2021年3月30日火曜日

一緒に笑い、一緒に喜んでいる

 


ご近所にお孫さんが遊びに来ていた。


ドタドタと部屋の中をいったり来たりする音と、

キャーキャーという笑い声がお風呂場まで聞こえる。


湯船に浸かりながら、いつまでやるんだろうという嫌な気分になった。

滅多にこないお孫さんなんだから、そんなふうに思ってはいけないと思いながらも、

心はイライラしていた。


不快な気分になるときは、いつも学びのチャンス。

この状況は何を私に教えてくれようとしているのだ?



お風呂の灯りを頼りに、目をつぶって光の中に入る。

光の中で音を聞く。


楽しそうだなあ。私も小さいときあんな風にはしゃぎたかったなあ~。。

家ではしゃぐと怒られた。でもおばあちゃんの家では、やりたい放題やらせてもらってた。

幼い自分が楽しくはしゃぐ姿を思い出した。


子供がはしゃぐことは悪いことなのか?

楽しんでいることのどこが悪いのだろう?


答え。人に迷惑をかけるから。


これは大人の視点だ。

家でじっとしていなくてはいけなかったのは、大人の視点でいることを教えられてきたからだ。


はしゃぐことは楽しいことなのに、いけないことになった。

おばあちゃんの家では、それはいけないことじゃなかった。


そんなことを考えているうちに、私の心はそのお孫さんと一緒にはしゃいでいた。

楽しかったなあ、キャーキャー言って、走って、はしゃいで。ああ楽しかったなあ~。。。


いつの間にか、音はやんでいた。




はしゃぐことを、悪いこととしてみていたとき、私は彼らと分離していた。

しかし彼らの楽しさと一体となったとき、私は彼らを自然に赦していた。



赦しは、起こっている現象を消そうとすることではないのに、無意識に消すための道具にしていた。

これは赦しの中でよくある陥りがちなことだ。


被害者と加害者に分けて赦そうとする、それ自体に無理があったのだ。



この気づきで思い出したことがある。

先日旦那のオナラの臭さに辟易したときのことだ。


自分のオナラは可愛いと思うのに、人のオナラは気に入らない。

同じものを食べているから、匂いはほとんど同じはずだ。

なのにこのものすごい嫌悪感はいったいどうしてなんだ!絶対許せない!と悶々としていた。


そうだ、分離だ。


人から出るものと、自分から出るもの、という風に分けている。


でも子供達だったらどうだろう。

「きゃー、くっさーい!」と言って、きゃあきゃあ笑うだけだろう。


自分ではない、誰かさんがしたから、イヤーな気分になるだろうか。

ただただ笑い転げるだけじゃないだろうか。

自分のも人のも一緒くただ。



これは自分のもの、それは他人のもの、と分けた瞬間、苦しみが生まれる。

はしゃぐ人と、はしゃがない人に分けた瞬間、苦しみが生まれる。

オナラをした人と、オナラをしていない人に分けた瞬間、苦しみが生まれる。



でももっともっと深く心を探っていけば、

私たちは一緒に笑い、一緒に喜んでいる。




分離は、それぞれの存在感を生む。

しかしそれぞれが孤立し、欠けている感じがいつも伴う。


一体感は、実在感。

個別の意識が消え一つになった満ちてくる大きな喜びがある。


実はそれだけが本当にある、実在するもの。


さっきまでの苦悩が、跡形もなく消えているこの体験は、

実在するものがなんなのかを理屈なく教えてくれる。


もう分離を選びたくない。

そう思わせてくれる体験。


近所の可愛い天使たちに、そっと感謝した。



絵:もくれん



2021年3月26日金曜日

起こることは、起こっているだけなのか。

 



