2018年7月29日日曜日

不快の森



人は心の不快感を避ける。
なんて事ない事で、それまでの気分ががらっと変わって、いやーな気分になる。
人からの行動?出来事をみて?
何だか知らんがいやーな気分。

不快を感じると、人はそこからピューーッと逃げる。
不快は死と隣り合わせのように感じるからか?

じつは不快はそこまでは意識はされていない。
ふかい、の、ふの字が現れた瞬間に、身体がぴくりと反応し、無意識のうちに頭はそれをどこかに消し去るために、あの手この手の策を練る。

テレビをつける。
音楽を聴く。
スマホをみる。
楽しかった事を思いだす。
不快を感じさせた相手にむかって心でエアー演説する。
自分がどれだけ正しいのか、自分で自分に納得をしようと試みる。

スピリチュアルは、その不快を心地よい言葉でくるんで、いろんな解釈を与える。
前世からのカルマ、
墓の位置、
家の間取り、
ポールシフト、
惑星直列。

そしてそれを回避するには、
呪文を唱える。
墓参りに行く。
パワーストーンをもつ。
聖地に行く。
瞑想をする。
宇宙と繋がるイメージをする。

正直ぜんぶやってみた(笑)。
だけど不快は一時消えたかにみえるだけだった。


不快は、自分の心の入り口だ。
楽しい時は自分を意識しない。しかしネガティブな感情になった時、いきなり自分と言うものを意識する。自分と言う一個の独立した物体である私。
ネガティブは「わたし」という存在を強く意識させる。

人生57年。自慢じゃないが、この不快から逃げまくって来た。
だけどこの不快はあり続けた。

押してもダメなら、引いてみな。
逃げてもダメなら、飛び込んでみな。

人の不快には、必ず理由がある。

ナウシカも不快の森に、、、じゃなかった、
腐海(ふかい)の森に自ら飛び込んで、その森の理由を知ったではないか。

腐海の森は、人間が放った毒を植物が吸い取り、それを無毒化していった。変化し結晶化されて、正常な大地に戻していく作用を起こしていた。

「腐海は人間が汚した世界をきれいにするために生まれたの。
みんなに伝えて。腐海が生まれたわけを。」
そうナウシカは言った。


不快の森に飛び込むと、そこは不快にあふれている。(あたりまえだ)
だが、なぜか死なない。(腐海じゃないからな)
じっと不快の森の、不快感を味わってみよう。
興味深く、観察するように。
全身に広がる不快感を味わったって死なないのだ。
頭はなぜか不快を死に直結させるが、実際は死なない。
安心してくれたまえ。

逃げようとするその衝動を感じる。
頭が不快を与えたヤツに向かってエアー演説しているのも、ただ観察する。
胸のあたりがムカムカして、いやーな気分になるのも味わう。
身体に変化がおこるのも味わう。
ナウシカになった気分で、果敢にそれを受け取るのだ。

それがどれだけ自分をパワフルにするか。
それがどれだけ自分の中にあるいろんな思いをぱたぱたと解消していくか。
それがどれだけ自分の中にある観念に気づかせてくれるか。

その現れ方は、そのときどきでちがう。
「あ。。。あーーーっ!」
と、劇的な気づきが起こるか、
ふと、「あれ?こういうこと?」
と、なんかがストンとふに落ちたりする。
だが結果を期待した瞬間、それは思ったようには起こらない。
それがこの世のはがいたらしいところ(笑)。



不快は腐海とまったく同じ作用をする。
腐海があるがゆえに、大地は正常になり、
不快があるがゆえに、人は心を意識し、正常にする。


ナウシカは偉大だった。

(そこかいっ!)




2018年7月19日木曜日

じつはやわらかいw


前ほど、ことを深刻にとらえなくなった。

庭で蚊に刺された。
「おー。吸っとるなー」とジッと観察。
あっちこっち移動しながら刺し続けられたけど、
「わたしの血、うまいかー?」とかいいながら、
抵抗という反応をしなかった。
その後まったくかゆくなかった。

花粉症のときもおなじことをやってみた。
現れてくる症状にたいして、大きくとらえることをやめていった。
するとことはそれほど大きく発展することはなく、急速に落ち着いていく。

そういうことを何度も経験するうちに、「問題」がおこったとき、それに過敏に反応することをだんだんやめていった。

すると、いろんなことに、ぴくっぴくっと反応している自分に気がついていく。
出来事を「問題」としてとらえている自分に気がついていく。
そしてその問題を「どうにかして解決しなければ!」という次の策を練りはじめる自分に気がついていく。
そしてその問題が、どうして問題になったかにも気づきはじめる。

