「仕事ができないヤツはダメだ」
そう教わってきた。
とーちゃんに、学校の先生に、仕事の上司に、クライアントに。
いつのまにか、仕事ができることが自分がここにいていいと言う許可をもらえることであり、仕事ができないと言うことは、この世にいる価値なし!!と有罪判決をもらうことと同義語になった。
だから必死で仕事ができる人になろうと努力してきた。
だがしかし。
仕事ができる人になろうとする事じたいが、その大前提に「私は仕事ができないひと」というレッテルを自分に貼ることになろうとは。
ちっちゃい時から、「わたしは仕事ができないひと」というレッテルとともに生きてきたのだとすれば。。。
「よくできましたねえ~~」と、先生にあたまをなでられようと、その一瞬だけ「やった!」とよろこび、次の瞬間、「さて!今度頭なでられるためには。。。」と、次の一手を考える。そうやって58年間生きてきた。
つまりここにいる価値なし!という焦りが、つねに何かをして他人にほめてもらおう、または自分で自分を納得させようとし続けていたと言うことだ。
それが私のフェイスブックに現れている。「いいね!」を欲しがる自分に。
だがこれはきりがない。
延々と、能力主義の呪いにかかったままだ。
畑の成果を見せ、
作品を見せ、
リア充を見せ、
成功例を見せ、
時には失敗例を見せ、、、、
そうやって、誰かに、私ここにいていいだろ!?
ねえ、ほんとにいいよね!?
と、聞きまくっている自分。
ほんとは、畑の成果も虚しい現実。
制作中に作品に対する葛藤の日々。
部屋は汚くても、写真の中だけ美しく見せるしたたかさ。
そういう自分をリアルに感じて、
なおさら自分の無力さにおちいる。
そして出てくる言葉、まったくここにいる価値なし!
できる人、できない人
という明暗がどんどんかけ離れていく。
自分の中で表の顔と裏の顔がはっきりと分裂しはじめる。
そして、その苦しさが頂点に達した時、
「これ、必要?」
とおもった。
能力主義というコインの裏表/できる人できない人。
このコインをずっと握りしめていたんだ、私。
ほんとうは、誰も私の作品が良いことを必要とはしていないし、
畑の成果を必要ともしていないし、
私のリア充を必要ともしてはいない。
私だけが、必要としていた。
それは自分がここにいていいと言われるために。
誰もそこにいてはいけない、とは言ってないのに。
何もしない君は、そこにいてはいけない、とは言ってないのに。
自分で自分に呪いの言葉を浴びせ続けていた。
自分を苦しめていたのは、心の中の言葉だった。
あれがダメだ。これもダメだ。それもダメだ。
それを聞いた私は、そうか!やっぱあれがダメなんだ!なんとかしよう!そしてそれをなんとかしたなら、またみんなに認めてもらえる!
心の声をまに受けて、声の言うまま続けてきた声に、
「それ、ほんとに必要?」
と疑いはじめた。
内側から聞こえてくると思っていた声を、外のものとして聞きはじめた瞬間だった。
否定してくる声が、いかに自分を怯えさせ、焦り、何かをしようという衝動を起こさせていたか。その混乱の中でいかに怖れをつかんでばかりいたか。
自分に条件づけをせず、ただ生きることが、どれだけ楽であったことか。
58年間近く聞いてきたこの声。
そうやすやすと消えてはくれないだろう。
それでも、すこし安堵しているこの頃な私である。