「起こることが起こっている」


この言葉は、目の前で起こっていることに翻弄される私たちの心を鎮めてくれる。


ただ起こることが起こっているだけなのだから、

それをそのままに、流れ行くままに見ているだけで良い。

そう思わせてくれる。


出来事が起こり、それに動揺するのもまた起こり。

その心の焦りが、次の行動に移させるのもまた起こり。

だからそのまま、起こるままにさせておくが良い。

それが静観することであり、心の平安をもたらす。


「起こっているけど、起こってない」


これもまた心を安心させてくれる。

目の前に起こっているかのように見える世界は、

一見起こっているかのように見えるけれども、

実は何一つ起こってはいない。なぜならこの世は幻だから。


起こっているけど、起こってないのだから、ただ起こるままにさせておく。

心が動揺するままに、心配するままに、恐れを抱くままにさせておくことが、一番の平安。


観察者の意識でそれを眺める視点で、

ただそれを川の流れを眺めるようにただ眺めるだけで心は平安の場所に居られる。



私もこの言葉を聞いたときは、ホッとした。

そうか。もういいんだ。ただ起こることが起こっているだけなのだから、何もやりようがない。

それにこの出来事は、起こることが起こっているのだから、私の責任ではない。

だから起こったことに責任は取らなくていいんだ。

淡々とその時起こったことに対処していけばいいんだと安心した。





でもだんだん苦しくなってきた。

けどこの苦しさも起こってるだけなのよね。。。とは思えなくなってきた。

そのうち、どうしてこんな出来事が起こるんだろう?と思い始めた。

どうしてこんなふうに反応するんだろう?と思い始めた。

いやいや。それも全て起こり。。。と、収めることができなくなってきた。



そんな時、コースの「あなたがそれを作った」という考えに出くわした。

「げ!マジ?」と思ったが、心のどこかで、「やっぱり。。。」と感じた。


起こることは、ただ起こっているのだから、という受動的な考えから、

起こることは、あなたがそれを起こし、

あなたがあなたに何かを教えようとしているという能動的な考え。



コースの中に出てくる画期的な考えは、聖霊の視点というもの。

聖霊といっても羽の生えたキャラではない。目に見えるようなものでもなければ、一個の独立した存在でもない。考えとでも言おうか、それは正しい心。


私たちはずっと自我の視点でものを考えてきた。自我の視点とは、恐れ、罪、罪悪感。そこから全てのものを解釈していたのだ。


一方、聖霊の視点とは、自我とは真逆の考え。

言葉は所詮自我で作られたものだから、その言葉で表すことはできないが、

あえていうなら、愛、平安、喜びからの視点。


「は?それ、ふつーじゃん。つまんねえ~」

と私は最初思った。


コースは愛を教えてはいない。それは教えるような次元のものではないから。

愛を知るのは、自我で覆われた考えが消えていくうちに、自ら立ち現れてくるものだからだ。

だから教える最初の方は、自我が何をやっているのか、だ。


「あなたがそれを作った」というなら、起こることが起こっているのは、あなたがそれを作ったからだということになる。つまり起こる出来事の責任はあなたにあると言ってのけられる。

ゲゲゲ。まずいど。


この聖霊の視点とは、これまで私が考えてきた視点とはまったく違うところからのアプローチを試みる。自我の考えしか知らない私に、別の視点があるよと教え始めるのだ。それは例えていうなら、二次元のフラットランドに住む人々に、三次元の視点を持った存在から、その視点を教わるようなもんだ。

これは観察する意識ではない。まったく違う視点。


自我が何を私たちにしているのかを知れば知るほど、イヤになってくる。

一体私は今まで何をやっていたんだ。どれだけ自我に翻弄されていたんだ!と驚く。

反面、自我のヤロウ、頭いーなーと、尊敬してしまいそうになる(笑)。



いったん形而上学的に学んだ後は、頭で学ぶというよりも習慣にしていく。

私たちが生まれてきてまもなく学んできた自我の考えを身につけていったように、

今度は聖霊の考えを身につけていくことになる。


最初はなんじゃそりゃ?って感じだけど、何かが徐々に私の知らないところで動き始める。

そしてだんだん自我の視点では決してえられなかったダイナミックな喜びが訪れ始める。


最初は「喜び?愛?平安?は?、それフツーじゃん。つまんねえ~」といってたものが、

それは自我の視点からのものだったことに気づかされる。



起こる出来事に対して、自我は、

「ほーらこの世界は残酷で無慈悲だろう~?