たったひとつの出来事が、「問題」にまで発展するのは、私たちの過去の信念が元になっている。
こうであるべき。こうならなくてはいけない。
こうあるべきに、理由はもとめられない。
こうあるべきが、当り前だからだ。だからその信念を疑いもしない。
なので、出来事が起こると、自動的に、それを「問題」ととらえ、「解決」するべく、立ち向かう。

そのとき何が起っているのか。
そも「問題」は、確実に「存在感」を増しはじめるのだ。
リアルに存在しはじめ、それは不動のものとなる。


蚊に刺される。
「あっ!蚊だ!(問題だ!)」
バチっ!
だんだんかゆくなる。
「あ~~~っ、もう~やんなっちゃう~~」
と、ぽこんと腫れた皮膚をカキカキする。
カキカキしたら、真っ赤になって、血もにじんでくる。
頭の片隅にふと
「ひょっとしてこの蚊は、危ないヤツなんじゃね?」
と心配が浮上してくる。
「もお~~。これだから夏はきらいよお~」
と、ぶつぶつつぶやく。

そうやって嫌いなもの、避けたいものが増えていく。


情報は、危ないもの、問題なものをこれでもかといっぱいおしえてくれる。
人々の心はますます怯えおののき、対処法をググる。
すると対処法はいっぱいあり、あっちの情報、こっちの情報に踊らされる。

そんなパターンが見えてくると、それに踊らされなくなった。



起こる出来事を、なにもしないでそのままにしておく。
けっこう勇気がいるが、それをジッと観察していると、
すーっとおさまる所におさまっていくという現象が起こる。


石のように固い、めっちゃリアルにみえるこの世は、
じつはとてもやわらかくあいまいでアバウトな世界なのかもしれない。



2018年7月18日水曜日

いったい誰に?



イラストレーター家業にはつきものの不安定性。
一人暮らしの母への安定した仕送りのために、3年前からバイトを始めた。

もっと稼げてたらこんなバイトはせずに母に仕送りが出来るのに。
わたしは落ちこぼれ組だ。。。
という自分へのレッテル貼りで苦しんだ。


イラストの仕事とはまったくちがう食料関係のバイトについた。そこで働くうちに、この社会のいろんなものをちがう角度で見る。社会はいかに儲けることを中心に動いていることか。

編集部の人にいつも言われて来た売り上げの話は、正直実感がもてなかった。
それはフリーランスで一人だけで作るせいでもあるかもしれない。
絵は時間を削って作るものではない。時間をかければいいモノができるという話しでない。時間とはちがうものが使われる。
だが時給で自分の時間を削ってお金を貰う仕事をすると、現場の雰囲気が伝わってきた。

もっともっとと際限なく続いていく利益追求。
そしてそれに巻き込まれる現場で働く人々。

ちょっと儲かってはよろこぶ。
冷静に考えれば、自分のフトコロには入らない。せいぜい従業員のボーナスがちょっとだけ上がる程度。
バイトする側は、単に負担が増えるばかり。ただ「売れた!わ~い!」って、その場が盛り上がるだけ。
その一瞬の達成感だけが彼らを支える。
完売すると、もっと作る。すると売れなくて余る。最初に売れた分だけでとどめておけばいいのもを、さらに作るから余る。結局ロスが出る。

人件費材料費などをあわせれば、大したもうけにはならないというか、プラマイゼロ。なのにしのぎを削って働く。人々は時間内に目標量を納めるために、必死で働く。どんどん仕事が速くなる。するとがんばれば出来ちゃうもんだから、さらに仕事を増やす。
そこに残るのは、一瞬の達成感と、巨大な疲労感だ。それがえんえんと続いていく。


なのになぜそんなに人はがんばるのか。
私たちは小さい時から、つねに何かをやってほめられて来た。
「つくしちゃん、これやったの!えらいわねえ~」と。
「つくしちゃん、なんにもしなかったの~。そう~えらいわねえ~」
とはいわれてこなかった。むしろ
「こりゃあ~!ぼーっとしてるな!なんかせんかー!」
と、怒られて来たから。


一件、単純なことのように思うが、これが人々の中に深ーくしみ込んでいる。何もしないでいることができない。ぼーっとしていると、心の中がそわそわしてくる。おしりがむずむずしてくる。
「いかんいかんぼーっとしてたら!なんかしなければ!」と。

これの延長線が利潤追求だ。儲かったら、もっと儲ける!売れたら、もっと売る!
次から次へとあたまの中で生まれてくる目標に向かって、必死でそれを越えていこうとする。
そして残るのは、ガソリン切れ。ぱたっといく。


そういうものをみさせてもらった。
そこから気がつくのは、自分自身のこと。私の中にあるもっともっと。欠けているものを埋めようとする心の習慣。イラストの仕事が減ったことによる焦燥感は、何かをやって人に認めてもらいたいという承認欲求から来ていた。
人に認めてもらうことが自分がいていいと思えるとは、つまりえんえんと人の目を気にして生きることになる。

これはまったくきりがない。
人に認めてもらうためにがんばる。
そしてガソリン切れ。
死ぬまで続く欠乏感。

そのことに気づかせてもらったバイトに感謝する。

人生は、ただ不幸にも、偶然にもいやなことが起こっているわけではないようだ。
その中で何に気づいていくか、
そっとどこからか提供されている。

いったい誰に?





