2014年10月28日火曜日

自慢する土俵がちがうとちぐはぐな会話になる




11月4日〜11月12日 in 大阪

「見てみろよ~。ムシに食われて散々だぜ」
近所の畑のオヤジさんはグチる。育てている白菜の中にムシがわんさかいて、それをとるのに忙しいようだ。

やまんばの白菜は、ムシに食われなくなった。いつもは苗の時によくコオロギに食われたが、今年はまったく食われない。イモムシ系はもともとほとんどいない。いつもバカにされるので、ここぞとばかり自慢した。

「うちはねえ~、ムシいないよ~」
と、やまんばは胸をはる。
「へえ~、いねえんか」
すごいなあ~と、感心されると思った。
しかしオヤジはにやっと笑って、
「おめえ、ムシが食わねえ野菜なんか、、、、ってことだぜ」
と言った。

げげげー、自慢したつもりが、ムシが食わねえ野菜なんか、食えたもんじゃねえぜと言っているのだ!

オヤジさんは、「ムシに食われて散々だぜえ~」と言ったのは、なにげに自慢していたのだ。
「おれの白菜はムシが食うほどうまい」と。

やまんばはムシがいなくなるということは、それだけ土に肥料がなくなって、野菜が自分のちからで育ちはじめ、ムシを寄せつけないほどに強くなったという意味だった。

これはねえ。ふたりの自慢する土俵が同じ土俵でないとゆーことだ。

1:オヤジさんはムシが来ることが自慢。
2:やまんばはムシが来ないことが自慢。

自慢とは、共通の価値観があってこそ成り立つものなのであーる。んで共通の価値観がない場合は、なんともちぐはぐな会話になって、空気をかき回しているよーな心もとないもんになるのである。

んで、やまんばは、このブログでエアー演説をぶっこく。

「おめえ、ムシも食わねえ野菜って、スンゲー甘くって、濃厚な味なんだぜ!」


展覧会のインフォです。
つくしは、10、11、12日と在廊しています。




2014年10月25日土曜日

あとで何言われるかわからないから例年どおり



「こないだ町内会の打ち合わせにいってきた。聞いたよ、あの言葉!
『あとで何言われるかわからない』
やっぱり言ってたよ~。」

やまんばが町内会で『あとで何言われるかわからない』を連発していたのが不思議だったって彼女に話したら、彼女の町会でもそういってたのを聞いてウケていた。

「んでね、『例年どおり』とも!
でもさあ。それじゃ、私たちが集まる意味ないじゃない」

たしかにそーだ。例年どおりで行くんなら、わざわざ集まって話し合いもないじゃないか。例年どおりでそのまんまやればいい。

だけど、すべてはあとで何言われるかわからないから、例年どおりの内容を、例年どおりに集まってやるのだ(笑)。

あとで何言われるかわからないってのは、あとでなんか言われたくないって意味だ。
あとでなんか言われたら、自分が傷つくからだ。
んで例年どおりにすると、あとでなんか言われたとき言い訳できる。
「だって例年どおりやったんだも〜ん」って。
やっぱ自分かわいさだあ~。



そんでもって、あとで何言われるかわからないってのがおもしろい。
きっとその人は、あとでなんかぶつぶつ言ってたんだろうな。自分がぶつぶつ言うくらいだから、きっと他人も自分に向けてなんか言うに違いないと仮定する。

量子力学的に言えば、信じるものはそのように見えるわけだから、あとで誰かがぼそっとケチをつけてくるのだ。その瞬間に「ほーら!おれの予測が当たった。やっぱそーだ。!」となる。(ホントの犯人は君だよ、ワトソン君)

他人の目を気にすることって、自分が他人に向けてやってることをモデルにして、自分がやっているんだから他人もやるだろうって信じて、そのように見ているわけだ。
だからこの世は鏡って言われるんだな。

