2012年10月30日火曜日

ラフレシア白菜


夏の終わり、自家採種した白菜の種と、買ってきて2年ぐらいたつ種をまいた。
買ってきた種はちいとも芽がでず、自家採種だけがひょろひょろ出た。
「やっぱ、ウチの畑で育った白菜は違うなあ~」
と、気を良くして自家採種だけを蒔く。
あれから約2ヶ月たった。
今、巨大になったわけのわからん植物が、畝をおおいつくしている。

「これは、、、ミズナと交配したな。。。」
「ああ、これは小松菜かあ。。。」
「こっ、、、、これはいったいなんだ!」

と、いうよーな、およそ白菜とはほどとおい植物が、絢爛豪華に、百花繚乱に、ありとあらゆる姿で巨大に育っている。
中でも一番でかいのが、たぶん小松菜と交配したと思われる濃い緑色の白菜もどき。白菜のように可憐にくるりんと巻こうという気は、じぇんじぇんないらしい。そいつはバラの花のごとく、いやジャングルの中に咲くラフレシアのごとく、おもいっきりそっくり返って自分の領地を広げている最中だ。直径60センチはある。
その脇に、ほとんどそいつに押しつぶされそーになりながら、小さな白菜がふたつ、その若草色の葉っぱを立ち上げて、くるりんと巻こうとしている。
ああ、なんてけなげなの。
こいつをどかして可憐な白菜を育てようか。

ダンナにその話をする。
「育てれば?」
「は?あのでかいやつを?」
「そう。何事も実験実験」
「え~~、だって、あのラフレシア、でっかくなったって、じぇったいうまくないもん」
「それでもいーじゃん。なにがおこるかおもしろそうじゃん」

こいつは、食うよろこびを忘れているらしい。(おまえのほうが『食い意地が張っている』とはおもわんのか)
でも、彼らがどう切磋琢磨するかを見られるのはこの瞬間しかないのかもしれない。今とって食べてしまったら、その先は見れないのだ。

それにしても交配するとでかくなるんだろうか。カブの方もやっぱりでかい葉っぱでおおわれている。そういや福岡正信さんの本の中にも、巨大なカブができてたなあ。

ああっ、おいしそう。。。
(やっぱりそこか)

2012年10月27日土曜日

千社札「へたくそ」




「元気だねえ」
ダンナに嫌みっぽくいわれる。

理由は何となくわかっている。
自分の中にある、自分へのレッテルに気がつきはじめたからのようなのだ。
仕事をしていると、絶えず自分の中で心がしゃべっている。

「あ~~~、だめだあ。この、へったくそおお~~!いつまでこんなにへたなんだあ~~!」とか
「つまらん。実につまらん、そのアイディア。ちったあ、おもしろい、みんながドッカーンと受けてくれるようなアイディアだせねえのかああ~~!」

私は絵が下手!と、アイディアが貧困!という2代レッテル勢力に押しつぶされながら、絶えずそのおもいと戦って仕事をしていた。

いつものように「ウ~~~~、こっこの、、、へたくそ~~~。。」
とはじまったところ、
「あれ。。。?私、へたくそって思ってるんだ」と気がついた。

「私はこれこれこーゆー人間である」と信じているのである。千社札のように、ぺたぺたと自分にいろんなものを貼付けているのだ。
「へたくそ」「アイディア貧困」「のろま」「あほ」などなど。

そんなもん貼付けて、何の意味があるだろうか。

自分はへたくそだと信じていることと、うまくなりたいという願望がせめぎあっているのだ。
これはお金持ちになりたいというおもいは、実は「俺はお金がない」と信じているものが根底にあって、この二つの意識がおたがいにせめぎあっているのと同じ手法だ。
両方が押し合って(引っ張り合ってか?)、どっちにも転ばず、ただただエネルギーの消費しているだけだったのだ。

