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2021年8月16日月曜日

自我はささやく「これダメじゃん」


 

「これ、ダメじゃん」

「え?ダメ?じゃ、こっちは?」

「それもダメ」

「え~~。じゃあどうすればいいのよ~~~っ!」

「。。。。」



「あれ、言ったほうがいい。」

「あ。やっぱり?そうだよね。言った方がいいよね」

と納得して言う。

「あれは言わない方がよかった」

「え!言った方がいいって言ったじゃん!」

「そんなこと言ってない。君が勝手にそう思っただけだ」

「え~~~やっぱり~~~?あ~~~言わなきゃよかった~~~」



これ、私の心の中の会話。

これをずっと60年近くやってきた。


心の中の声だから、私の味方だと思ってきた。

でもよくよく振り返ってみると、この言葉は私を混乱させているだけだ。


これはダメだとか、こっちの方がいいとか、意見を言いながら、最終的な答えは出さない。

じつは答えなど、知らないのだ。




自我はこの世界のことはなんでも知っている風を装う。

だから思わず聴いてしまう。

「どう?いけてる?ダメ?」


大抵ダメ出しが入る。

じゃあどうすればいいのか?と聞くと、適当なことを言う。

その根拠を聞くと、これまた適当なことを言う。

そのうちわけわかんなくなると、君がいけないのだとのたまう。


そうやって自分の中で自分に聞く、自分の中の声と話すと言う習慣をずっと続けてきた。




でもこれが苦しみの根源なんじゃないかと気づき、私はこの声を疑い始めた。


淡々と観察していると、ほとんどの内容が否定。


私の容姿についての問題点、能力についての問題点、行動についての問題点、考え方についての問題点、もちろん感情についての問題点。

視点は外にも向かう。他人の問題点、社会の問題点、問題点、問題点、問題点、問題点。。。。


問題があればそれを放っていくわけにはいかない。

それを解決するべく、解決法を一緒に考える。

これがいいかしら、それはダメよね。でもあの手ならなんとかなる。。。。


声は意見を言うだけ。やるのは私。


ところがその声はやった先から文句を言いはじめる。

それはやっちゃいけないことだったのよ、うんぬんかんぬん。。。


これ、否定しかしてないじゃん!

この声が、私を長い間苦しめてきたのだ。





ちょうどその頃、私はもう一つの「声」の存在を知り始めた。

その声は今までの声とは違う、静かで音にもならない。

ただ一瞬のひらめきを与える。


そのひらめきにハッとする。

「そうだ!そうだった。今までなんで気がつかなかったんだろう!?」

心がぱあっと開くような感覚。

何かが解き放たれていくような自由な感じ。



だから余計に、今まで大騒ぎしてやり取りをしてきた声との違いがわかる。

大声で私を否定をしてくる声と、

静かに私を肯定し、さらに心を広げてくれる無言の声。



その声はこの世界の中での具体的な行動についてなど話さない。

なぜならこの世界を見てはいないからだ。

行動ではなく、ものの見方の方向転換をうながしてくる。


「そっちの考え方ではないよ。こっちの方。こう考えたらどうだろう。。」


うるさい声はいつも胸がザワザワとし、締め付けられるような感じがするのに、

それとは真反対の考えになぜか胸踊る。



それは本当は私はそっちに属しているからなのではないだろうか。

前者のうるさい声には教えられてきたが、

後者は元々の私がいたところ。


だから教わる必要はなく、思い出すところ。

すでに知っているもの。



今日も朝からトイレの問題が起こった。

それまで穏やかだった心は一気に反転する。

私はどれだけ目に見える形象にとらわれているのかを思い知らされる。


そこにまとわりついてくるありとあらゆる観念。。。

腐っていく床、電話、修理、過去の嫌な思い出、、、、。

自我はささやく「これダメじゃん」

噴き出す感情。



心の訓練は続く。。。




絵:「カブトムシとクワガタの最新科学」/新書表紙イラスト
縄張りをかけて戦う自我の戦い?



2021年7月27日火曜日

罪をゆるすって?


 


コースのゆるし。

この独特のゆるしはかなり難しい。

自分なりに理解してきたことを書いてみたい。

まちがってたらゆるして。



ゆるすことは、一般的には人が罪を犯したことに対してゆるすことを言う。

これは人がする行為の中の一つ。


だがコースは、ゆるしをそのようには位置づけない。

この世界から自由になるための唯一の手段が「ゆるし」だという。

えらい大きく違う。めっちゃ重要やないけ!



