべての症状を、オッケーオッケーと受け止めた。
冬の固まったカラダが、春にむけて解放されていく。
「そんな時は敏感になるのがフツーよね~」
と、深刻に受け止めず、かゆい時はかき、かかないでいられる時は、実況中継して楽しんでみた。

そんでもって、その一番の原因である花粉が舞いまくるこの空気を
「ありがとう~!」
といって、鼻からも口からも、ずずずずううううう~~~~っと、思いっきりすいまくったのだ。だってこの空気がなかったらわしら生きられないでしょ。それを空気はいいけど、花粉はだめ、なんてえこひいきしている場合ではないのだ。


あれがいけないこれがいけないとアレコレ予防をする。
すると心はちぢこもり、カラダもちぢこもる。
テイコーはカラダを小さくする。
テイコーは心を小さくする。

ちぢこもったカラダは刺激に敏感になり、心はもっとビビる。
するともっと予防をしなければいけないと、カラダにバリヤーを張り巡らせる。いつのまにか鋼鉄のバリヤーで全身と心を覆い尽くすことになる。

これはどっちにベクトルを向けるかってことじゃないだろうか。

予防して予防して予防しまくって、ビビりまくって生きるか。
開いて開いて開きまくって、受け止めまくって生きるか。

どっちも正しい。
どっちもあなたが選択した生き方だ。

2014年4月1日火曜日

クシャミとあくび




うちの犬のユタは、かつて悪さをして怒られると、そのでっかい口をこれ以上大きく開けられないくらい大きく開けてあくびをした。
そのゴーマンな態度に飼い主としてはフンガイしたもんだが、彼は彼なりに怒られるとゆー不快さをあくびをすることで、気分を変えていたんだろうと思う。

なぜあくびをするのか。
ここだけの話、花粉症の人は(いや、きっとやまんばだけなのだろう)ちょっとその場を退屈するとクシャミをする。ほんのすこーし不快になるとクシャミをする。
ユタは怒られるとあくびをする。
やまんばは不快になるとクシャミをする。

あくびは大きく息を吸い込む。クシャミは大きく息を吐き出す。
両者は大きくちがうようだが、よく観察すると、あくびのあとは息を大きく吐き出しているし、クシャミの前は大きく息を吸い込む。
どっちも大きく息をしているとゆーことだ。

つまり不快になると大きく息をするという、生理現象を生んでいるのだ。

なんじゃこりゃ?

よく考えると、怒られたときって、息が浅くないかい?イヤ~な気分のときって、息が浅くないかい?え?意識してない?あ、そっか。じゃ、今度イヤ~な気分になったとき、息を観察してみよう。

深呼吸しているときって、あまり考え事してなくない?
深呼吸しているときは、深呼吸に集中しているからね。無意識に深呼吸してないってことだ。
だけど落ち着いていて、心がここにあるとき、まわりの景色や空気感や匂いに心おどるとき、息は深いんじゃないだろうか。

反対に、アレコレ心配したり、アレコレ策を練ったりと、心が外に向けて忙しいときは息が浅い。

やまんばはアレルギー体質で花粉症だったけど、よく考えると息が浅かったような気がする。だって、花粉が飛び散る空気をおもいっきり吸いたくないじゃん。だから、こそこそびくびく息してたんだな。

だけど最近、おもいっきり深呼吸するよーにしているんだ。すると花粉症の不快な症状が消えていくじゃないか。
なんでだろうと思ってたんだけど、これって、ユタのあくびと一緒だったんじゃないかな。

イヌは自然な生理現象をうまく利用できるけど、人間は頭で考えてしまう。花粉がいっぱい飛んでいる空気をおもいっきり吸ってはイケナイのだ!と考えて、深呼吸しない代わりに、あの手この手を使って、結局わけわかんなくなって、しっちゃかめっちゃかになっているんではないか。
だから切羽詰まったとき、クシャミとゆー方法で、なんとかからだを調整しようとしているんではないか。


浅い息は、外のものを取り込まないようにしている。いわば小さく固まった状態だ。流れが滞った川は水がよどむよーに、息の浅いカラダは外ものを拒絶して、自と他をわけ隔てるんじゃないだろうか。