一般的にいわれている、自分のマイナス要因を見つけることによって奮起できるとか、モチベーションになるとかいうのを使うのは、もうわしはやめることにした。それでさんざんやってきたのだ。でもものすごーい労力使うわりに、ちびっとしか進まなかったからだ。


さて、そのレッテルが自分が前に進むのを止めているんだと知ったので、
「わたしゃ、別に下手でもなんでもないや」
と思ってみた。するとすーっと前に進みはじめたではないか。

「アイディア?別に貧困でもなんでもないや」
と思ってみると、今まで気がつかなかったアイディアもほろほろ出始めたではないか。
あんなに狭かった自分の目の前の視野が勝手に開きはじめたのだ。
「ああ、こんな所にヒントがあった」

拷問のように自分にムチ打ってやっていた仕事が、息をするように自然に変わっていくとは、わしゃあ~まっことびっくらこいた。

これはおもしろいぜよ。
みんなの中にも自分に
「わしゃ、これこれこーゆー人間なんじゃ」
と決めつけているものってないかえ?
 
案外それが自分を苦しめているだけだったりするかもしれんぜえ~。ひえ〜。

絵:「1日1回背伸びするだけで人生と体形は変わる」MF新書表紙
おもいっきり売れた「腹だけ痩せる技術」の著者の第2弾!

2012年10月24日水曜日

ほげーっとぼけーっとしよう



わしら現代人は、つねに「なにかしないといけない」と思い込んでいるようだ。やまんばも、ぼーっとした瞬間に「はっ!こんなことしている場合ではない」となにかしようと思考を動かしている。

60代はからだを動かそうとする。
若い世代は四角い箱に向かって文字を打とうとする。
山に行くとカメラを持って何かを写そうとする。

60代はからだを動かす事で「おしっ、俺はまだまだいけるぞ」と確認でき、他人には「あら、すごいわねえ~。若いわねえ~」とほめてもらえる。
若い世代は四角い箱に向かって文字を打つことによって、「すごいねえ~。色々やってんだ」とか「色々考えてるんだ」とほめてもらえる。
山で季節の花を写すと、「あらすてきねえ~」とほめてもらえる。
やまんばも、四角い箱に向かって文字を打つ。やっぱりだれかに「やまんばはすごいねえ~」とほめてもらいたがっている。(現実はほめてるかどーかは知らんが)
どれも自己を満足させてくれる。

どうもみんなほめてもらいたがっている。他人にほめてもらうことで、自分がここにいていいんだと確認をしている。

なんでそーなるんや?
だってちっこいとき「おまえ、そんなんでどーするんや!」とか「おねえちゃんをみならいなさい!」とかいつも誰かと比較され、そんなことでどーする!ってたしなめられ続けたからなんだもん。

「自分はこのままでいてはいけない」とテッテーテキに洗脳されたおかげだ。ただそこであるがままでいてはいけないのだ!なんかつねにし続けていないといけないのだ!と、心底思っている。だから60過ぎてもつねにかにかしないといけないと信じて疑わない。

これが大昔だったらどーなるのか。
夜、いろりを囲んでめしを食う。今日あったことなど、たのしく子供たちと団らん。おとうとおっかあは、夜なべ仕事。。。。?
ほんとはいろりにくべる薪がもったいないから、日の明るいうちに食って寝る。
今。
おっとうは仕事で徹夜。おっかあは内職仕事。子供たちはゲーム。たまに親子で一緒にいるとおうち映画。

つねになんかしている。
ほげーっと、ぼけーっとなんにもしていないときがあるか。ほとんどない。手持ち無沙汰になると、ツイッターしている。ユーチューブ見ている。

なにかしていると、「このままではいけないのだ」という強迫観念を少し緩めてくれる。なにかやっていると、「おれはとりあえず、なんかしているぞ」と、自分を説得できる。それはなんかしていないとろくな人生がやって来ないとインプットしているからだ。
恐れによって無意識に心が突き動かされている。
その怖れの最初のアイディアは、親や先生からだとおもう。だが親や先生をしかってはいけない。その親や先生だって、そのまた親や先生にそう教わって来たんだもん。

