「近所でとってもステキな生き方をしている方がいるの。あなたもぜひお聞きにならない?」
と見せてもらったチラシは、エネルギーの節約やちょっとした工夫でゴミが減らせる環境に配慮した、自分目線のやさしい生き方の提案の集いのお誘いだった。
少しでも環境にやさしく、少しでもカラダにやさしい、少しでも地球のお手伝いになるような、ものすごく「正しい」生き方をなさっている方だった。
誰がみても今の誰もが絶賛する、とてつもなく正義の味方の、非の打ち所がない生き方。やまんばはそんな集いいけるわけがない。
いつもなら
「あっ、ステキですねえ。うかがえたらうかがいますう~」
などとテキトーにその場をごまかしていた。
やまんばはこれでも空気読み名人なのだ(うそつけ~、こら)
だけどもうそれを止めるのダ宣言をしてしまったのだ。ショージキに言うしかない。
「そんなところにいったら、私、壊しちゃうかもしれません。」
「?」
もともとそのお母様が化学物質大好き主義で、その中で暮らすうち、化学物質に疑問をもって、それとは無縁の世界へ歩を進めていった彼女。無農薬、無添加、マクロビ、むかしの手づくり。。。
それはそれで「正しい」のだろう。しかしその前提に、化学物質はまちがっていて、慣行農法はまちがっていて、砂糖はまちがっていて、肉はまちがっていて、というふうに、これは正しいもの、それはまちがっているものと言う判断によって、正しいとされるものを選択をする。
その選択は逆に自分の生き方を狭くさせていくのではないか。
たまにものすごくケーキが食べたくなっても、乳製品や砂糖のかたまりで危険だからといって、干し柿や干し芋でほんとうに満足できるのか。「ぜんぜんへーき!」っていうかもしれない。だけど、ほんとうのほんとうのところ、そういいきれるのかい?もし自分の心に正直になってケーキを食べてたとしても、そのあとに罪悪感が残らないでいられるか?それの罪滅ぼしに、もっとストイックになってしまわないかい?
それが自由な生き方だろうか。柔軟な生き方だろうか。
そんな話をしてみたが、いっこうに「ピンと来ない」と言われただけだった。
ただ最後の方で、最近の母の話をしたところ、とても反応していた。
「あ、わたしもそれ、やってみる!」って。
何かのテーマにたいして意見をいうことは、そのテーマを否定するような感じなってしまう。自分が受け入れているテーマを否定されている気分になるのは面白いわけがない。
ピンと来なくてあたりまえだ。心情的にピンと来たくもないもの。
やってみなかったら、そんなことはわからなかった。
おお、ぞくぞくするぜ~い!
もう空気読み名人(略してKYM。。。えっ、空気読まない名人か?)卒業だ。
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