11年やってきた畑をやめた。
なんでかって?
もちろん挫折したからさー。
成功してやめる人はめったにいないやろ。
一番の理由は、体力。
二番目は一番目とほとんど同じ。野生動物とのおりあいがつかなかったこと。
やってもやっても彼らに持っていかれる。普通ならやらないこと、大根にネットを掛ける、枝豆にネットを掛ける、落花生に、ジャガイモに、取られないようにあらゆることをやった。それでも食べられる。彼らが食べないのは、唐辛子とシシトウとピーマンぐらい。他は全部平らげる。
畑に向かうたびに、荒らされてないか気が重い。
心の勉強をしていることで、物理的なもの以外にまでその原因をさぐった。この現象は自分の考え方の何が悪いのか?どう考えればこの現象が終るのか?と。
それでも答えは見つけられなかった。
やめるきっかけになったのは、イノシシに入られたこと。徹底的にやられた。その惨状を見た時、なぜか心は穏やかだった。どこかでやめるきっかけを探していたんだと思う。
それでもその予感は一年前から徐々に来ていた。父の死の前後、忙しくて畑に向かえない。草は生え放題。畑は徐々に山に帰ろうとしていた。その上バイトで体力はがっくりと落ちた。
ある時、畑に未来を感じない自分を見つけた。
そのおどろきとあまりの悲しさに、畑でひとり大声で泣いた。
そのおどろきとあまりの悲しさに、畑でひとり大声で泣いた。
その時自分がいかに土に触れることを愛してやまなかったかを知る。
小さいときからいつも一人で土と戯れていたのだから。
畑は私に収穫だけでなく、ありとあらゆることを教えてくれた。
辛い時、苦しさに喘いでいる時、草を刈っていると、ふいにヒントをくれる。
まるでまわりの土や草や虫たちが、私の心にじっと耳を傾けて聞いているかのようだった。
すべてが私の仲間だった。草は刈られることをいとわなかった。最初は草を刈ることに罪の意識を感じていた。しかし彼らに私たち人間がもつ自我のようなものはなかった。ただただ受け入れてくる。自我の塊の私をただただ受け入れる。したいようにさせる。
私は畑という大きな親の懐の中で遊ぶ、ひとりのやんちゃな子どもだった。
イノシシはこの畑に野生の空気を入れてくれた。イノシシにホックリ返されて、畑全体に出来た大量の巨大な穴たちは、土にたくさん空気を入れた。畑が、大きく深呼吸をしているように見えた。
「ここで学ぶことはもう終ったね。さあ、交替だよ」
そう、イノシシは言っていた。
私は黙々と小屋の整理を始めた。
整理したら、またやりたくなるかな?
ひそかに期待をしている自分がまだいた。
しかし心は動かなかった。
それでも自我は過去楽しかったことを思い起こさせて、まだ畑にしがみつけとうながしてくる。それをバッサリ切られることになったのは、ダンナに力仕事を頼んだときだった。彼が一瞬のうちに腰をやられた。その時私の畑への執着が、彼のケガにつながってしまったと気づかされた。
畑は私の背中を押していた。
「もう、ここから出て行きなさい。」
畑にあった支柱を全部外して、小屋をきれいにした。
私が畑から持って帰ったのは、生前ゆいいつ父に買って送ってもらったハミキリとのこぎり一個。それだけで十分だった。
帰りがけ、畑にいっぱいお礼を言った。
もう言葉にはならないくらいの感謝でいっぱいだったけど、全然言いたらないけど、
それでもきっとわかってくれているだろう。
さようならは、なぜか言えなかった。
薄赤く色づいたすすきがゆれて、私に手をふっていた。