だが恐怖に突き動かされた行動なんて、目先のことにとらわれて右往左往するだけで、結果的に混乱を生み出していく。これがこの世が矛盾だらけのシステムになって来た理由だ。

ほめられたがっているのも、自分がここにいていいのか?という根本的な存在の怖れからきている。
その怖れに気がついていることだ。その怖れはいけないことだと思う必要もない。ただ気がつき、その怖れとともにいる。

怖れを見る。怖れがぐるぐる回っている洗濯機の渦を上から見る。(中でおぼれない)
それはどんな怖れ?
どこから来た?
どんな色?
どんな感じ?
その感じは前に味わったことがある?
それはいつ?
どんな場面だった?
そうやって自分の心深くに入っていく。きっと一番恐怖だった瞬間にであうんだろう。

でも今そこにはないよ。その時間を今すごしてないよ。今そこにあるのは、あなたが感じている恐怖の感情だけなのだ。
その感情とともにいよう。それは単なるエネルギー。ジッと観察しているとやがて消えていく。

静かな時間を持つのはそんなとき。外を走り回っても、外の映像を見ても答えはない。この胸の奥にしまってある傷(おそれ)は、自分で発見するしかない。

そこにすわって、ほげーっと、ぼけーっとしよう。

2012年10月22日月曜日

ムダに元気な世代?



山の麓のコーヒー屋さんで、妄想少年(30代)とやまんばは、団塊の世代10人ほどのオヤジたちにまぎれて話を聞いた。

「おお、久しぶりだねえ。中学校の卒業式依頼だねえ」(どんだけ前や)
中学時代のクラスメートが、偶然みんなで出くわしちゃったらしい。

「最近の同窓会で、前の方にいた頭の薄いやつをみて、どっかで見たやつだなあ。ありゃわしらの教頭先生じゃないか、なんていってたら、わしらの同級生だったんじゃあ~。わっはっは」
(じゅうぶんあなたたちも教頭先生に見えます)

「ほら、クラスの○○ってやついたろ、あいつこの間死んだんだ。
「そーか、死んだか。」
落ち込むでもなく、次々に話が移っていく。

「ムダに元気なんだよね、この世代の人たち」
と妄想少年がつぶやく。
「ほんまに。」
とやまんば。
「高尾山にはこーんな人ばっかが歩いている。メチャクチャ元気」
毎週高尾山に登る彼はうっとおしそーにいう。
となりでオヤジが嬉しそうに聞いている。

ここにくる山オヤジどもは、10時頃にはもう高尾山に登った帰りだ。高尾山は午前中あらよっとウオーミングアップ用の山なのだ。

こんだけ元気だと、このまま10年は山に登り続けるだろう。すると遭難者もうなぎ上りにあがっていくんだろな。お山に山桜が増えるのかもしれん。高尾山は巨大な墓地になるんかいの。それもまた情緒があって優雅でいいかもしれん。

「これからなにしようっかなあ~。おれ、ここに来るといつも午後からなにしようかと悩むんだ」
ピンクのポロシャツ姿でいい感じのとなりのオヤジがつぶやく。
引く手あまたで、なかなか退職できず、おまけにしょっちゅう出張している忙しいオヤジだ。たまの休みじゃないか、寝てたっていーじゃないか。でもよく聞くと、午後は父親の法事があるらしい。彼にとってはそれだけじゃスケジュールが埋まらないらしく、
「パチンコでも行っかあ~」と、青空を見上げていた。