ってことは、こんなふうに想像できるやまんばは、そーとー意地くそが悪いって自分でバラしているってことだ。
ホントはそーとーいじわるばばあだぜ、わしゃ。



むかしは娯楽が町内会の行事しかなかっただろうが、今はちまたにエンターテイメントがあふれている。
町会の行事はみんな渋々やっているのがわかる。あとで何言われるかわからないから。でもそんなものを変えていく時期なんだろうな。

町内会でかかわるうち感じた。クリエイターは、破壊者だなって。例年どおりは創造的ではないもの。やまんばは自分をそーとー保守的だと思ってきたけど、そんなもんじゃなかったなあ。みんな、ちょー保守的だ。

この世は刻々と変化し続けているんだ。
もの作るには、いったんそれを破壊しないことには新しいものは作れないんだな。
創造って恐ろしーもんだね。


2014年10月24日金曜日

自分かわいいが自然なのだ。



やまんばはへんなことに気がついた。

人に攻撃されたと思うと、攻撃仕返すよね。
人に認められたいと思うから、仕事頑張っちゃったり、いいことしたりするよね。
人に尊敬されたい、憧れられたい、人を喜ばせたい、人からの攻撃から身を守りたいって思う理由ってなんだろう。

自分のこと考えてるんじゃないか?

ぜんぶ、自分のためにやっているんじゃないか?

するとね、こういうんだ。
「いやいや、それは自己チューだ」
「いやいや、それは自分勝手だ」
「いやいや、それは自分かわいさだ」
あってはいけないことのように打ち消す。

それは不自然なことなんだろうか。
私たちはその言葉がじゃまをして、自分を見ることを見失う。自分のためにやることなんていけないことだ。自分かわいさにやる人はもってのほかだと。
たしかにそれはある。しかし一部だ。そんな人を見たからそういうだけだ。


やまんばもそうだったけど、「私自分のことがきらいです」と言う人は、本当に自分がきらいなんだろうか。
きらいなら、人に攻撃されても反発しないんじゃないか?きらいなら、物質的にも精神的にも傷つけられることに抵抗しなくてもいいじゃないか。そのままやられっぱなしで、この世からいなくなればすむことじゃないか。

でもちがうよね。傷つけられたとおもうと、おもいっきり抵抗するよね。それって、自分を守っているんじゃないのか。
守る自分って何?
ほんとはすごく大事に思っているんじゃないか?自分のことを。
本当は自分が大大大好きなんじゃないか?


でも頭は「自己チュー」や「自分かわいさ」という卑下する言葉のために、愛してるなんて口が裂けてもいえないから、自分の悪いとこばっかり探して、自分のお尻叩いてるんじゃないか?もっと頑張れ、もっと働けってひたすらムチ打つ。
でもそれによってみんな心が病みはじめた。。。


やまんばはもうその世界の中にいるのはやめる。
そこにいても自分が小さくなっていくだけで、ほんとうの自分に出会えない。ほんとうの自分に出会うためには、まず自分を愛することからなのだ。だってそれが自然な姿だもん。

やまんばはきのう、自分で書くブログが、「私はひとかどの人間である!」と、主張したいために書いていることに気がついた。ひえ~、かっこわる~、はずかし~っ!と。

だがしかーし!それも受け入れるのである。
みっともない自分、カッコしいの自分、人にえらそーに言う自分、人に向かって言えずに、エアー演説する自分。それも自分だ。かわいーじゃないか。愛するのであーる。

とゆーことで、ブログは続くのであった。



2014年10月23日木曜日

やまんば、自分のかっこ悪さに気づく。。。orz



やまんばはエアー演説する。(注:エアー演説とは、相手に面と向かっていえない言葉を、心の中でえらそーに演説すること)

コリャナンダ?と考える。
認めてほしーのだ。自分の存在を認めてくれと訴えているのだ。
ソンケーされたいのだ。大事にされたいのだ。特別扱いしてほしーのだ。スペシャルな人間に見てもらいたいのだ。うらやましがられたいのだ。

エアー演説は、「私はひとかどの人間である!」と主張したいんだろうな。でも面と向かって口で言えないから、心の中で演説ぶっこく。
きゃー!かっこわる~!