でもウンと努力すれば、たまにはちょっぴり幸せをやるよ」

というふうに、アメとムチでこの世界にいつまでもいさせるために使う。


一方聖霊は、

「この残酷で悲しい世界は本当にありますか?」

と、この世界がないということに気づいていくために使う。


そして私は、

「これをしでかしたのは自分、だからこれを自分は取り消したい」

と理解していくのである。



つまり起こることとは、この世界は一体どんなものなのかに気づき、

そこから目を覚ますために、起こされているのだ。





2021年3月24日水曜日

もともとないですから。

 




怒りは、人に何かをされたから怒るのではない。

自分の中の何かが触発されたから怒るのだ。


心が傷つくという。しかし心は物理的なものではない。

だから心は傷つきようがないのである。

しかし私たちは体だと思っている。体は傷つく。だから心も傷つくと信じているのだ。


もし自分が体だとは信じていなかったなら、心は傷つかない。

だからイエスは体を痛められても傷つかなかった。

なぜなら「私は体ではない」とはっきりと信じていたからだ。


私が体だと信じることは、罪悪感から来ている。

私の中に強烈な罪悪感があるから、その罪の意識から逃れるために、私はこの体に入った。

そしてこの体の中で、自分の無罪性を訴えているのだ。


罪は他人にあり、自分にはない。

そう言い続けている。


ということは、罪は自分にあると言い続けているということ。

自分に罪があると信じて疑わないから、その罪を他人になすりつけ続けるのだ。


だから人に攻撃されたと思う時、自分の中がうずく。

自分の中に、ないこととして隠しておきたい罪が浮上してくるから。


だから言い返す。「私は罪ではない!」と。

しかし相手は「私が怒っているのは、あなたが罪を持っているからだ!」という。


どちらも罪を感じている。

どちらも罪を感じてそこから逃れようと、その罪を自分以外のものになすりつけようとしている。

だから怒りは収まらない。


怒るきっかけはなんでもいい。箸が転がっただけで怒るのだ。

笑う場合もあるが。


この世界のものなら、なんでも使う。人は怒りたいのだ。

自分の中にある罪が苦しくてしょうがないから。


ほんというと、自分に怒りたい。なんでこんな苦しさを持っているのだ!と。

自分を消してしまいたいぐらい苦しい。だったら自ら消すという手もあるが、それは痛いからできない。

だからこの苦しさを人になすりつける。

「あんたが罪だから、私を怒らせた!」と。

その時だけは、自分が無罪だと主張できる(ほんとは気のせいやけど)。


鬼のような他人にいたぶられる、かわいそうな私。

罪は他人にあり、私は純粋な可愛い無垢な私で居られる。


ところがその鬼だって言い返してくる。だって鬼の方も自分の中の罪悪感が揺さぶられるからだ。その苦しさに耐えかねて、防衛という攻撃に入る。

「何よ!あんただって!」


二人の間に罪というう○こを持って、


「これはあんたのだ!」

「いや、あんたのやつだ!」

と、互いに突き返し続けている。




さて。そんな二人の間に、見知らぬ存在が入ってきた。


「まあまあ、お二人さん。そのう○こ、もともとないですから」


「へっ?」

「いや。あるじゃん!ここにこうして手に持ってるもん!」「そうだそうだ!」


「あると思ってるだけですよ」

「あると思ってる!?そんなバカな話はない!あるからあるじゃないか!」「そうだそうだ!」


「じゃあ、ないと思ってみたらどうですかね」

「は?」

「そこにう○こはなかったらどうなりますかね」


「う○こが、、なかったら?ないわけないじゃん。この人は私にあんなう○こをして、こんなう○こををして。。。!」


「だからそのう○こがなかったら」


「う。。。なかったら、、、。そうやね、そんなもんなかったら清々するね。。。

っていやいや、その手にゃ乗らん!」


「楽でしょ?」

「うん。まあ、それがなかったら、らくっちゃあ、楽かも。。。」


「そのう○こ、持ってるから、渡しっこしてるんでしょ?」

「そりゃ、それはいらんからね」


「それを渡せたら、楽?」

「そりゃあ、渡せた時は楽だ」「そうだそうだ」


「でもそれ、相手に渡したら、相手が苦しむでしょ?」

「うん。まあ、そりゃあそうだわな」


「でも相手はそれを持ったら苦しいから、それをまたあなたに渡し返すでしょ?」

「うん。。。まあ、そういうことになるかな。じゃあ、この人じゃなくて他の人に渡して、と。。」