ほとんど意識は中学生のままのようだ。
ただスケジュールの内容が違うだけで。。。

2012年10月17日水曜日

物質はじぇったい的に存在するのか。



量子力学的にゆーと、信じるものが現れる。
となると、見えるから信じるんではなくて、信じてるから、そう現れるのだ。

物質はある。
そう信じているのは、見えるからである。
だが見えるからという、その「見える」が、はたしてホントなのか?は実はちっとも証明できないのだ。

物質としてここにある。うん。そーだ。触ったらあるぞ。それににおいもある。あるに決まってんだろーが。と、ひらきなおる。
しかしそれが単なる同じ周波数の皮膚(と思っている物質)と、その目の前にある同じ周波数の物質とが反発し合って、ある、と思っているだけだったとしたら?そしてその目の前にある物質は、眼の網膜に現れているものを「見ている」だけだとしたら?じゃあ、目の前にあるのはなんなんだ?

たしかになんかある。なんかあるらしい、なんじゃ?そりゃ、エネルギーみたいなもんだろう。それを見て、人間は「物質がある」とおもっているだけなんじゃないか?

その証明できないあやふやな「物質」を、あるがごとく想定して、そこに定義付けをする。これはこーでなければいけない。あれはそーでなければいけない。
野菜は肥料を与えないと育たない。背骨は木っ端みじんになったら、元に戻らない。
ほんとだろうか?

元々そこに物質があるがごとく思っているから、物質が「存在」して、そこに数々の実験結果(これもまた思った通りの実験結果が現れる)として、定義が出来上がる。人々はおえらい学者さんのゆー事だから、きっとそのはずだ。と「信じている」から、人々がそのようにすれば、結果も同じようにそうなる。

だけど肥料を与えずに米や野菜を育てている農家さんもあれば、ウチのかーちゃんのように、自分で木っ端みじんになった背骨を元に戻すやつもいる。
なんなんだ?この世は何なんだ?いったいここにはなにがある?

そのあると信じているものに「常識」という名の印籠を突きつけて、これは正しい、これはまちがっていると言い合ってケンカしている。

ほんとはそこになんにもないかも知んないのに!
ホントはじぇんじぇん違う世界が広がっているかもしんないのに!
人間はものすごーいちっこい世界で、あれがいけない、ちゃんとしなきゃ、っておろおろしているだけなんじゃないか。。。?

外に物質はないなら、一体何が確かか。
それは自分の感情じゃないだろうか。この感情だけが確かに自分が存在する事を教えてくれている。それはエネルギーだ。このエネルギーの使い方を私ら人間はまだしらないのだ。目の前に現れてくる物質だけにとらわれて、そこにあるがごとく振る舞う。

私たちは無限なのだという。
その無限を知るために有限の世界をつくった。有限の狭い世界で、飛ぶ事のできないことや、他人の心を見れないことゆえの工夫の楽しさや喜びを知った。やっぱり無限の世界ってすごいんだなあって。だがいつのまにか、無限である事を完全に忘れてしまったのだ。そしてただ有限の世界だけで苦しんでいる。それが今の私たちの世界。

だが量子力学は語る。
思った事が形に現れる。信じるものが現れる。物質は固い動かない確かなものではない事を。

もう外の問題に振り回されているのは、意味がないようだ。のれんに腕押しなのだ。

あるのは今ここにある瞬間と、そのそこにある自分のエネルギー。このエネルギーを感じていよう。今、自分が何に反応して感情的になっているか、それだけをみよう。何も解決しようとしないこと。ただそこにある。それが自分に還るゆいいつの道のようなのだ。


そうはいってもやまんばだってふりまわされてんだけどよお。

だけどこの年になって思うに、むだなテーコーはやめろってことなんだろなっておもう。
若いとなんとかできる!っておもっちゃってたけど、今考えると、なんとかしてできた!ってゆーよりは、「あれ?そうなっちまったか」ってことだったんじゃなかったかってね。するってえと、「なるようにしかならん」のかもしれないなあって。すると、あれこれああしなきゃ、こーしなきゃとあくせくしてたのは、むだなエネルギー使ってただけだったんかいなって。

