ご近所にお孫さんが遊びに来ていた。
ドタドタと部屋の中をいったり来たりする音と、
キャーキャーという笑い声がお風呂場まで聞こえる。
湯船に浸かりながら、いつまでやるんだろうという嫌な気分になった。
滅多にこないお孫さんなんだから、そんなふうに思ってはいけないと思いながらも、
心はイライラしていた。
不快な気分になるときは、いつも学びのチャンス。
この状況は何を私に教えてくれようとしているのだ?
お風呂の灯りを頼りに、目をつぶって光の中に入る。
光の中で音を聞く。
楽しそうだなあ。私も小さいときあんな風にはしゃぎたかったなあ~。。
家ではしゃぐと怒られた。でもおばあちゃんの家では、やりたい放題やらせてもらってた。
幼い自分が楽しくはしゃぐ姿を思い出した。
子供がはしゃぐことは悪いことなのか?
楽しんでいることのどこが悪いのだろう?
答え。人に迷惑をかけるから。
これは大人の視点だ。
家でじっとしていなくてはいけなかったのは、大人の視点でいることを教えられてきたからだ。
はしゃぐことは楽しいことなのに、いけないことになった。
おばあちゃんの家では、それはいけないことじゃなかった。
そんなことを考えているうちに、私の心はそのお孫さんと一緒にはしゃいでいた。
楽しかったなあ、キャーキャー言って、走って、はしゃいで。ああ楽しかったなあ~。。。
いつの間にか、音はやんでいた。
はしゃぐことを、悪いこととしてみていたとき、私は彼らと分離していた。
しかし彼らの楽しさと一体となったとき、私は彼らを自然に赦していた。
赦しは、起こっている現象を消そうとすることではないのに、無意識に消すための道具にしていた。
これは赦しの中でよくある陥りがちなことだ。
被害者と加害者に分けて赦そうとする、それ自体に無理があったのだ。
この気づきで思い出したことがある。
先日旦那のオナラの臭さに辟易したときのことだ。
自分のオナラは可愛いと思うのに、人のオナラは気に入らない。
同じものを食べているから、匂いはほとんど同じはずだ。
なのにこのものすごい嫌悪感はいったいどうしてなんだ!絶対許せない!と悶々としていた。
そうだ、分離だ。
人から出るものと、自分から出るもの、という風に分けている。
でも子供達だったらどうだろう。
「きゃー、くっさーい!」と言って、きゃあきゃあ笑うだけだろう。
自分ではない、誰かさんがしたから、イヤーな気分になるだろうか。
ただただ笑い転げるだけじゃないだろうか。
自分のも人のも一緒くただ。
これは自分のもの、それは他人のもの、と分けた瞬間、苦しみが生まれる。
はしゃぐ人と、はしゃがない人に分けた瞬間、苦しみが生まれる。
オナラをした人と、オナラをしていない人に分けた瞬間、苦しみが生まれる。
でももっともっと深く心を探っていけば、
私たちは一緒に笑い、一緒に喜んでいる。
分離は、それぞれの存在感を生む。
しかしそれぞれが孤立し、欠けている感じがいつも伴う。
一体感は、実在感。
個別の意識が消え一つになった満ちてくる大きな喜びがある。
実はそれだけが本当にある、実在するもの。
さっきまでの苦悩が、跡形もなく消えているこの体験は、
実在するものがなんなのかを理屈なく教えてくれる。
もう分離を選びたくない。
そう思わせてくれる体験。
近所の可愛い天使たちに、そっと感謝した。
絵:もくれん