今朝、雨戸を開けたら一面銀世界だった。外気温は2度。きのうは-4度だったから、やはり雪が降ると暖かいのだろうか。雪は外の雑音も、心の雑音も消してくれる。雪国の人々は心は静かなのだろうか。
こんな季節だからこそ、石けんなし生活を始めたいと思う人には、いいチャンス。
乾燥するこの季節に、やまんばは顔にクリームも化粧水も、手にクリームもからだにクリームもいらない。何もしていないのに、いつも肌はすべすべ。
喉もカラカラにならない。むかしのど飴を必要としてたなんて。
そういえば着替えのとき、静電気もおこらないなあ。
石けん類をからだに施すのをやめてから、日々の生活がなんてシンプルになっただろう。
あぶらがいけないからといって、それを(石けん類で)取りのぞいているうちに取りのぞきすぎちゃって、またあぶらをあとから補うアホなことを繰り返している私たち。でもそれだけじゃ終わらなくて、アンバランスな補いが、別の弊害を生み出し、もっとアンバランスになるシャレにならない現象。
この変な繰り返しの根本にあるのは、「私たちはいつも何かが足りない」という概念だ。
やまんばは石けんなし生活のなかで、人のからだはそのままで完璧なのだと知った。
「わたしはこのままではいけない。何かを足さないといけないんだ。」
という思いが私たちの心を大きく支配している。
その意識が、石けんと言うものを作り出し、シャンプーというものを作り出し、歯磨き粉というものを作り出した。その結果が、アトピーや、花粉症や、心の問題にまで発展している。
「ああ、不足感がいけないのね。じゃあ、満たされてるって思えばいいんでしょ」
というかもしれない。
これはポジティブ思考と呼ばれているものだが、これでは効かない。あっちからこっちという対極に横滑りさせただけだから。
ほんとは「足りない」とおもっているくせに、「満ち足りている」と言葉にして自分をごまかしている。
自分をいくらごまかしてもごまかしきれるものではない。他人をごまかしているのとはわけがちがう。筋金入りの検察官だ。だからうわべでポジティブシンキングしても、アファメーションしても、言い聞かせても、いいわけしても、逃げても、ぜったいにあばかれる。
石けんなし生活は、まずわたしに、このからだはそのままで完璧であるということを教えてくれた。そしてそれはすべてに当てはまるのだとヒントをくれる。
もともと心が問題を引き起こした。心がそのままではいけない、これが足りないと、石けんを作り、システムをつくり、自分や他人を裁いてきた。
でもやまんばはおもう。ほんとうは心もからだもそのままで完璧なんじゃないだろうか。今のところ、からだの完璧さを皮膚を通して知った。そしてじつはそれは心からくることも。まず心が「ひょっとしたら、からだはそのままで完璧なんじゃないか?」と仮説を立てたのだ。そのおもしろさから、実験がはじまった。
足りないものなどないんじゃないか?と広がっていったのだ。
今、やまんばは自分の心に直面している。もう太陽を54周したのだ。そろそろ見ないようにしてきた自分自身と対面してもいい年だ。
自分がなにに不足を感じているのか、そしてそれはほんとうに不足していることなのか?
日々の生活の中で、くそっぱらたつことがおこると、じっと自分に向かい合うんだ。やまんばをおこらせた相手ではなく、自分がどう反応しているか。どう感じているか。ただその感覚だけを味わう。すると消えていく感情や、隠れていた観念を見つける。
石けんも道具もなんにもいらない。ただシンプルに自分だけに向かう。
石けんも道具もなんにもいらない。ただシンプルに自分だけに向かう。
それを繰り返すうちに、今まで知らなかった自分を発見する。たぶんこれからもっと発見するだろう。
心も完璧だと仮説を立てる。答えは自分の中にあると仮説を立てる。
どんどん解放されていく自分を見つける。
どんどん解放されていく自分を見つける。
お楽しみはこれからだ。