2012年10月10日水曜日

まちがってはいけない



近所で畑をやっているおばちゃんがウチの畑にやってきた。
「一度お宅の畑を見せて」
「いやー、参考にはならんですよ。でもあまりのひどさに、お宅の畑に自信を持っちゃうかもしれないから、そういう意味でいいかも~」
そういいながら畑に連れて行った。

おばちゃんは興味深そうに、
「これはニンジンね。あ、これは大根。これはなに?え?のらぼう?ふーん。。。」
と、草ぼうぼうの畑の中を歩いていく。
「これ、ホントに何も入れてないの?」
「ええ」
「石灰も?肥料も?」
「もちろん」
「へえ~、できるんだあ。。」
まだちっちゃい葉しか出ていない畝たちをまじまじと見て歩いた。

「どうやるの?」
「草引っこ抜いて、ちょっと土をかき混ぜて、種入れて、その上に刈った草をのっける。芽がでたら、草はずす。それだけです」
「え?まず、草引っこ抜いて、土かき混ぜて、。。。」
おばちゃんは、私が言ったことを繰り返して、
「わかった。やってみる」
は。。。?

彼女はまわりの人に聞きながら、堆肥入れて、石灰入れて、化学肥料も入れて、連作はしないで、という普通ここらの人がやっている農法を見よう見まねでやっている。
それを事もあろうに、正反対の、何も入れずに、連作しまくりの、草ぼうぼうの方法論をあっさりとやろうとする。
何度も私の方法を聞き直して「ね?それでいいのね?」と確認する。
お土産にのらぼうの小さな苗をもらって嬉しそうに帰っていった。

ここらでやまんばの畑はみんなにバカにされている。だからこのやり方をマネしよう、なんて思う人は誰もいないのを知っている。だもんだからやまんばはおばちゃんの言葉に面食らった。

まだやりはじめたばかりだから(よくは知らんが)、何でも吸収しようという試みなのだろう。確固たる信念があってのことにみえない(まさかチッ素多投入によって硝酸態窒素を生み出しているとは考えもしない)。よくいえば頭が柔らかいともいえる。
おもしろいのは、近所にバカにされている方法を、そっくりそのままやろうとする。おばちゃんにとっては、みんな先生なのだ。

しかしよりによってこのやり方まで、必死にマネしようとするなんて。。。
おばちゃんが帰った後、草を刈りながらぼーっと考えていた。なんで何度も聞き直したんだろう。。。?

ひょっとしたら、「まちがったことはしてはいけない」と思っているんじゃないだろうか。

どの方法でも関係なく、ある人がやっている方法をちゃんとまちがえないようにやる。そうしなければいけない、そう自動的に思い込んでいるのではないか。

よく考えると、私らは何でも「まちがってはいけない」って考えていないだろうか。行動のひとつひとつに「これはまちがっていないか?」と無意識に確認をしていないか。そいうことは、そこには「正しいやり方」と「まちがったやり方」が存在する。そしてそのものさしによって自分の行動を選択するのだ。

それはお箸を右手で持つか、左手で持つかというものにも、昼間はカーテンを開け放しておくか、いや物騒だからと、しめっぱなしにしておくかということにさえ、である。

で、正しいには、必ずその反対のまちがっているというものが存在するから、カーテンを開け放っていても「ひょっとして物騒じゃないかしら?」という恐怖も呼び起こす。すると心の中が「いや、昼間は開け放っていた方が健康的じゃないの」と自分の行為に対して正当化を始めるのだ。

いそがしいやろ?

その元になるのは、小さい時に入ってきた「ちゃんとしなければいけない」という不動の価値観である。そのちゃんとするという基準は「これは正しい」「これはよくない」だ。
働かざるもの食うべからず。
だらしないとろくな人間にならない。
ほら、お天道様がちゃんと見ているぞ。

その不動の価値基準は、時代とともに簡単にコロコロ移り変わる。そのちょーいい加減な価値基準を人間は必死になって守ろうとする。自分の中にえんま様を作る。
「おまえ、それまちがっていないか?」
「はあ、えんま様。ちゃんとやりますう~~~」

心の病いも実はなにげないこんな小さなことから育ていった結果なんじゃないだろうか。。
最近そんなふうに考えたりもする。

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

やったね!!

つくし さんのコメント...

その内伝染して、みんなが無肥料栽培になったりして。。。
あるわけないか。