「お前は罪を犯した。だけど私は寛容だ。だから私の心の大きさに免じてお前をゆるしてやろう」

と言うのがゆるし。

とまあそこまできつい言い方をしなくても、日常的にはこう言う言い方をする。


「もう~。しょうがないわねえ。ゆるしてあげるわよ」


言い方は違うが、実は最初の言葉と同じ。

君は罪は犯した。罪はある。あるけれど、ゆるす。


ゆるしとは基本そう言うものだと信じてきたが、これは自我の考えるゆるしなのだ。



コースのゆるしは違う。

そもそもそんな罪などなかった。だから、なかった罪をゆるす。


この世に罪は実在しない。ゆえにゆるすのだ。

これが聖霊のゆるし。


ちょっとピンとこないですよねえ(笑)。




コースは世界は実在しないという。

これはお釈迦さんもいってるけど。


つまりこの世は実在しない説でいけば、当然罪も実在しないわけだ。


「だって、やったじゃん!あんた、私にこんなことしたよねえ!罪あるじゃん!」


見ちゃったんですから。

じぇったいやってますよねえ。

だって私がそれ、見ちゃったんですから!


実はそこなのだ。

見たからある。




自我はそれ見たぞ!と言って大騒ぎする。

自我のゆるしはその「見た」ものを無理やりゆるす。

本当はゆるしてないけど、心が広いフリしてゆるしてあげる。


見たと言うことは、それが外にあると思うのが自我。

罪は外に実在すると確信している。

あるから見るのだと信じている。




しかし聖霊は、逆からのアプローチをする。

見るからあるのだと言う視点に立たせる。


あるから、見たのではなくて、

見るから、あるようにみえているのだ。

そうあなたが知覚したのだと。


意識をこちら側に向けさせる。

知覚の原因を自分の側にする。


量子力学でも出てくる話と同じ。

存在しているものを見ているのではなく、見るからそこに存在させる。






自我はゆるしを一人でやる。


しかし聖霊のゆるしは、自分一人ではやらない。

だからこそ、わざわざこう宣言をする。


「あなたを、聖霊とともにゆるします」


私たちは当たり前のように自我の視点でものを見ている。

それを自我ではなく、聖霊の視点からものを見るために、そう宣言するのだ。



そして、実はもう一人ゆるす。

もう一人とは、その罪を見た自分自身のこと。


「それを知覚した私を、聖霊とともにゆるします」




いくら外に罪を見ようとも、その知覚をしたのは私自身。

あるから見るのではなく、見るからそこに存在させたのだ。


つまりそこに罪を見た(存在させた)のが、私自身なのだから。



本当はないはずの罪。


だからこそ、そう錯覚した自分自身をゆるしていく。


メインはこっち。

自分の中に無意識に感じている罪の意識を、

自分自身がゆるして解放させていく。

聖霊と一緒に。





そうやってゆるしていくうちに、

目の前に輪郭を持って見えていた罪が、だんだん希薄になっていく。

重く固形化していた罪が、気体になって煙のようになっていくのが感じられる。


本当にそんなものあったのだろうか。。。

そう思い始める。




罪など実在しない。


その言葉が、知識ではなく体験を通して知り始める。





絵:新書表紙イラスト「なぜ取り調べにはカツ丼が出るのか?」
実は聖霊がカツ丼なのか?



2021年7月15日木曜日

こうである必要はない


明け方、大雨が降っていた。

目の前の川が氾濫するのではないかと、いつもなら怯える。

だけど先日の言葉があった。


「あなたが不安である時、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、

こうである必要はないと知りなさい」



ただ自我が、おそれを吹聴しているだけだ。

その言葉には何の力もない。


だけど心には力がある。


それは神の子の機能、創造する機能の一部が、

作出という形で表される。

だから自我によって吹聴された恐れを心の作出能力が作り出す。

そういう仕組みになっていると、明け方に教わった。


だから恐れは本当は機能しない。

だけどそれを受け入れた心がそれを生み出し、表してくる。

だから恐れたことは正しいと思わせていたのだ。


心と形が連動するのはそこだ。


だから心を変えていく。

恐れを自我の戯れだと気づき、関わらない。

恐れを許していく。


こうである(恐れがある)必要はない。



安心の中で再び眠りに落ちた。

目がさめると、雨は上がっていた。





絵:雨上がりの庭園

2021年6月12日土曜日

何にヤられているのか。

 


何にヤられるって、自分にヤられるんだ。


「自分の中に、監視する誰かがいて、いつも私に指図するの。。。」

一緒に散歩しながら彼女は言った。


「それ、脅してくるんでしょ。ボーッとしてるな!何にもしてないと、ろくな目に合わんぞ!とか」

「そうそう!バチが当たるとかね!」

「わかる~~w」


「そもそもさあ、そのバチを当てる神様って、どうなん?