でもさ、その矛先は「他人の目」でしょ?
他人にどう見られているかを気にしているんだよね。

ブランド品着るのも、自分が気持ちいいからとはいうものの、その心の奥に「みっともない格好はできない」と言うおもいがある。それは、人は「自分をどう見ているか?」って気にしているってことだ。ブランド品着れば、お金持ちに思われるし、うらやましがられて気持ちがいい。
いい人であろうとするのも、心が清々しくなるってこともあるけど、その心の奥に「いい人に見られたい」というおもいもある。後ろ指さされたくないというおもいもある。

わしらは何でもかんでも他人の目を気にする。部屋が汚いか、服が汚れているか、太っているか、健康か、流行の服を着ているか。。。
気持ちいいから、好きだから、だけではない、他人の目。



ところが、他人はそこまで他人のことを気にしていない。
もっぱら自分のことでいっぱいいっぱいだ。

ところが、その自分のことというのは、やっぱり「人にどう見られるか」なんだ!(爆)


認められたい、受け入れられたい、大事にされたい、スペシャルな扱いをされたい、尊敬されたい、あこがれられたい、うらやましがられたい、たい、たい、たい。

みんな自分のことを考えているんだけど、その内容は「他人の目を通した自分」にだけ焦点が当てられている。これは本当に自分のことを考えているんではないね。


やまんばが絵を描くことだって、世間様に認められたいからだ。
個展やるんだって、どーだ!っていばりたいからだ。

あ。。。このブログだってそーだ。
「やまんばはちょっと考えてるぜえ~」って、言いたいのだ。
それは「やまんばってすご~い!」って、ソンケーされたいのだ。

ひえ~~~っ、かっこわる~~~~。
どないしょー、自分のかっこ悪さに気がついてしまった。。。
どーしたらいいの。。。?


2014年10月22日水曜日

同じところをぐるぐる回されてね?



わしらはどこへ行こーとしているんかね。

政治家が自分のウチワ作ったことで降ろされる。
これをこき下ろす人も自分のウチワ作ってたりしてるけど、それにはなぜかゲンキューされなかったりして、他人がウチワ作ったことだけ怒ればいいらしい。

こっちでものすごいひどいウイルスが蔓延しているとテレビやネットがおおさわぎしたかとおもえば、あっちの方で、もっとすごいのが蔓延しているといって、またおおさわぎする。

するとこっちにあった、ものすごかったウイルスは、どこへいったかとおもうと、しらないあいだに「解決」されているらしく、まったく報道されなくなる。
あっちのウイルスもしばらくはニュースを賑わせるが、そのうち別の事件が起こって、しらないあいだに「解決」されていくのだろう。
ウチワの政治家もしらないあいだに「解決」されていくのだろう。

わしらは問題を見つけてはそれに釘付けにされ、どーなったかとハラハラし、それが「解決」すると、ほっと胸をなで下ろす。そしてまた次の問題に釘つけにされる。


なんかへんでね?
ずーーーーーーーっと、何か意識をどこかに釘付けにされてね?
同じところをぐるぐる回されてね?

ニュースは単なるドラマとかわりなくね?
むかしよりはるかにアナウンサーは感情にうったえるよーに報道してね?
単なるエンターテインメントと化してね?

ネットじゃ、ウイルスも、いろんな事件も、作りもんだといいはじめる。
でもそのネット情報だって、作りもんかもしれない。
だいたいニュースでなんか言うと、ネットで真逆のことを言う。
これはインボーもんというよりは、ニンゲンの心理として、そういいたくなっちゃう、みたいな次元ではないか。
真剣に吟味するほどのことかいの。
どっちにしたって、情報にふりまわされていることに変わりはない。


わしらはもともと作り物の中に生きているのかもしれない。
あれもこれも真実であって、ほんとは真実ではなくって、であるからして、ぜーーーんぶ、真実なのかもしれん。(なんじゃそりゃ)

ぐるぐるしているのに気づかされるってことは、なんか教えられてね?
この世は自分の視点で出来上がっていて、それはあなたがいかようにも遊べる空間として与えられているとしたら。。。

どこへいくも何も、自分の中で遊んでいるってことだったりしたら。。。

じゃ、やまんばはどんな現実を選んで遊ぼうか。
あなたはなににする?

