2022年12月28日水曜日

石けんなし生活からの奇跡のコース


 

石けんなし生活を始めて、かれこれ14年。

相変わらずこのまんまで快適。



物理的にあまり必要ないものだという実感はあるが、

それを使わないことで見えてきたものもある。


人はなぜ石けんを使うのか。

(おお。哲学的だ。)


石けんという言葉には、大量の信念がくっついている。


きれい、きたない。

菌がある。

菌が増殖する、それを消すことができる。

臭う、臭わない。

悪いものを消すことができる。

浄化する、などなど。


その言葉たちから導き出されるのは、恐れ。

きたないことはいけない、菌はよくない、臭うことはいけない、病原菌、、、。


とはいえ、石けんですべての問題が解決するかといえばそうでもない。

徹底的に洗えばいいのかというと、きれいにしすぎたら抵抗力が落ちるという。

じゃあ、どこまできれいにして、どこまできたないままでいいのか。(笑)

どこに線引きがあるのか、さっぱりわからない。



ネットで探せば、これがいいという意見があるかと思うと、

その隣に、それは良くないという意見もある。

情報はぐちゃぐちゃ。


恐れる子羊たちは、右往左往させられる。

私たちは恐れると、その恐れをどうにかしようと行動に走る。

その行動がますます混乱させる。



決定的に正しいことなどないと、

私に教えてくれたのは、この石けんなし生活だった。


だからと言って石けんなし生活ですべての問題が解決したかというとそうでもない。

肉体的な不快はかなり減少したが、

完璧な健康体になれる!などというような「石けんなし運動」の旗揚げする気もない。



ただ、これ、なくてもいいんじゃね?と思って実験しただけだ。

足してもダメなら引いてみな、だ。



だが、その物理的な引き算で幸せがやってくるわけではない。

大事なのは、その信念からの解放だ。


石けんが絶対必要。シャンプーリンスが絶対必要。歯磨き粉が絶対必要。

という信念からの解放のための第一歩。

実際、私にはそこまでいらなかった。


そして、そもそもその信念とはなんぞや?と考えるきっかけにもなった。

菌って何?悪玉菌、善玉菌って何?汚いって何?免疫って何?


ひとつ言葉を覚えると、なんだか賢くなった気になる。

善玉菌っていうのはねえ~。。。

でもそれを知った途端、心の片隅にかすかな恐れが入り込む。

悪玉菌も一緒に生み出してくるから(笑)


こうしてわたしたちの体には、

とんでもない量の言葉がくっついてくる。


こうなってしまわないように、こうする。

ああなってしまう前に、こうする。。。


そうするためにはあの商品を買って、夜寝る前につけて、、、

つけなかった日には、翌日にえらい乾燥肌になって、、、、



思うに、石けん使うから、肌から油が消えて、

その油をわざわざお金をかけて、また外からつける。

ところがその外からつけたものに、いらぬ保存料が入っていて、

その合成の何かのためにまたお肌が荒れて。。。。コメディか!



というようなことを通して、信念は脅迫になることを知る。


体はそんなに軟弱だろうか。


ほっといても案外強靭なのかもしれぬ。

だって人類ここまで生き延びてきたんだから。

かなり柔軟な適応能力があったと見える。




また長くなってしまった。


これ、なくてもいいんじゃね?

というものは、物質的なものだけじゃない。

考え。この考えからの解放だ。


折しも、この時期、あらゆる信念で渦巻いている。

年末にはきれ~いにお掃除して全て終わらせて、

新しいピカピカな新年を迎えなければいけない。

そうでないと神様が良い福をもたらさない、と。


神様はそんな風に

「この家は汚い。うむ。こいつに福は授けない」

「うん?この家はなかなか綺麗だ。よし。こやつには、福を授けよう」

などと天秤にかけるのだろうか。


そんなこと言ったら、うちは

「うん?この家には、石けんがない!なんてえこった!こやつには一銭も福はやらぬ!」

となっちまうではないか!