そんな了見の狭い神様って、本当の神様かなあ。。。神様ってそんなもん?」

「いや~。違うと思う。。。神様は何でも受け入れてくれる優しい存在じゃないかなあ。。」


私たちは、神様ってすごく優しい存在だと信じながらも、

自分が何もしていないと、いきなりバチを当ててくる存在にする(笑)。


私たちの中に、トコトン優しい神様と、怒る神様を二つ持っている。

トコトン優しい神様は怒るだろうか。


トコトンやさしいから、怒る?

いやいや。トコトン優しいなら、怒るはずがない。


この言葉は矛盾している。半分妊娠している、みたいな。




怒る神様なら、時には優しくなだめすかして、私たちをコントロールするだろう。

なぜなら怒るのは、その神様の意に反したことをすることが気に入らないからだ。


神の意に反したことをさせない、つまりコントロールするためには、

なだめすかしたり、褒めちぎったり、脅したり、不安にさせたりしながら、

自分の持っていきたい方向に持っていくだろう。


でもトコトン優しい神様なら、怒ることなどするはずがない。

なぜならコントロールするという考えさえも浮かばないからだ。

ひたすら私たちを愛してくださる。


たとえ間違った方向に行っても、それを力づくで正しい方向に持っていくためにさとすのではなく、自分がその間違いに気がつくまで、陰ながらありとあらゆる方法で、優しく手を差し伸べるだろう。



私たちがバチを当てる神様を作ったのではないだろうか。

神様ではなく、エンマ様。


そのエンマ様はいつでも裁く、批判する、脅す、懲らしめる。自分で自分を見張るために。

それは自分が「自分を見張ってないと間違ったことするぞ」って信じているから。

だからそんな監視人を自分に与えた。


でも頭の中にいるだけの存在。頭の中でいつも囁くだけなのだ。

その声を聞くたびに、私たちは震え上がる。


「おーっと!ヤバイよヤバイよ。

ぼーっとしてる場合じゃないよ。

遊んでいる場合じゃないよ。

なんかやらなきゃ!なんかもっと建設的な何かを!」

そうして日々何かに追い立てられるように忙しく走り回る。


エンマ様にバチを当てられないように。


私たちはその、自分の中で聞こえる声に、ヤられているのだ。


続く。



絵/新書表紙イラスト 「途方にくれる働くアリ」

2021年6月8日火曜日

道で人とすれ違う

 


久しぶりにテレビのスイッチをつけた。

7時のニュースを見たら、恐れでいっぱいだった。


トップニュースはコロナであり、次のニュースもコロナであり、ついで次もコロナ関連であり、そしてコロナで。。。


何じゃこりゃ。

夕食時にこんなもの見ながらよくご飯が食べられるもんだ。

いや~な気分になり、とてもご飯を食べる気にならなくなり、途中で消した。

とたんに静寂が戻り、穏やかな気分で食事ができた。



「テレビなんか見たらバカになる!」と言われてた頃があった。

あれから何十年たっただろう。

気がついたら、テレビが私たちの生きるお手本になっていた。

「テレビが言うんだから、間違いない!」と。



滅多に見ないからこそ、外から引いてみられることもある。

まるで「恐れなさい、恐れなさい、そしてもっと恐れなさい。」

って言われているように見えた。





道ですれ違っても、山道で人と出会っても、その存在にビクッとする人もいるだろう。

できるだけ接触しないように警戒しながらすれ違う。

挨拶もできない。飛沫が飛ぶから。


目の前の人が敵(コロナ)かもしれない。

いやもしかしたら、私が敵(コロナ)で、人を攻撃(感染)してしまうかもしれない。。。



今までは被害者でいて、加害者は自分の外にいた。

でも今は、自分が加害者なのかもしれないという思いにさいなまれる、そんな時代。


他人も脅威だが、自分さえも脅威なのだ。恐れはますます人と人とを離していく。


こんなに他人を拒絶した時代があったろうか。

コロナは、人と人とを離すことになった。





だがよく考えてみると、人に接触をしないというのは、思いやりの行為。

マスクをするのも、感染しないためでもあるが、人に移さないようにという思いでもある。


一見人を引き離す拒絶のように見えるものも、

もう一つ別の面から見れば、相手に移さないための愛の行為。

互いが思いやる心。


恐れの後ろに愛があった。



高知に帰って、母に会いにいくのも愛の行為。

高知に帰らず、母に会わないのも愛の行為。


行為は真反対なのに、心は同じ思いであることに変わりはない。




同じ行為でもその捉え方によって、幸せにも不幸にも感じる。


道ですれ違う時、すっとよける自分の行為を、

拒絶という恐れで行うのか、

思いやりという愛の想いで行うのか。


この世界の原因は、心。

心が思っている方向に、現象という結果が現れている。


心が愛なのか、恐れなのか。

どっちを向いているかで、その人の幸不幸が決まる。



私は愛の想いを選びたい。


喜びで、人とすれ違いたい。




絵/夏の草(和紙)