2014年10月17日金曜日

んまー、ご親切な方々!



ものを売ろうと思ったら、この手がいい。

Aという商品を売ろうと思う。
しかしすでにみんなはBという商品を日常的に使って、こと足りている。
そこでこーゆー話を持ちかける。
「知ってますう~?」
と、Bの欠点を教えるのだ。

「えっ、そうなの?」
ほら、くいついた。

そこですかざす、Bのその欠点がいかに問題か、そしていかにカラダに悪い影響を与えるか、などなどをこそっと教えるのだ。
「え~~~~っ、どーしよー。。。」

教えられた人はもうその商品が使えなくなる。動揺する姿を目視する。
ここから本題だ。
「ご安心ください。じつは。。。。」
と、隠してあったAをもちだす。
あなたはそれを買わずにはいられなくなる。。。。ふっふっふ。

これは商品だけじゃなく、Aというシステムといいかえてもいいし、Aという宗教でもいいし、Aという法案でもいい。

な~んだ、これ。デーヴィッドアイクの「問題→反応→解決」と同じじゃん。
『陰謀論』というと、どでかいなにがしが問題なのだ!というけれど、よーするにわしらの日常の中に、ふつーにあるのだ。

コマーシャルでもその手はいっぱい使われているでしょ。テレビだってそんな特集をわざわざやって恐ろしがらせる。んで、その解決方法は。。。。と、ご親切に教えてくれる。
んまー、ご親切な方々!



ところが、そのBの欠点とは、いかようにでも解釈できるものだったりする。よくAとBを照らし合わせてみると、五十歩百歩だったりする。問題定義をだされたとき、それが本当に問題であるのか、よく吟味することだ。

じつは肝心の問題は、その問題を提示されたとき、パブロフの犬のように、自動的に「いけない!」と反応する自分に気がついてないことだ。
だからそのまま連れて行かれる(笑)。

この世には、そういうパターンがそこら中に転がっているのを知っておくのもいいかもでござる。





2014年10月14日火曜日

個展のお知らせ「BOOK COVER'S WORKS by TSUKUSHI」




個展やりま~す。
大阪で~す!

気がつけばメディアファクトリー新書で表紙のイラストを制作させていただいてから、なんと100冊を越えました!

新書といえば、眉間にしわ寄せたオヤジが、満員電車の中で読むお固~い本というイメージだが、ここメディアファクトリーの新書は、エンターテインメント満載の、今一番ナウい話題を軽い感じでパパパッとゲットできる、楽しい新書シリーズなのです。

オヤジの本当のモテ期は40歳からなのだ!という真実を語る本や、本当は古文や川柳や仏教は、エッチなんだぜえ~~~~っ!という驚きの書籍まで(どれもいやらしーじゃん)。。。

あ、いやいや、それだけじゃない。鉄ちゃんが泣いてよろこぶお宝内容の本、数学や、科学や、生物学や、歴史上の人物の秘話や、お金の育て方や、社長さんの失敗談や、チョー簡単にやせる方法などなど、かしこい女子やオヤジになれるあらゆるエンターテインメントが満載のシリーズなのであります。


11月4日から12日まで(9日休)大阪、イラストレーターの老舗ギャラリー「センティニアル」で開きます。
その新書表紙の作品群の中から選りすぐりの、つくしの世界観がもろに(?)出ている絵をチョイスしてみました。18点ほど展示します。

会場にはその今までの新書全部を展示する予定なので、この機会にぜひお手に取って内容を楽しんでいってください。きっとそのあと本屋さんにチョッコーすることまちがいなし。