神様は閻魔様じゃない。


神は平等だ。

こっちが綺麗とか汚いとか、関係なく、

無条件に私たちを強烈に愛してくれている。


そもそも私たちが作り上げた幻想の世界など、

神には見えてない。

(だから平等なのだ。笑)




絵:ワカサギ釣り。去年の今頃、知り合いからいっぱいワカサギをもらった。






2022年12月26日月曜日

心使いがうれしい


 


「つくしさん、ごめんねえ~、展覧会行けなくって。。。

行くって約束していたのに。。。」


昨日、知り合いから電話があった。


彼は、最近体の調子が悪くて、とてもじゃないが行ける状態ではなかったことを話してくれた。

そんな状態ならもちろん来られないよ、気にしないでと言った。


そしたら、展覧会も終わってほとぼり冷めた頃にこうやって今言い訳の電話をしていると言う。

その彼のそこまで正直な言葉にクスッと笑った。



展覧会の最終日にも電話があった。

「私もこの頃調子が悪くてねえ。。。行きたいのは山々なんだが、どうもいけそうもない。。。」

私のイラストの大先輩である方が、わざわざ電話をくれた。


そういう心が嬉しいこの頃である。


いけない理由を、いけなかった理由を話すことは、勇気がいることだ。


昔の私だったら、言い訳をしていると言うところに直目して、

密かにジャッジしていただろう。

でも今はそこを見る必要がない。

むしろもらった心使いが嬉しい。心が熱くなってくる。




私は人に対していろんな思いを抱いてきた。

それはずっと人を怖がってきたからだった。


あの人はこんな人、この人はこんな人と。

その基準によって、判断解釈して、接してきた。


でもだんだんその考えが苦しみを生むだけだと気がついてくるのと同時に、

人はみんな私と同じなんだとわかってきた。


ワンネスってこういうことなんじゃない?

みんな、同じ。みんな、ひとつって。


判断解釈するのは、分離の考え。

この人と私は違うと言う、線引きをする。


でも彼もまた私と同じように言い訳をして、

悩んで、苦しんで、でも勇気を振り絞って、

兄弟にとって嬉しくない理由を述べる。


それは正直なことであり、とても勇気のいる行為だ。

そしてあえて電話をかけてくれたことに感謝する。




正直であると言うことはとても勇気がいる。


私はずっと、人にこれを言うと、どういう反応をするかと言うことを

前もって察して、話すと言うことをしてきた。

そのおかげで摩擦もなかった代わりに、私の中にしこりが残った。


そのしこりは、その人と会うたびに、チクリと痛みを感じ、

その不快に耐えかねて、

その人とはもう合わないでいようと言う、

さらに分離を広げる策を練ってきたのだ。


先日もそんなことがあった。

本当の気持ちを言おうか言うまいか。だけど言わないと心が苦しい。

答えを求めて話すわけではなく、ただ思っていることを伝える。

それだけなのに、こんなに苦しい。。。

でも言えば、相手が苦しむ。。。。


そんな葛藤の時、目にしたコースの言葉。

「防衛しないことの中に、私の安全がある」


ああ、私は恐れの中にいた。兄弟を信用しないことを選んでいた。。。

恐れを選ぶ?愛を選ぶ?

もちろん決まっている!


そして彼のことを考えた。

うん。私は彼が大好きだ。

そうだ。大好きなんだ。

その思いから話そう。





昨日は町内会の大掃除があった。

それぞれ持ち場の役割をする。


みんなとの会話で、私は正直に話す。

私の仕事できなさっぷりも、そのまま披露する(笑)。


それが後を引かない。

取り繕いもない。


そんな時間がとても楽しい。





絵:「語り合い」


2022年12月21日水曜日

小忙しくしていなさい

 


