2020年2月25日火曜日

輪っかを閉じる





バイトを辞めて、一ヶ月が経とうとしている。
辞めた理由は二つ。母への仕送りをしなくて良くなったこと、そして本業のイラストの仕事が忙しくなってきたから。

いつの間にか、バイトのシフトに合わせて、イラストの仕事を割り振っていた。バイトの合間に制作。これでは本末転倒。しかしそれだけバイトには体力を消耗していた。

朝3時半に起き、5時に入り、12時~13時ごろ上がる。午後はまるあきだが、へべれけになる。一眠りしたら泥のような体になってとても制作する意識になれなかった。

気がついたら、かれこれ4年7ヶ月。イラストの世界だけではわからなかったあらゆることを教わった。
辞める時も「月に一回でもいいからシフト入りなよ」と言ってくれるぐらい仲良くなれた。とてもありがたかった。

たとえ月一でもまだ社員であることはいろんな利点があったけれど、私の中でどこかけじめを欲していた。
インディアンの言葉に「輪っかを閉じる」という表現があったように思う。一つの時代の輪っかが閉じる。一つの輪っかが閉じて、また新たな旅が始まるのだ。

畑も辞めて、バイトも辞めて、今は仕事だけ。ずいぶんシンプルになった。
体力を保つために、午後近所を散歩する。家の周りの里山の道をぐるっと一周。それがいい気分転換にもなっている。ご近所さんともよく会うし、気に入った倒木に腰掛けて、西の空をぼーっと眺めることも好きだ。苔むしていた倒木は、今は私の座り跡でペッチャンコになっている。ここはいろんなインスピレーションをくれる場所でもある。




奇跡講座/コースのワークブック、二周目をやっている。
この本はとんでもなく厄介な本だ。それでも一回めより、ずっと意味が入ってくる。

今日の文言の中に「苦痛の因となるのはあなたの思いだけである」という言葉にドキッとした。

「あなたの心の外にあるものは何一つ、あなたをどのようにも害したり傷つけたりすることはできない。あなたを病気にさせたり悲しませたり、弱くてもろい物にする力のあるものは、世界中探しても何もない。ただ自分が何であるかを認めて、自分の目にするものをすべて支配する力を持っているのはあなただけである」


苦痛を受けると決めているのは私なのだ。この世界が残酷で無慈悲なものだと決めているのは、私なのだ。
自分の人生をよく振り返ってみると、何もかもがやさしく起こっていた。だがそれをどう解釈するかは私の胸三寸。起こった出来事にギャーギャー騒いで、ことを大げさにしていたのは、なんのことはない、私がやっていたのだ。

バイトをすることになった苦しみも、それを苦しみと捉えていたからだ。母が施設に入ったことを悲しみと捉えていたのは私だ。事実はただ起こる。それを解釈することで苦痛を生んでいた。


自我は解釈判断をさせることが仕事だ。私を恐れの中に維持させるには、判断させるのが一番。恐怖に陥れて、恐怖と同一化させ、それと戦わせる、奮闘させる、大騒ぎさせる。それが自我を喜ばせる。
私にずっと「この世は残酷だ」と思いさせ続けることができる。

だが自我は実在してはいないのだ。


コースは一旦、自我が私たちにどんな影響を与えているのかを徹底的に解く。そして苦の正体をくっきりとあばきだした上で、「それはない」と断言する。

ないものをわざわざ持ち出してくることはないだろうと、私たち/自我はいう。それは自我の狡猾な言い回し。自我はあの手この手を使って、自分を存在させ続けたいのだ。
だが表に出して、はっきりとそれを見ない限りは、自我を消滅させることはできない。いつまでも心の陰で隠れ潜み、ことあるごとに私たちを恐れの中に引き込むのだ。


恐れが蔓延している世の中。
いろんな情報を読みながら、苦痛を感じている自分に気づく。不安を解消するために、ありとあらゆる情報をまた欲する。そしてまた新たな不安を見つけ。。。という堂々巡りをする。

そっと情報を遮断し、静けさの中に入る。そこは自我が入り込めない領域。私たちの本質に触れる場所でもある。

私にある一つのイメージが湧いた。
空も地面の境界線もない真っ白な空間。
過去の全て、あらゆる信念を捨てた真っ白な心でそこに立つ。

忘れてきた何かに触れている。




2020年2月17日月曜日

ガラケー卒業




ずっとガラケーで通したる!