「そうするとまたその人が苦しくなって、あなたに渡し返されない?」

「え~。。。そういうことか。。」


「あ。捨てたらいいじゃん!捨てたら、もう押し付け合わなくて済む」

「お。いい考えですね!捨てましょう!」

「そうだそうだ。もうこんなのいらない。捨てちゃえ!」


と、二人はう○こを捨てようとした。ところが手から離れない。

「これ、捨てられないよ。手から離れない。どうして?」


そのう○こを相手に渡してみる。すると相手に渡った。

渡された相手は自分で持つのが嫌だから、また相手に渡す。また渡しっこになった。


「あれえ。なんでだろう。。」

「それはあなたがそれがあると信じてるからです。あると信じているものは消せないのです」


「そのう○こを存在させたいのは、あなたが人と違うと思いたいからなのです。それは人と人とを分けるもの。汚いから自分で持ちたくない。自分がきれいでいたいから相手に渡すのです。つまりそのう○こは人と人とを分けさせるためにあるのです。

人と人と距離を置きたいから、それを存在させて、分離させるのです。」


「そのう○こを渡し続けて、いつまでも離れていたいですか?」


互いが顔を見合わせる。

「いや~~~~。そんなことはもうしたくないなあ。。」「だよねえ。。。」


「あると思いたいですか?」

「いや~。。。あるとは思いたくないねえ。」「そうだねえ。。。」

顔を見合わせた。


「いらないですか?」


「はい!いらないです!」

二人同時に言った。


その存在はにっこり笑った。

「では」

といって、う○こを手に取った瞬間、う○こもその存在も一瞬のうちに消えた。


「何?今何が起こった?」

「わっかんなーい!」



「。。。お腹すいたねえ。。」

「そうだねえ。。。今日はカレーだよ」

「わーい。やったあ!」


さっきまでのう○こ談義をすっかり忘れている二人であった。



私たちに罪という思いが入り込んだ瞬間、この世界を作った。だからこの世界は罪でできている。

けれどもその罪は思い込んだだけである。ということはこの世界も思い込んだだけである。


罪という架空のものを人に押し付けあっている間は、私たちは互いに違うものとして分離して見える。

しかしその罪というものがないと徐々に知るうちに、私たちの間にあった底なしの深い谷は、だんだん浅くなってくる。

そして人に押し付けていた罪は、実は自分のことをそう思っていたのだと知る。


怒りは、自分に罪があると信じていることを思い出させてくれる。

そしてそれを手放したいかと聞いてくるのだ。



「それはもともとないのです。

あると思っているから、あるかのごとく見えるのです。


手放したいですか?

そう思ったら、私に頼んでください。

一瞬にして消しますから。


ほーっほっほ」









2021年3月16日火曜日

たった一つの心

 


ある日、私は人から言葉をもらった。

それは私がどれだけひどい人間かを説明してくれるものだった。


私はその言葉を聞きながら、思い当たると思った。

自分の中でどんどん罪の意識が膨らんで、その場から逃げ出したくなった。

同時に怒りが溢れてきた。自分という存在が全否定されているように感じたからだ。

自分を守るため、言い返したい思いに駆られた。


しかし私は反論しなかった。

反論したところで、相手にその言葉は攻撃に映るに違いない。

そうすればそれに輪をかけて猛攻撃されることは目に見えていた。



赦します。赦します。赦します。。。

ああ、聖霊さん、あなたとこれを一緒に見たいです。。。

あなたの見方を教えてください。。。。


心の中でずっとそう言い続けた。

しかし心臓はバクバクして、体は震えていた。


自分の中に罪悪感がないなら、私はその言葉に動揺はしないだろう。

私の中に罪悪感があるのだ。

そう実感した。




この世界は私の投影でできている。

だからあの言葉は私が私に向けた言葉だ。


自分が自分自身に向かって言っている。

「お前はこれこれこういうひどい人間だ」


そして、

「だから罪深い。そういうお前には罰を与える」


私の無意識の中には罪悪感がある。

その罪悪感は折に触れ浮上し、私を罪深いものだと思わせる。それならば罰を受けるにふさわしい。

この苦しみは、今その人から罰を与えられているのだと。



自分の中にある罪の意識を自分で持つのは苦しいから、それを自分のものではないと言い張り、自分から引き離し、他人に押し付ける。その言葉を人に言わせ、「あいつはひどいやつだ」と思うことによって、自分は無実であいつが悪いということにする。