2018年7月15日日曜日

ゆったりとした時間


もうニュースを見てない。

晩ご飯食べてると、次々と聞かされる残酷な話。それを見ながらご飯を食べる気にならなくなった。必要な事柄はネットで見れる。それだけで十分。

夜、すべての電気を消して、カーテンを開け窓を全開する。

夜のあいだに昼の暑さはどこかに行ってしまっていた。そよそよと川から直接上がってくる冷気がここちよい。
昔の人は夕方庭に打ち水をした。夏の風物詩。
うちはそれが川になる。ぜいたくな天然のクーラー。

電気を消すと、夜は思いのほか明るい。山の稜線がくっきり浮かび上がる。お天気の夜より、曇りの夜の方が明かるい。目が慣れてくると、樹々がはっきり見える。色はないのに、ちゃんとみえる。月が出たなら、もうはっきりと。

昔月夜のデートに憧れた事があったなあ。畑の脇道を若いふたりが歩く。月にてらされたふたりの顔。山の稜線がキラキラする。
自分はやった事がないのだけれど、いつかどこかで見たことがある記憶。


カジカの声、
かすかに鳴きはじめた秋の虫の声、
時おり聞こえる山の中の音、
野生動物が散歩しているのか。


電気があって、テレビがあって、ネットがあって。
はっきりくっきり見えるものにいつしか囚われて来た。
目の前にあるものでなく、どこか遠くにある出来事に、心は乱され一喜一憂する。いつかどこかで自分も遭遇するのではないかと、脅かされる心。
情報はそれをあおりつづける。



それらを全部消したとき、既にそこにあったものに気がつく。
いつもそばにあった豊かな瞬間。
ゆったりとした時間、空気感。

わたしは今、何にも脅かされていないと気づく瞬間。





2018年7月14日土曜日

「どっちが正しいのか!?」




「電子レンジ?もってないよ」
「えっ!え~~~!電子レンジ、もってないのおー!?」
とゆー、思わぬ大きなリアクションに、こっちがびっくりするやんけ。

こっちはもってないのがあたり前な人。
あっちはもってるのがあたり前な人。
どっちも自分と同じじゃない事に、ビックリする。

人の常識って、自分の中の常識だったりするのよね。
『フツーこうだろ』といういっけんあたり前的な常識は、
案外思い込み常識だったりしてね。

んで、レンチンしない派のわたしは、
「そりゃー。ほらあれ。分子と分子がブツかり合って、破壊的な行為の元に熱が発生して、あちあちになるヤツでしょ?それって、もう元々の物質じゃなくなっているってふうにおもうのよねえ。。。。」
というと、

「えー。そんなむずかしーことはわかんない。それよか便利じゃん。それに体にいいって聞くよ。お湯でゆがくとビタミンも流れてしまうけど、レンチンだとビタミンは損なわれないしー」

『かっ、、、からだにいいのかー???たしか、レンチンした肉を食べつづけた犬はがんにかかって死んだってきいたぞ。。。』
と、心の中でぶつぶつ。


どっちも外から聞いた話。自分で確認したわけじゃない。
じっさい二匹の犬を実験台に使いたくねえし。
この世の良い悪いは、けっこう外からの情報をあてにしている。


石けんなし生活もかれこれ何年だ?7年ぐらいたつかなあ。
すこぶる調子はいい。
べつに石けんやシャンプー使わなくったって、病気にもなりゃせんし、菌だらけにもならん。



わたしは、「こうなったら、こうなって、こーんな恐ろしーことが起こりますよー」的な事から導き出される情報は、あまり鵜呑みにしないことにしている。

だからわたしが聞いたレンチン物語は、ほんとかどーかはしらない。

このおびただしい情報社会の中をみていると、ひとつのものごとが、いい悪いの真っ向から対立するま反対の二つの意見を平気で抱えている矛盾に気がつく。

恐怖を駆り立てるもののうしろには、何かしらの利潤追求が見え隠れする。


だからそーゆーのは、「どっちが正しいのか!?」って、答えを求めず、
「ふーん」って深刻にならんにかぎる。