さっきまで考えていたこと、昨日の出来事、ふいによみがえるちょっと前に感じたこと。
かと思えば、何十年も前に聴いた音楽のフレーズ。。。
あたまの中は、絶えずそういう考えや、音に埋め尽くされているのがわかる。
こう言うものは、風のようにやって来る。
目の前には、茶色い土、枯れかけて倒れはじめているメヒシバの根元、赤いゴミ手袋をはめた両手。右手にのこぎりガマ、左にはメヒシバをつかむ手。
見ていると、両手はせっせ、せっせと、草を刈り、草を抜いている。
しかし頭は、ここにない。
今しがた、風のように入ってきた言葉に囚われて、その言葉を追いかけ続ける。
あのとき、なんでああしたんだろう。
なんであんな言われかたをされなきゃいけないんだ。
だいたいわたしはどうしていつもああなんだ。
なんであいつはああなんだ。
今度はこう言ってやろう。
「それはね。。。。。。。。。」
そうやって、頭がエアー演説をしている。
まるで金八先生が教壇に立って、素晴らしいスピーチをし、みんなが納得し、
「さすがや!やっぱ、言うことが違うなあ~」
と、みんなを丸く納める姿。。。。
頭がそういう風に、
どんどん空想の世界に入ってるのに、はっときづく。
「また思考の中に巻き込まれている。。。。」
それは同じ所をぐるぐる回るだけの、きりのない思考の世界。
それに気づくと、今度はこうやってみる。
目の前にあるモノとはまったく違う所に心があるのを、ただ、ながめる。
おしゃべりをする「音」に、耳を傾ける。
するとあたまの中の「音」は、次第に消えはじめる。
「。。。。。」
そして、
ふと、気づきが起こる。
「ああ、、、私には、こう言う観念があったんだ。。。。」
あるときは、
「ああ、あの人は、こういうおもいがあったんだ。。。」
あるときは、
「ああ、これがこの思考の仕組みだったのか。。。。」
そのときわきおこる気づきは、さっきまでのトーンとはまるでちがう、
今まで考えもしなかった言葉や、こと。
それは開かれて、ゆるやかに、はればれとした、雰囲気を持っている。
頭で導き出した答えは、どこか窮屈で、ぎゅっと萎縮する感じがする。
それはどこまでいっても、おなじ。
しかし、何の感情も交えずに、起こっているものを見るだけになると、
あるときふいに、それはやって来る。
それは自分で考え出したものじゃない。
今まで思いもつかなかったこと。
それが心に入ってきたとき、今までとは違う空気感になる。
そのちがいが、はっきりとわかる。
今までぐずぐず考えていたことが、完全にほどけている。
心はぱあ~っと、開かれて行く。
私は立ち上がって、高尾の山並みを見る。
夕暮れの赤い陽射しが、山並みを染める。
自分が消えていく。
やまんばは、畑で野菜をもらう。
でもここは野菜だけじゃない、もっとおおきなものをもらう。
絵:「里山の秋」