罪と罰はセットになっている。それを自分にさせるか、他人にさせるかだけの違いでしかない。どちらにしても罪があるという前提に立っている。


罪があるから投影する。だから投影は罪深いからするべきではないという次元ではなく、

そもそもこの世界は投影で成り立っている。

私が、これは私ではないと否定して外に出したものが目の前に現れているのだ。


この世界は投影だからこそ、実在しない。

お釈迦様が言ったようにこの世は夢であり、影なのだ。




そこから一歩進む。

では実在するものは何か。

「実在しない」ものがあるということは、

「実在する」ものがない限り、

そこに「ない」とは言えない。


あるものとはなんだろう。




私たちはずっと肉眼で見えるものだけにフォーカスしてきた。

常に対象物を見ている。自分と他人。自分とモノ。主体と客体。これは目に見えているもの。

五感もまた対象だ。視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚。

外にあるものを感じている。


内側に目を向ければ、感情という対象物がある。

自分の感情は見ているものだからやはり対象である。


その感情を作り出すものは、思考だ。

思考もまた、私たちは見ている。だからやはり対象。


この全ての対象が、自分ではないものとして、自分が投影したものだ。


ということはその投影したものは、私が作り上げたもの。いうならば私そのものと言える。

その私とは「罪がある」という前提によって作られたもの。自我そのもの。


自我の意識から見れば、罪が存在する。

聖霊の視点から見れば、罪などない。


罪があるならば、この世界は存在する。

罪がないならば、この世界は存在しない。


どちらを選ぶかという自由意志が私たちにはある。


私は散々罪がある方を選んできた。そして散々苦しんだ。

罪があるという考えは、いくらどれだけ徹底的に罰を自分に与えようと、消えることはない。

罪があるという信念があるかぎり。

罪を握りしめている限り、罪がないと思うことはできないのだ。

自我で罪がないことを選ぶことなどできない。そもそも自我と罪は同じことだからだ。




それならば私は罪がない方を選ぶ。

それは聖霊の視点を選ぶということ。



選ぶことはいつだってできる。

自我の視点はこれまで生きてきたあいだに身につけたお馴染みの視点。

だからいつも自動的に選んでしまっているが、聖霊を選ぶことは意志的だ。


その選択はいつでもいい。

出来事があった瞬間が難しいとすれば、その10分後でも1ヶ月後でも1年後でもいい。

いつでも今だからだ。


やってみようと思ったその時に、私は静かに座った。

その時のそのシーンをありありと思い浮かべる。


私はひどい人間だという言葉、感情、感覚を、この言葉の責任を、自分のこととして受け入れ

そっくり私の中に戻した。


聖霊と共にこれを見、それをそのまま聖霊に明け渡した。

「この思いは私はもう必要としません。あなたに捧げます。取り消してください」


私の中がだんだん光り始めた。

目の前にいた人も光り始めた。

光はどんどん大きくなって、二人はひとつのまばゆいばかりの光に消えていった。




投影は分離。これいらないと言って、人になすりつけること。

つまりは二人を完全に分けることでもある。

そう勘違いをした。人は分かれていると、ものは分かれていると、考えさえも分かれていると。


しかしもともとたったひとつの心があるだけなのだから、分離など起こってもいなかった。




あるものとは、光であり、平安であり、喜びであり、愛であり、自由であり、無辜であり、神そのもの。


自我の私には思いもつかないものだった。




エンヤの音楽が頭の中を流れる。

彼女の音楽を聴くたび、私にはいつも浮かぶイメージがある。

すべての植物が大きく螺旋を描き互いを絡ませ合いながら、

果てしなくどんどん天に向かって伸びていくイメージ。


私の中の喜びが溢れ始めた。