とおもってたが、出先でラインのやりとりできないし、
ナビもないから待ち合わせのレストラン探しにもいちいちパソコンからコピーした地図を持っていかなきゃなんないし、
まあ、ええか、この際スマホに変えちゃる!と、重い腰を上げて機種変更をしに行った。
気づいたら私のまわりは皆スマホ。
私がビリッケツだった。かけっこと一緒。


車も新車だし、エアコンも新品だし、パソコンも新品だし、なんだか全部が新しくなる。
たぶん若い頃はそれが嬉しかったに違いない。しかしその実あまり楽しくはない。
古いもののままでいいという執着が見え隠れする。人は変化を嫌うのだ。

去年、旦那が先にスマホデビューして、横でそのやりとりを見てきたから、自分の番になっても緊張なし。
機種を決めて、スタッフの方の説明を聞く。左横にはタイマー。
「45分間で終わらせます。あ、でもご主人の内容変更がありますから、55分間にします。お時間よろしいですか?」
「はい。大丈夫です」

契約に際しての注意事項などの説明が、延々と続く。
パンフレットを逆に見ながらとうとうと読み上げていく姿はすごい。全く心も入ってないまま、マシーンのごとく読み進む。
こっちも内容をどこまで把握しているのかしてないのかわからないまま、
「はい。はい」とわかったようなふりをする。

途中で飽きてきて、お姉さんの笑いを取ろうとちょっかいを出す。
しかし動じない。マスクの下でどんな反応をしているのか読み取れない。



この場所は「恐れ」に満ち溢れているなあ、と思った。
サービスを提供する側の恐れ。一見消費者を守るように見えて、提供する側の守りの姿勢がちらつく。お客様のクレームがつかないよう万全の防御の体制で臨む。

客側は客側で、もし何かあったら、、、万が一の時は、、、と、
恐れの波がひたひたと波打ち際に寄せてくる。

お気楽なガラケーでは気が付きもしなかった新たな恐怖が私を襲う。万が一の場合に備えて向こうも防衛策を教えてくれる。
しかしそれが本当に防衛になるのか、、心はありとあらゆる恐れを行ったり来たり。
向こうもその客側の恐れをどこまで阻止できるかあらゆる防衛策を練る。
互いの静かな攻防戦が続く。。。

世の中は便利になった分、シンプルさは何処へやら。ますますややこしくなっていく。そして黒電話だった頃よりも、ドカンと恐れと隣り合わせになった。
私たちは便利と引き換えに、ピリピリとした静かな恐れと共に過ごすのだ。



スマホコーティング儀式のあいだ、お姉さんは急に親しくなった。
「どうしてガラケーをスマホにしようと思われたのですか?」
そう聞かれてびっくりした。
おばさん世代にとって、スマホへの移行はこの世に入る儀式であり、
人としてトーゼンの礼儀だと思っていたのに(お前がゆうな)、その質問はなんじゃ?


実は前日歯医者で、今の若い人たちはスマホをガラケーに変えようとしているという話を聞いた。

その理由は、ラインの既読スルー。
それをするのもされるもの、どっちも耐え難く、そんなことなら「私ラインできないんですう~」と言えるガラケーに変える、という人たちが徐々に増えているという。

その旨を話すと、
「そうなんですよ~。私もラインの通知はオフにしてるんです!」



情報情報と言われて何年も経つ。今は簡単に地球の裏側とつながる。
私もキーボード一個叩いて、アメリカにイラストを一瞬で送れる。
昔はフェデックスで毎回一万円かけて送っていたというのに。