つくしは10日、11日、12日と在廊しております。
ぜひお越し下さ~い。おまちしております。


2014年10月13日月曜日

「足りない族」がみつけだす「足りない問題」



私たちは足りない族だ。
「お金が足りない」
「エネルギーが足りない」
「コラーゲンが足りない」
「ハリが足りない」
「収納場所が足りない」
「ギガが足りない」
「肥料が足りない」
「アイディアが足りない」
「愛情が足りない」
「ダンナのやさしさが足りない」
足りないもの祭りじゃあ~っ!


私たちは問題意識を持てと教わってきたので、問題がどこかにころがってないかとむやみに探したがる。(ぼーっとしてるとおこられるしね)
問題が見つかると、解決に向かわねばならないという、これまた次の教えがあるので、その解決方法をさぐる。

でもその解決方法とは、外の何かを探してみてハマりそーなものをはめ込むという、その人オリジナルではなく、どっかのあつらえの既製品をもってくるので、根本的な解決にはならない。

こーして、穴が空いている(とおもわれる)パズルに、他のパズルのピースをムリヤリ当てはめて、
「ぴったしだあー」
と、ほっとする。
しかし間もなく、「なんかへんだ。。。。」
と、居心地の悪さを感じてまた他のピースを探しはじめるのだ。

いやいや。他のパズルじゃ入らんだろう。
自分のを探さんかいっ。

でも、ホントにそのパズルは欠けていたんかい?
ホントにそこ、足りなかったんかい?

何かを探したがっていただけじゃないかい?
自分の中の足りないなにかを。。。



人生のパズルは、ほんとうはその人にピッタリとすべて揃っているんではないだろうか。ないない、足りない足りないとおもったのは、外からのアイディアを拝借したのではないか。誰かがそういうふうに言ってるのをみて、テレビやニュースやネットでみて、自分もそうしなきゃとおもったのではないか。

お金もカラダも家も状況も、その人のままにぴったしある。
その人が本当に必要なものだけが、その必要に応じてやってきている。。。
やまんばは最近そう思うようになってきた。

問題を探そうとするのは、自我のクセだ。自我が自分を実感するために足りないものを探そうと躍起になっているのだ。そのクセに付き合っていると永遠に問題探しに翻弄される。だがその自我に解決する方法は見つけられない。そこからはなれることでしか解決はない。





やまんばが畑の「足りない問題」を解決するために、あらゆる農法を駆使してみたが、いっこうに解決しなかったのはそのためだ。
畑は、場所によって土がちがう。環境もちがう。既製品が入るわけがない。

だから自分のやり方を模索しはじめる。あーでもない、こーでもない。しかし悪くなる一方だった。
へとへとになって、もうお手上げだ。。。もう、ムリ。あたしにゃできない。。。となったとき、なんかのスイッチがおまかせモードに入った。
「植物さんのご都合におまかせしますう~」
野菜が変わりはじめた。


やまんばはずっと、あの土には肥料が足りないとおもっていたのだ。
肥料という概念にとらわれていた。
土そのものに植物を育てる力は足りなくて、肥料を入れないとできないと考えていたのだ。だから草マルチしたり、草をハヤカして草さんの根から、栄養を野菜さんに上げてもらおうとしていたのだ。

これは、化学肥料や有機肥料の「土そのものには野菜を育てる力はなく、栄養が必要だ」という発想とまるで同じではないか。有機肥料や化学肥料をきらっていたくせに、しっかり同じ穴のムジナではないか。それが単に炭素を入れる方法や、草マルチに変わっただけではないか!
「足りない問題」にどっぷりハマっていたのだ。

「ここにはすべてそろっているんだ。。。そうか。そうだったんだ。あたしが勝手に足りないと思っていただけだったんだ。。。!」

庭の木は毎年どんどんでかくなる。山の木は毎年どんどんでかくなる。なにが必要?なにを入れなきゃいけない?なにも。そのままで充足している。

ニンゲンのカラダだって、本当はアレコレ考える必要はないのではないか。アレコレするのが問題の原因だったんではないか。

石けんなし生活がそれを見事に証明してくれている。
すべてが充足している。
その言葉は、今ここにいる自分をまるっと肯定している瞬間なのだろう。



2014年10月11日土曜日

KYM(空気読み名人)卒業だ!



