アメリカから入ってくるはずのお金が入ってこない。
アメリカの銀行が閉められないので、残高が戻ってこない。
あるはずのお金がここにない。
絵は売れるんだろうか?
ただ材料費が出て行くばかりではないか。
膝が痛い、足首が痛い。
どうやったら治るんだろうか?
いい加減にその性格を変えろと言われる。
どうやったら変えられるんだろうか?
不安と恐れの中で翻弄される年末。
「何も変わる必要ないですよ。誰も何も。」
私には何かが不足している。だからそれを埋め合わせなければいけない。
それはお金であり、健康な体であり、正しい行為であり。。。
先日、かおりさんという方のズーム会に参加した。
「あなたはすでに完成されてるのですよ。何を変える必要がある?」
その言葉に私は吸収された。
私は完成された存在。そこに何を足すこともない。そのまんまで満ちている存在。
彼女がいう「全体性」の意味がよくわからなかったが、
こういうことかな?と聞くと、そうだという。
そうして幼い頃や大人になっても時々味わうあの感覚が、
そういうことだったのかと意識され始める。
山を見た時、私は山と溶け込む。
空を見たとき、空と私は一つになる。
(高尾に住むと、山に隔てられて空が狭いが、
イーアス高尾の駐車場の空は広い。そこで私は空を見る笑)
夜、窓を開けて漆黒の山を見る。
巨大になった私はその山を抱きしめていた。
夕暮れの空もまた私を引きつける。
そこに思考はない。細々とした個人のことなど完全に抜けている。
ただただ愛おしく、山と空と、
そして肉眼では見えないけれど、昔ずっと見ていた海と一つになった私がいた。
それが本当の私だ。この世のことなどどこ吹く風。
大きくどこまでも広がってどんどん透明になっていく。
それがこの小さな体の私に浸透してくる。
そうだった。私はそのまんまでよかったんだ。
感動が心に溢れて号泣した。
自我はひたすら言い続ける。
「お前は間違っている。ほら、今も欠けている。
あれもこれも問題だ。どうにかしろ。
今金がないのはお前のせいだ。お前がサボってばかりいるからだ。
その性格がいけないんだ。なんとかしろ。」
それをこの現象世界で見せてくる。
銀行の残高、足腰の痛み、人の指摘。
ほーら。それが事実だ。
お前の欠陥の結果がちゃんとそれを証明しているではないか。
夢を見た。
引越して、私はそこにはいないのだが、
全て捨てたはずのゴミやいらない服がまだ山のように残っていた。
私は慌ててそれらを片付け始めた。
すると後から後からゴミが出てくる。
あれ?おかしいなあ。。これ、きりがないなあと思ったとき、これは夢だと気がついた。
そしてその手を止めた。
夢の中の私は、ひたすら問題に取り組む。
ひとつ解決したかと思うと、また次から次へと問題がやってくる。
それが夢だと気づかない限り。
人がいう言葉に息苦しさを感じるなら、
それは自分が相手に言わせている自我のささやきだ。
お前は間違っている。こう直すべきだ、ああするべきだと。
それを何も変える必要はないとわかったとき、
変えられないともわかる。
変えられると思ってきたから、苦しかったんだ。
だって、そもそも変えられはしないのだ。
見えてくる現象をそのまま受け取る。
「変われ」と聞こえた音をそのままを受け取る。
「か、わ、れ」と言う音。
意味ではなく。
残高がなく、体も痛い。
それがなんだと言うのだ?
山や空である私。
Mini me, 小さな私。
完成されて変わる必要もない私。
欠点だらけで変わらなければならない私。
変わらなければ!といって、
泣きながら変えようとするしかなかった私に、
今はもう一つの選択がある。
しかし両方の意識が行ったり来たりする。
香港さん、なかなかにちっこい私です。
そんなときゃあ、「スーダラ節」でも歌って踊っちゃいましょう。
わかっちゃいるけど、やめられね、
アホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイーっと。
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