2012年10月17日水曜日

物質はじぇったい的に存在するのか。



量子力学的にゆーと、信じるものが現れる。
となると、見えるから信じるんではなくて、信じてるから、そう現れるのだ。

物質はある。
そう信じているのは、見えるからである。
だが見えるからという、その「見える」が、はたしてホントなのか?は実はちっとも証明できないのだ。

物質としてここにある。うん。そーだ。触ったらあるぞ。それににおいもある。あるに決まってんだろーが。と、ひらきなおる。
しかしそれが単なる同じ周波数の皮膚(と思っている物質)と、その目の前にある同じ周波数の物質とが反発し合って、ある、と思っているだけだったとしたら?そしてその目の前にある物質は、眼の網膜に現れているものを「見ている」だけだとしたら?じゃあ、目の前にあるのはなんなんだ?

たしかになんかある。なんかあるらしい、なんじゃ?そりゃ、エネルギーみたいなもんだろう。それを見て、人間は「物質がある」とおもっているだけなんじゃないか?

その証明できないあやふやな「物質」を、あるがごとく想定して、そこに定義付けをする。これはこーでなければいけない。あれはそーでなければいけない。
野菜は肥料を与えないと育たない。背骨は木っ端みじんになったら、元に戻らない。
ほんとだろうか?

元々そこに物質があるがごとく思っているから、物質が「存在」して、そこに数々の実験結果(これもまた思った通りの実験結果が現れる)として、定義が出来上がる。人々はおえらい学者さんのゆー事だから、きっとそのはずだ。と「信じている」から、人々がそのようにすれば、結果も同じようにそうなる。

だけど肥料を与えずに米や野菜を育てている農家さんもあれば、ウチのかーちゃんのように、自分で木っ端みじんになった背骨を元に戻すやつもいる。
なんなんだ?この世は何なんだ?いったいここにはなにがある?

そのあると信じているものに「常識」という名の印籠を突きつけて、これは正しい、これはまちがっていると言い合ってケンカしている。

ほんとはそこになんにもないかも知んないのに!
ホントはじぇんじぇん違う世界が広がっているかもしんないのに!
人間はものすごーいちっこい世界で、あれがいけない、ちゃんとしなきゃ、っておろおろしているだけなんじゃないか。。。?

外に物質はないなら、一体何が確かか。
それは自分の感情じゃないだろうか。この感情だけが確かに自分が存在する事を教えてくれている。それはエネルギーだ。このエネルギーの使い方を私ら人間はまだしらないのだ。目の前に現れてくる物質だけにとらわれて、そこにあるがごとく振る舞う。

私たちは無限なのだという。
その無限を知るために有限の世界をつくった。有限の狭い世界で、飛ぶ事のできないことや、他人の心を見れないことゆえの工夫の楽しさや喜びを知った。やっぱり無限の世界ってすごいんだなあって。だがいつのまにか、無限である事を完全に忘れてしまったのだ。そしてただ有限の世界だけで苦しんでいる。それが今の私たちの世界。

だが量子力学は語る。
思った事が形に現れる。信じるものが現れる。物質は固い動かない確かなものではない事を。

もう外の問題に振り回されているのは、意味がないようだ。のれんに腕押しなのだ。

あるのは今ここにある瞬間と、そのそこにある自分のエネルギー。このエネルギーを感じていよう。今、自分が何に反応して感情的になっているか、それだけをみよう。何も解決しようとしないこと。ただそこにある。それが自分に還るゆいいつの道のようなのだ。


そうはいってもやまんばだってふりまわされてんだけどよお。

だけどこの年になって思うに、むだなテーコーはやめろってことなんだろなっておもう。
若いとなんとかできる!っておもっちゃってたけど、今考えると、なんとかしてできた!ってゆーよりは、「あれ?そうなっちまったか」ってことだったんじゃなかったかってね。するってえと、「なるようにしかならん」のかもしれないなあって。すると、あれこれああしなきゃ、こーしなきゃとあくせくしてたのは、むだなエネルギー使ってただけだったんかいなって。

なんてえことを考えながらほげーっと庭見てると、突然縁の下から顔だした野良ネコのびっくりまなこと目が合っちまったよ。


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