その情報の山が、彼女たちには逆に手かせ足かせになっていると感じているのだ。
ラインなど、いわばどこでもドア。
物理的にそこに現れなくても、「今、何やってんの~?」と、どこからでも侵入してこられるのだ。
そのウザさが情報から離れようとするのではないか。
おもしろいのは、その情報最先端で働く彼らがそれに疲れているという現実である。


ガラケー卒業して、これから社会の一員になろうとするおばさんに、
「なんでガラケー辞めるんですか」発言は、足元をちょちょ震わせた。
しかも私が今買ったばかりのスマホをコーティングしながらw

はっきり言って、動画をそれで見る気もないし、ゲームをするわけでもない。せいぜい出先でラインをいじるぐらい。それでも一度はその世界に足を踏み入れてみようじゃないかと思ったのだ。

なーんだ。大したことないじゃん。
と、知るために。


新車も、エアコンも、パソコンも、三日で飽きた。
あさってには、スマホも飽きることであろう。




「縮む世界でどう生き延びるか?」/MF新書表紙イラスト

2020年2月11日火曜日

はてなし山脈



人は心地悪いものを見ると、心地よくしたいと思う。
気に入らない状況があると、それを気にいるように変化させようと思う。

私もそうやってきた。
親からも学校の先生からも、そうやるのが人としてあるべき姿だと教えられた。
なりたい自分になるため、努力して、勉強して、行動して、それなりにやってきたと思う。

だけどどこまでいっても満足しないんだ。
一山超えると、また向こうに一山が見える。

なりたい自分にちっともなれない。
そのうち老いがやってきて、今度は別の一山が見える。
今までは未来に向かって進んでたのに、今度は過去の自分を追い求めている。
もっと若かった自分、もっとスマートだった自分。。。(苦笑)

自分でいくら努力してもうまくいかないと、
今度は神社でお願いをする。
場合によってはお祓いをする。
それでも効かないと、
「知ってる神様じゃあ、らちがあかん。もっと地球の向こう側にいる存在に。。。」
と、スピリチュアルな世界に求める。
それでも効かないと、最先端の科学に求める。
量子力学、神様、宇宙人、天使。
ここまで揃ったら、千人力だ。

それでも、やっぱり効かない。
山はどこまでいっても「はてなし山脈」。



疲れ果てて、外にあるものに頼らなくなった。
内側を見始める。
そうすると気に入らないものの理由が明確に。。。

これはいいもの、これは悪いものという判断。
この判断が心地悪くさせていたんだ。

そしてそれは変えられることもあれば、変えられないこともある。

若いうちだと、そう思いたくはなかっただろう。しかし老いが近づくと、どうしよもなくそれを受け入れていくことになる。
一種の諦めが生まれてくると、その出来事に冷静になってくる。
そういう心持ちになってくると、それは実は変えようと変えまいと、同じことだとわかってくる。
そしてそれは変える必要もないことなのだとも。。。

変えようとするとは、欠けているものがあると認めることになる。
自分には欠けているものがあって、それを埋めなくてはいけないのだと言う静かな焦燥感があるのだ。
そう言うことに気がついていくと、その変えようとするものは実は自分の中にある恐れであって、その恐れから呼び起こされる衝動だった。

変えたいものを見続けることは、恐れを見続けることになる。そしてその恐れに力を与えることになる。消そう消そうとするたび、それは大きくなっていく。なぜかと言うと、その前提に「それは存在する」と自分でそれに力を与えているからだ。


ある、ある、ある、そこに問題がある。
と言い続ける限り、そこに問題はあり続ける。
そこに力を注ぎ続けるからだ。
自分で山を作り、それに必死で挑む。
自分が映った影が気に入らないと、必死でその壁を切り刻み続ける。
そんなことをし続けていたんだ私。



起こるに任せる。
それはどうしようもなく起こるのだから。

そしてそれを通り過ぎていくものであれ。

関わることによって持続させるな。
それはやがて消えていくものだから。
移ろいゆくものは、実在しない。



賢者の言葉は、そういう意味だったのか。

山を、
ただ山のままにしておくのだ。