「小忙しくしていなさい」


母の言葉が印象に残っている。

ぼーっとしているよりも、

なんとなく忙しく見せておく方がいいという母の意見だ。


今思えば、彼女の防衛の意識だった。

ゆったりしているよりも、忙しそうに振舞っている方が、

人目にいいというわけである。


人目を気にするというのは、母のようにお嬢様で育った人にとって、

生きていく上でとても重要なことだったのだ。




「お金持ちの家ほど、不幸なことが多い」


ある友達から聞いた話だ。

なるほど、そういえばそんな気がしないでもない。

でもこれは私の「やんごとなき家系」ドラマの見過ぎか?(笑)



不幸であることは、防衛の別な形とも言える。


「あそこのお家、あんなことがあったのよ。お気の毒~~~」

そう思わせておくことは、お金持ちに対するやっかみや嫉妬への無言の防衛になる。


母の「小忙しく説」も、

「悠長なことやってんじゃないわよ。」という陰口を避けるための防衛だ。



私たちは無意識に、誰かに陰口を叩かれないように、ありとあらゆる防衛策を練る。


うちの町内会でもオヤジどもがよくいう言葉。

「あとで何言われるかわからない」


「言われない」ために、あらゆる防衛策を練るのだ。

それがたとえ不幸という形であっても。

「小忙しくする」犠牲という手段を取っても。


つまり昨日の話の続き。


不幸や苦労することは、刑に服するということであり、

同時に周りからの攻撃をも避けられる。

この二つの利点は大きい。


刑に服せば、私の罪は軽減され、しかも周りからの防衛もできる。

一石二鳥だ!


と、思っている。

ってか、信じている。


ってか、それはいつまで続くの?って話だ。


苦労(刑)はいくら買っても減らない。





防衛するのは、攻撃する人がいると信じているから防衛がある。

でもそもそも攻撃する人はいるのか。


オヤジは「こう言われたもん!」という。

しかしはたから見てたら、攻撃のつもりで言ってないのが見える。

だけど本人は攻撃されたと思っている。


実は攻撃などされていない。

自分が攻撃されたと信じている。


これはどういうことか?


つまり密かに自分には罪があると思っているから、

それに対する罰を受けなければいけないと、

そのチャンスを狙っている、ということだったりして。



では罪って何?


「私がすこぶる美しいから。だからそれが罪ね」

「私はすこぶるお金持ち。だからそれが罪ね」

「私はすこぶるブス。だからそれが罪ね」

「私はすこぶるバカだ。だからそれが罪ね」


罪探したら果てしなく続く。

もう存在していること自体が罪だ!というところまで行く。


コースはいう。

実は、神から離れてみたいと思ったことから、この世界ができたという。

つまり神に逆らったという重罪を背負って、私はこの世界にいるのだ。

それってもう生まれたこと自体が罪!


そう信じているとすれば、この意味不明な罪悪感の大元が見えてくる。


そしてひたすら罪をあおってくる心の中の声の正体がバレ始める。


その声は、ずっと「お前は罪人だ罪人だ罪人だ罪人だ。。。」

と言い続けているだけなのだ。


だけどそれを真に受けるか、真に受けないかは、ひとえに私たちにかかっている。


つまり!その声には何の力もない。


その声は、ただそう言い続けるだけで、

私たちがその気にならなければ、

指一本動かすこともできない!


自我の声には何の力もない。


力があるのは、私たちだ!



私たちとは、正しい心を持った存在。神の子。

だけどこの世界で生きているということは、すっかりその源を忘れてしまっている。

その忘れたものを、今、思い出そうとしているのだ。


自我の声を真に受けるとは、間違った心で生きること。

混乱と恐れと戦いと防衛に明け暮れる、十字架を背負った心。

小忙しくしたり、不幸をコンビニで買ってくる心。

誰かが私を襲いにくるという、あなたと私が分離した心。


そんな心、持ってる必要ある?