なんてえことを考えながらほげーっと庭見てると、突然縁の下から顔だした野良ネコのびっくりまなこと目が合っちまったよ。


2012年10月10日水曜日

まちがってはいけない



近所で畑をやっているおばちゃんがウチの畑にやってきた。
「一度お宅の畑を見せて」
「いやー、参考にはならんですよ。でもあまりのひどさに、お宅の畑に自信を持っちゃうかもしれないから、そういう意味でいいかも~」
そういいながら畑に連れて行った。

おばちゃんは興味深そうに、
「これはニンジンね。あ、これは大根。これはなに?え?のらぼう?ふーん。。。」
と、草ぼうぼうの畑の中を歩いていく。
「これ、ホントに何も入れてないの?」
「ええ」
「石灰も?肥料も?」
「もちろん」
「へえ~、できるんだあ。。」
まだちっちゃい葉しか出ていない畝たちをまじまじと見て歩いた。

「どうやるの?」
「草引っこ抜いて、ちょっと土をかき混ぜて、種入れて、その上に刈った草をのっける。芽がでたら、草はずす。それだけです」
「え?まず、草引っこ抜いて、土かき混ぜて、。。。」
おばちゃんは、私が言ったことを繰り返して、
「わかった。やってみる」
は。。。?

彼女はまわりの人に聞きながら、堆肥入れて、石灰入れて、化学肥料も入れて、連作はしないで、という普通ここらの人がやっている農法を見よう見まねでやっている。
それを事もあろうに、正反対の、何も入れずに、連作しまくりの、草ぼうぼうの方法論をあっさりとやろうとする。
何度も私の方法を聞き直して「ね?それでいいのね?」と確認する。
お土産にのらぼうの小さな苗をもらって嬉しそうに帰っていった。

ここらでやまんばの畑はみんなにバカにされている。だからこのやり方をマネしよう、なんて思う人は誰もいないのを知っている。だもんだからやまんばはおばちゃんの言葉に面食らった。

まだやりはじめたばかりだから(よくは知らんが)、何でも吸収しようという試みなのだろう。確固たる信念があってのことにみえない(まさかチッ素多投入によって硝酸態窒素を生み出しているとは考えもしない)。よくいえば頭が柔らかいともいえる。
おもしろいのは、近所にバカにされている方法を、そっくりそのままやろうとする。おばちゃんにとっては、みんな先生なのだ。

しかしよりによってこのやり方まで、必死にマネしようとするなんて。。。
おばちゃんが帰った後、草を刈りながらぼーっと考えていた。なんで何度も聞き直したんだろう。。。?

ひょっとしたら、「まちがったことはしてはいけない」と思っているんじゃないだろうか。

どの方法でも関係なく、ある人がやっている方法をちゃんとまちがえないようにやる。そうしなければいけない、そう自動的に思い込んでいるのではないか。

よく考えると、私らは何でも「まちがってはいけない」って考えていないだろうか。行動のひとつひとつに「これはまちがっていないか?」と無意識に確認をしていないか。そいうことは、そこには「正しいやり方」と「まちがったやり方」が存在する。そしてそのものさしによって自分の行動を選択するのだ。

それはお箸を右手で持つか、左手で持つかというものにも、昼間はカーテンを開け放しておくか、いや物騒だからと、しめっぱなしにしておくかということにさえ、である。

で、正しいには、必ずその反対のまちがっているというものが存在するから、カーテンを開け放っていても「ひょっとして物騒じゃないかしら?」という恐怖も呼び起こす。すると心の中が「いや、昼間は開け放っていた方が健康的じゃないの」と自分の行為に対して正当化を始めるのだ。

いそがしいやろ?