「近所でとってもステキな生き方をしている方がいるの。あなたもぜひお聞きにならない?」
と見せてもらったチラシは、エネルギーの節約やちょっとした工夫でゴミが減らせる環境に配慮した、自分目線のやさしい生き方の提案の集いのお誘いだった。
少しでも環境にやさしく、少しでもカラダにやさしい、少しでも地球のお手伝いになるような、ものすごく「正しい」生き方をなさっている方だった。

誰がみても今の誰もが絶賛する、とてつもなく正義の味方の、非の打ち所がない生き方。やまんばはそんな集いいけるわけがない。

いつもなら
「あっ、ステキですねえ。うかがえたらうかがいますう~」
などとテキトーにその場をごまかしていた。
やまんばはこれでも空気読み名人なのだ(うそつけ~、こら)

だけどもうそれを止めるのダ宣言をしてしまったのだ。ショージキに言うしかない。
「そんなところにいったら、私、壊しちゃうかもしれません。」
「?」

もともとそのお母様が化学物質大好き主義で、その中で暮らすうち、化学物質に疑問をもって、それとは無縁の世界へ歩を進めていった彼女。無農薬、無添加、マクロビ、むかしの手づくり。。。

それはそれで「正しい」のだろう。しかしその前提に、化学物質はまちがっていて、慣行農法はまちがっていて、砂糖はまちがっていて、肉はまちがっていて、というふうに、これは正しいもの、それはまちがっているものと言う判断によって、正しいとされるものを選択をする。
その選択は逆に自分の生き方を狭くさせていくのではないか。

たまにものすごくケーキが食べたくなっても、乳製品や砂糖のかたまりで危険だからといって、干し柿や干し芋でほんとうに満足できるのか。「ぜんぜんへーき!」っていうかもしれない。だけど、ほんとうのほんとうのところ、そういいきれるのかい?もし自分の心に正直になってケーキを食べてたとしても、そのあとに罪悪感が残らないでいられるか?それの罪滅ぼしに、もっとストイックになってしまわないかい?
それが自由な生き方だろうか。柔軟な生き方だろうか。

そんな話をしてみたが、いっこうに「ピンと来ない」と言われただけだった。

ただ最後の方で、最近の母の話をしたところ、とても反応していた。
「あ、わたしもそれ、やってみる!」って。


何かのテーマにたいして意見をいうことは、そのテーマを否定するような感じなってしまう。自分が受け入れているテーマを否定されている気分になるのは面白いわけがない。
ピンと来なくてあたりまえだ。心情的にピンと来たくもないもの。

やってみなかったら、そんなことはわからなかった。
おお、ぞくぞくするぜ~い!
もう空気読み名人(略してKYM。。。えっ、空気読まない名人か?)卒業だ。



2014年10月8日水曜日

ふたりでアホ顔



最近のわしら夫婦のブームは、アホ顔をすること。
これ以上できないくらい、おもいっきりアホ顔をするのだ。

相手のアホ顔を見ると、おもいっきりウケる。こいつ、ホントにアホなんちゃうか?とおもわせてくれる。そこがいーのだ。

笑いは自我が消える瞬間でもある。
周波数がぐんとふえるらしい。

反対に、怖がることは自我を実感できる瞬間である。
じつは周波数が低くなるらしい。(どーやって測ったんかはしらんが。きくところによるとそーらしい)

笑いががん患者にいい治療効果を与えるのはじつは事実なのかもしれない。
笑ってる時って、全身からエネルギーが吹き出す感じがする。反対に怖がるって、エネルギーが収縮して、こわばる感じがする。

「こわい」ってことばは、一般的に恐怖の意味であるけど、もう1つ「固い」という意味もあるらしい。「強い」ともかかれるように、固くて扱いにくいというふうに。
わしらは恐怖で震え上がると、カラダを固くする。

「お化け~」って脅したら、
「こわいこわい~」って、両腕をこわばらせて、小さくなろうとするではないか。カラダを固くする。これカラダが固まることと、恐怖することは、同時で、同じことだから「こわい」という名がついたとか?