さてと。


コンビニで、おいなりさん買ってこよ~。

(そっちかいっ)





絵:「道草」



2022年12月20日火曜日

苦労は買わなくていい

 


私たちの無意識の中に、罪というものがある。

それは隠れ潜んでいて、表に現れてこないように、ひた隠しにされている。


苦しみは、その罪がゆえに与えられた罰だ。


罪と罰はくっついている。


苦あれば楽あり、苦労は買ってでもしろとは、

美しい教訓とされているが、

その考えの下に、罰を受ければ、刑が軽くなるという思いをはらんでいる。


だから私たちは無意識に苦しみを選んでいる。


幸せすぎて怖い。という思いも、

幸せで有頂天になったら、いつかバチが当たる、

とんでもないしっぺ返しに会うかもしれない!

という恐れが、そう言わせている。


つまり私たちは

「幸せになるにはほどほどに。苦労は買ってでもしろ」

という教訓の中で生きていると言えるだろう。


つまんねえ~~~(笑)




でも私はずっとそう信じてきた。

苦労しさえすれば、きっといつか良いことがやってくる!と。


そしてめちゃ苦労して、ほんのちょっぴりご褒美がもらえて、有頂天になって、

その直後「あ!ヤバイ!このぐらいにしておこう。そうじゃないと、しっぺ返しに会う~」

といって、またちっこくなって、自ら苦労を買いに走るのだった。(コンビニじゃねえし)


さて。この苦労という刑。

なぜ必要かといえば、罪を犯したなら、刑という罰が与えられるからだ。


一体何の罪が侵されたのかはわからないが、私たちは罪がある前提になっているので、

苦労という名の罰を受けなければならない。


刑を終えると、晴れて出所できるはず、、、なんだけど、

どうもそうでもない。


晴れ晴れした気分になるのは一瞬で、また次の刑がやってくる。

え?私、一体いつ罪を犯した?




人は何か嫌なことが起こった時、


「え?私なにやった?なんかとんでもないことした?

あれかな?ああ、あれかもしんない!やっば~~~~~。あんなことしなきゃよかった!」と、

自分の罪をあれこれ探すんではなかろうか。(え?私だけ?)


つまり罰が下るのは、罪を犯したからだと思っているので、あれこれ考えを巡らす。


そして程よく罪が暴かれたところで(笑)、苦労という刑を粛々と受け入れるのだ。




しかーし!

よく考えたら、この刑、一体いつ終わるのだろう?

すべての罪が晴れて出所できるのは、この肉体を離れた時?


ということは、この肉体自体が、牢獄っていうことになる。


私は知らないうちに罪を犯し、そして苦労という刑を受け続ける人生。。。


ほんまかいなー!


おかしくね?

なんかおかしいよ。





そもそもその罪をそそのかすのは誰だ?

苦労をしろと促してくる、そのアイディアの元はなんだ?


声だ。そのそそのかす奴は頭の中にいる。


「ああなったらどうする?」

「それでいいのか?本当に。。。。」

「ああ、おしまいだ。なんてえことをしでかすんだ、お前!」



それを聞いた私たちは、

「ひっええええええええ~~~~~~~っ!

どうしよう、どうしよう、ああ、どうしたらいいの、、、?」

と、その声に助けを求める。


すると、

「それはだなあ~。。。」

と、その声は私たちに、さも親切心で言っているかのように、案を教える。


その答えは、最初はいい感じだけど、よくよく聞いていると最後は、

「お前が苦労して死ねばいいだけさ」というところに落ち着く。


それ、本当に私たちの味方なんだろうか。


その声を疑ってみることはできないだろうか。

どう見ても破壊的な方向にしか持っていかない、その大きな声を。


お前には罪があると言い続け、

「あ!今罪を犯したな!

ではお前に刑を言い渡す!苦労100回!」

と。


これ、きりがない。


もう苦労は買わなくていい。

幸せは思う存分味わえばいい。



そして苦労しろと促してくるその声を疑い、
その声を赦し、

それをそっくりそのまま

「もうこんな考えいりません」と聖霊に渡し、

訂正してもらって、ほっこりしよう。



コンビニで苦労は買わなくていい。


コーヒーとドーナツを買おう。





絵:「こっちだよ」