その元になるのは、小さい時に入ってきた「ちゃんとしなければいけない」という不動の価値観である。そのちゃんとするという基準は「これは正しい」「これはよくない」だ。
働かざるもの食うべからず。
だらしないとろくな人間にならない。
ほら、お天道様がちゃんと見ているぞ。

その不動の価値基準は、時代とともに簡単にコロコロ移り変わる。そのちょーいい加減な価値基準を人間は必死になって守ろうとする。自分の中にえんま様を作る。
「おまえ、それまちがっていないか?」
「はあ、えんま様。ちゃんとやりますう~~~」

心の病いも実はなにげないこんな小さなことから育ていった結果なんじゃないだろうか。。
最近そんなふうに考えたりもする。

2012年10月8日月曜日

津久井の在来種


きのう津久井にある島村農園へ行ってきた。
島村さんは6年前から農業をはじめられたときから、無肥料栽培を行なっていた。昨日は津久井在来種のエダマメの試食会だった。
広大な敷地に広がる大豆畑。プリップリにはち切れそうな若い大豆がたわわに実っている。その重い実を支えるたくましい支柱は、無肥料の土の上にどっかとそそりたっていた。
そうか。やっぱりできるんだな。。。
そーっと土に指を突っ込んでみる。指はゆっくりと大地に吸い込まれるように入っていった。

「何も入れないことです。土にはなにもいらないんです。」
小さな声で島村さんはおっしゃった。大いばりで自分の流儀を主張しない謙虚な方だった。だから土と対話できるのかもしれんなあ。静かにじっと畑を見つめる島村さんの姿が眼に浮かんだ。
近くで無肥料栽培している人はいないかとずっと探していたのに、なかなか見つからなかったわけが分かった。

やまんばはさいきん、方法は何でもいいんだなあと思うようになった。うんちを入れる農法でも、草の根っこを置いておく農法でも、菌を入れる農法でも、なあんにも入れない農法でも、農薬と化学肥料を入れる方法でも。
その人の生まれてきてから身につけた巨大な記憶のバックボーンによって選んでいるものがあるんだ。だから選んだそのものが「正しい」のだ。

だいじなのは、その農法を使って自分の畑と静かに向かい合うことなんだろうとおもう。向かい合うっていう言葉は最近よく使われるけど、じつはものすごく難しいことなんじゃないかと思う。だって、世の中向かい合えなくなるような「魅力的な」アイテムがわんさかあるんだもん。いや、無意識に向かい合いたくないから、他のことに眼を向けて逃げているのかもしれん。だからやまんばも自分の「問題児(と思い込んでいる)の畑」から逃げるように、必死になって外の方法にとらわれて、「あれが正しい。いや、やっぱりこっちが正しい」と、あっちだこっちだって巡り巡ってきたのだ。


やまんばは、地球のこと考えて畑はやらない。そりゃ理屈で考えたら、畑にいれ過ぎる窒素が自然のバランスを崩していくことは知っている。人間がアレコレ考えてやった結果はいつも混乱を起こし、自然のバランスを破壊する。だから有機農法はダメだとか、農薬はダメだとかいうのがはやっている。

だけどそのアレコレ正しいと主張をすることに疲れてきたんだな。
自分が正しいと言うと、必ずあっち側に正しくないものを出現させる。自分で正しいと思っていることに同調する人は味方で、同調しない人は敵になる。すると必ず戦いが始まるじゃないか。自分の心の中だって、しょっちゅうあれとこれが戦い合っている。夫婦の中や、友達の中や、親子の中にまで戦いがある。それは一番最初に「正しい」と「まちがっている」が存在しちゃったからじゃないか?だれだって、どっちの立場から見てもみんな「自分が正しい」のだ。
議論したっていつまでたっても答えは出ないし、相手を説き伏せることなんかできないのだ。だってみんな自分が正しいと信じているんだもん。

今はみんな自分の正しさを声高に叫ぶ。
セーフもホーシャノーもトカゲもまちがっている!