反対に深い息は、内と外を絶えず交換して、きれいな空気をいただき、そして外に解き放つ。川の流れのように透き通っている。
自と他は区別がなくなり、一体となってこの世界に存在する。

そのとき花粉はダメだとか、外のものは恐怖の対象であるという観念はない。
皮膚も呼吸をしている。鼻と口だけではない。息を大きく吸うとき、きっと全身の皮膚も一緒に呼吸している。深く息を吸うとき、全身で新鮮な空気を取り込もうではないか。そして全身から放出する。

私たちは個別化されていない。
一見、個別化されているように見えるけど、ほんとうはそう見えるように『訓練』がされてきたからだ。それはまだ幼かった頃、そのように見るように教えられてきたからだ。
「これが物質とゆーもので、この世界の中で遊びましょ」
と教えられてきた「部分」だけをみているからだ。

だけど事実は、
私が息を吐けば、目の前のパソコンがそれを吸い込み、そのパソコンが息をはけば、机がそれを取り込む。

すべては大きなうねりの交換なのだ。
常に変化し続ける、ダイナミックなエネルギーの躍動なのだ。
私たちはひとつだ。どことも離れていない。
あなたの目の前のすべての風景が、あなたの世界そのものなのだ。

みなのもの、大きくあくびをするのだあああああ~~~~!
(そこ?)

2014年3月27日木曜日

わしは太陽を53回転した





人は1年が回って来るたびに、「歳をとる」とおもっている。
だが事実は、地球が太陽のまわりを1回転するだけなのだ。

だけど人は、地球が太陽のまわりを一回転すると、
「ああ、1年歳をとった」と思うのだ。

アメリカのある村に歳をとらない人々がいるらしい。
その理由は、地球が1回転するたびに「自分が歳がいく」とはとらえてないからのようだ。
だから1年がたつたびに、
「また1回転、太陽のまわりを旅した」
というだけなのだ。


おお、これはすなわち、条件づけの別バージョンではないか。

聞くところによると(どこからの情報や)、人のカラダは1000年持つようにできているらしい。だけど多くの思い込みのせいで、今のよーな寿命になったんだとさ。

時々長寿の村なんてあるじゃん。あれだって、その村のなにがしの食べ物を食べているから、とかなんとかいってるけど、ほんとは思い込みだったりしてね。
「長寿の秘訣は何ですか?」
ときくと、即座に、
「のんき」
と答える。

わしらはこれこれを食べて、こーんなに元気に生きとるんじゃ、とはいわない。(聞く側はどっかでスーパー食材を期待してるんだが)
「のんき」とか「くよくよかんがえない」とくる。しかも酒もタバコも思いっきりやってるじじいなんかいたりするのは、なんだか愉快じゃないか。

なんかね。やまんばはすべてのことが、単なる思い込みによって成り立っているよーな気がしてならないんだな。
石けんなんかなくっても生きられるし、肥料なんか入れなくても野菜は育つ。それって何でもかんでもに当てはまってたりしてねーーーー。

ジョーシキは時代によって、すぐにコロッと非ジョーシキになるでしょ。
じゃ、ジョーシキってなにかね?

だからこの村人の太陽を回転して旅をするというバージョンを採用してみようと思うんだ。事実今もわしらはこーして太陽のまわりを回って旅しているんだもん。ああ、なんて壮大な考えだ~、ううう~(一人思いにふける)。

「歳をとる」という考えは、その後ろに、カラダが衰える、思うように動かなくなる、病気になってくるしい思いをする、ボケる、人に迷惑をかける、死ぬ、とゆー、なんだかいただけない思いを一緒に連れてくる。そしてそれは現実をも創造しているんだ。

だけど「太陽のまわりを回転して旅をしている」という考えは、その後ろに壮大な宇宙を感じて、カラダが衰えるとか、病気するとかいうネガティブな思いはまったく連れて来ないではないか。
とゆーことは、意識は宇宙と自分との一体感であり、決して個人的な身体の不調との一体感ではない。

これでは歳のとりようがないではないか!

気がつけば、おお、わしは53回転も太陽のまわりを旅してきたんだなあ。。。
よし。もっともっと旅してやるぞお~!


これからは「あなたおいくつ?」って聞かれたら、
「はい、53回転です」と答えることにしよう。