どっちにしろ、エネルギーは内側に収縮して消耗する感じがある。怖がり続けたら、つかれるではないか。
でも笑い転げたら、「あ~、笑い過ぎて腹いたい」ってぐらいなもんで、こころは晴れやかになる。エネルギーは増幅されているんではないか?

アホ顔はちっぽけな自分を笑い飛ばしてくれる。アホな自分を笑い飛ばす力がある。
同時に頭が空っぽになる。アーダコーダと自我実感をしなくなる。


家庭で、会社で、みんなでアホ顔合戦っちゅーのんはどーだ?


2014年10月5日日曜日

魔法のことば「それを愛する」



きのう母に電話した。
いつもよりも声が軽いことに気づく。軽快に話す母。
「どお?調子は」
「ん、変わりないよ。そおねえ、しいていえば前は台所で立ってるのが苦しかったけど、今はいつまでも立ってられるようになった。あとねえ、足の裏がテープ張ったように麻痺してたけど、今は全然ふつうになっちゃった。あ、それから、ふくらはぎの後ろが去年からずっと痛かったのに、それもまったく痛くなくなった」
じゅうぶん変わってるじゃん。

彼女が進行性の難病指定をされてから3年以上たつ。
しかし病状が進行するどころか、回復しつつある。

色んなはなしをしながら、私が最近畑について思っていたことの変化を伝えた時だった。
「あ。。。。」と母。
「なに?」
「あたし、今気がついた。。。あれだ。あのことをやりはじめてから、こんなにカラダが変わってきたんだ。ああ、そうだ。だから声も出せるんだ。今までは声を絞り出すようにしゃべってたのに、今、ほら!ぜんぜんつらくない!すっごい、らく~にしゃべれる!すごい!たったあれだけで?」
「なにやったの?」
「ほら、自分を愛するってやつ!」

先日母に言った私の話。
「何でも愛するって言うのよ。ど~んなに嫌いな自分の部分を見つけても、「そんな自分を愛す!」って言っちゃうのよ。たとえば、歩けない自分を愛す!よたよたしてみっともないかっこうな自分を愛す!身体が痛い自分を愛す!いじわるな自分を愛す。見えはりな自分を愛す!って!」
電話の向こうで
「やるやる!やってみる!」って大笑いしてた母。

彼女はだいたい人の言うことを聞かない。やると言いながらやらない。だから今回もまったく期待していなかった。なのにあれからずっとやっていたようだ。
なんでもかんでも気がつけば、「あ、ありがと。愛す。」ってちょこちょこいっているらしい。

「たったあれだけ?たったあれだけでこんなに変わっているなんて。。。。」
言葉を発するだけでカラダが変化している事実に愕然としているようすだった。

私たちは、自分の思いで流れをせき止めてしまうようだ。
起こった出来事を、
「いいことか、悪いことか」という判断をし
「悪いことは変えなければいけないのだ」と解釈し、
「自分でなんとかしなければ」と行動を起こす。

やまんばの畑もそのように判断解釈し、自分でどうにかしなければ、とやり続けた結果、まったく分らなくなった。
そもそも自分でどうにかできる世界ではなかったのだと気がついたとき、起こった出来事へのいい悪いの判断を手放した。「植物さんのご都合におまかせします~」と手放したとたん、畑がスムーズに動きはじめたのだ。