じゃあなにかできるんだろうか。わたしゃ、なにもできない。ダンナの指一本動かすことなどできない。そんな人間にセーフなんか動かせるわけがない。

動かせるのはたったひとつ、じぶんだけ。
だけどここに無限の広がりがある。とんでもない秘密が隠されている。心が迷った人は、自分に還るしかない。自分の中に壮大な秘密がある。とんでもない宇宙があるようなのだ。人類はそこにむかう時にきている気がする。


島村農園さんの畑を見て、「やったー!やっぱこれだったんだ!」というよろこびはなかった。前だったら、おおよろこびだったはずだ。今は自分にとっての静かな確信があるだけだった。
もう何もしなくていいのだ。。。と。
これからは、自分と自分がまいた種との会話しかないのだ。

ほくほくととってもおいしい島村農園の無肥料栽培エダマメは、やまんばの口と心の中に宇宙のエネルギーをよびこんでくれた。

島村農園さま、ありがとうございました。

2012年10月5日金曜日

間引きできるうれしさよ〜



間引きをする。
ひゃあ、間引きをするなんていつやっただろ?

いままでは双葉が出ても、間引きするまもなく、次々にコオロギに食べられて、ムラムラに「自然間引き」されるだけだった。それが頭にきて、がむしゃらにまいてしまい、今度は間引きできないくらいにビッチリ生えそろってしまう。うんざりしてほったらかしにしてると、そのうちまたコオロギに全滅にされる。そんなことばかりだったここ数年。

今年はどーしたことか、スジ蒔きした、ミズナ、チンゲンサイ、小松菜、白菜、壬生菜、ルッコラ、コリアンダーなどの葉もの野菜を間引きできている。コオロギもなぜか食わない。黄緑色の若い葉っぱがそれぞれの畝の中で、2列にお行儀よくならんで育っている。ぐふふ。なんでや?

いろんな農法を巡り巡った結果、「どんだけ楽にできるか農法」をさぐっている真っ最中。
今年はたんじゅん農法もたいへんなのでやめてみた。だって草を刈って、それをハミキリで細かく切って(これが驚くほど怖い。歯に指をちょっとでもかすりでもしたら、さっと切れて血がどぼどぼになる)、それを畝に撒き、それをまたすき込むことの大変さよ。耕耘機でもない限り、ムリ!買ったシュレッターはもったいないので、ウチの木をチップした木っ端は、後で大きく育った苗のそばにマルチにすることにする。

とにかく土の中になんにもいれないことにした。米ぬかも油かすも堆肥も。

今年もまたメヒシバとイヌコロ草が畑いっぱいに生えた。ぶちぶちと手で引っこ抜けるほど土が柔らかくなっているので、ひっこぬいて、双葉が出るまでの草マルチにだけする。
畝の土は、軽く5~10センチほど耕すだけ。試しにスコップを突っ込んでみるが、柔らかい所もあれば、固い所もある。だけど気にせず、そのまま種を蒔く。その上にさっき刈ったメヒシバをのっけて、芽が出る間で蓋をする。双葉が出れば、その草は畝道にどける。自然農では、そのまま草マルチをおいておくが、芽が出ると草をよけるようにへろ~っと双葉が徒長しちゃうもんで、後の処理が大変になる。だからはずすことにした。ほら、これ新聞紙の代わり。

思い出せば、一番最初の開拓したばかりの頃。あの時はなんにも土に入れなかった。あのとき間引きして以来の間引き。

人間、あれしなきゃ、これしなきゃといろいろやる。いろいろやるうちに、なんだか混乱してきてわけ分んなくなる。ほんでもってまた色々調べまくって、ますます混乱する。

人の畑の結果聞いたって、しょせん人の畑。自分の畑は自分で見んとしゃあないなあ。
これ、自分の生き方と似ている気がする。人の話ばっか聞いても、しょせん人の話。じぶんのことは、自分で真正面から見んとしゃあないなあ。