母も同じではないか。カラダも自然も同じものだ。
母のカラダに起こっている出来事を、「足が思うように動かないことを愛す」ということによって、出来事を受け入れているのだ。それまで彼女は自分でなんとかしなきゃと足をさすったり、もんだり、動け動けと命令したり、恨んだり、なじったり、怒ったり、民間療法であの手この手を使って戦ってきた。
だけどそれは出来事を受け入れてはいなかったのだ。イヤ!絶対にこんな状態じゃイヤ!と、抵抗をし続けた。だが努力も虚しく、ますます歩けなくなっていったのだった。

しかし「愛する」とは、そのまんま受け入れることだ。出来事を文句なしに受け入れる。ウエルカムする。

私たちが勝手に「これはいけないことだ!問題だ!」と判断して、流れていくエネルギーをせき止めていただけなんじゃないか。そのせき止めをやめると、なるようになっていくんじゃないか?本当は、問題など解決しようとしなくていいんじゃないか?


たった一言、「それを愛する」というだけで。

2014年10月3日金曜日

海水と淡水が混ざり合うところ



畑が変わりはじめている。
夏頃オクラ、ピーマン、キュウリ、ナスなどもうへにゃへにゃで、お話しにならなかったのに、このところみんな元気だ。

秋野菜のミズナ、壬生菜、白菜、ダイコン、カブ。みんな順調にすくすく育っている。いつもならコオロギに食われたり、小さな苗は白くなって枯れてしまったりして大半は消えていったというのに。畑が変わったのか。それともやまんばが変わったのか。

やまんばがかわったというのはある。
なんか心持ちが変わってきたのだ。
いままでは、「育つか、育たないか、どっちなんだ。おいっ!」って感じで、野菜が育つのを「監視」していた。

大か小か、多いか少ないか、育つか育たないか。この二元論の中で四苦八苦していた。そしてネガティブな結果を怖れて、なんとかしようとやっきになっていた。
育たないのは自分のせい、少ないのは自分のせい、小さいのは自分の責任だ。そうおもって、あれこれやって結果が出せないことを憂いていた。

今、それがない。
「あ、育ったのね。がんばってねえ~」
「あら、枯れちゃったのね。あっそう」
こんな心持ちだ。
どっちにころんでもいいかあ~ってなかんじなのだ。

なんやろね。
これがサレンダー(降参)ってヤツ?

今まで結果は自分のせいだって思ってたのが、
「植物さんのご都合にあわせよう」ってなかんじ。
だからどんな結果でも良くなっている自分がいる。
なんだか自由な気分になっちゃって、余裕で野菜の様子を観察できるようになってきたんだ。すると、「あ、いま酸欠になってる。空気がいるな」とか、ここはもう草マルチはいらないかも。。とかかんじている。頭じゃなくてなんかかんじている。それで感じるままにやっているかんじ。

畑だけじゃない。
色んなことに、二元論をテーブルの上に並べて、それを上から見ている感じがする。

これまでは、どっちがどっち。こっちがいい、あっちじゃなきゃいや、みたいなどっちかにいるって感じだったんだけど、今はそれを「はは~ん。そのどっちも自分のなかにあるのね」と気がついて見ているようなそんなこころもちだ。

自分の中をさぐると、もっと深い自分の中があって、それがもっともっと深い自分とのつながりを教えてくれている。
ちょうど海水と淡水が混ざり合う地点に立っているような、ここから根源的な本来の自分に触りはじめているような、そんなかんじがする。

きっと意識の浅い部分では、ほとんどが今回生まれてきた時に外から教えられてきた二元論の観念で出来上がっている。しかしそれを掘り下げていくと、その奥の二元論とはちがう宇宙の真理に近いものにさわりはじめるのではないか。二元論ではない視点で物事を見はじめると、心持ちがニュートラルになっていく。


こころがニュートラルに近くなると、植物はその本来の力を発揮しはじめるのだろうか。
「ほんとはおれたち、すげえんだぜ。見せたろか。」
なんて畑の植物たちは言ってるように見える。