車の中で信号待ちをしているとき思った。
今にいるってすごいことだ。
明日のことを考えない。未来のことを考えない。
これから家に帰って、あれしてこれして。。。
そういうことを全く考えないことができることを知る。
一瞬先のことを考えることは恐れからだ。
未来のこと、即恐れ。
恐るから、未来どうにかしようと躍起になる。
だが今ここに本当にいるということは、何の心配もしていない。
未来のことを考えていることも今だというけれど、少し違うと思う。
そのことが恐れと一緒にいることに気がつくことが、
今にいることに、近づいている。
本当に今にいるとは、全く恐れがないことだ。
だから未来のことさえも考えつかない。
ただこの今にくつろいでいる。
それをはっきりと教えてもらえる瞬間が、
自分に来るとは思ってもいなかった。
今は確定申告真っ最中、
町会の仕事も山積み、聞き取り調査で町会をウロウロ。
しかも仕事もなし。一体仕事はいつ来るのやら。
なのに私は呑気にプールで泳いで帰ってくる最中。
どこかのネジが10本ぐらい抜け落ちた。
ああ、大丈夫だ。
このまんまでいーんだ。
頭真っ白でいーんだ。
意図的に考えなくできる。
それは自分の人生への信頼感。
罪悪感が減っていくほどに、
心の中の考えに意味がないことに気がついていく。
あしたのジョーをやる意味がないことに。
心の中の考えをよく見ると、ほとんどが恐れからくる考え。
これこそ、何の意味もない考え。
だけどそれに気がつくことから始まる。
恐れからくる考えは、いくら考え続けても、恐れに到達するだけだ(笑)。
赦しという呼吸法は、その罪悪感という恐れを少しづつ消していく。
私たちは常に「あしたのジョー」を生きている。
明日のためにその1。
明後日のためにその2。
明々後日のためにその3。
路頭に迷わないために、人に迷惑かけないために、
ひたすら今じゃないどこかに向かおうとしている。
じゃあ、考えなければいいじゃないかと。
冗談じゃない。
考えなくできることなんてできない。
5秒と持たないだろう。
心は絶えず考えている。ひたすら考えている。
まずはそのことに気がつかないと。
自我はうまくそれをごまかして、そこに向かわせないようにさせる。
他に気を散らさせる。
それは自我そのものが恐れでできているから、その恐れを見られることを拒む。
だがその恐れこそ、自分で見なければ、そこにあるものを知ることができない。
自分の体感を通して恐れは気がつく。
不快感、違和感、イラつき、心配。
何を恐れているのか。
赦しという呼吸法は、そこで発揮される。
誰かにイラつき怒る。しかし事実は自分に怒っている。
自分に向けられた怒りが苦しいので、誰かに向かって怒っていることにする。
その時心は私は善人だと思える。
しかしその時、実は自分を傷つけている。
他人と自分は一つであるならば、
怒ることも、責めることも、全て自分に向けられている。
その自分を赦すことだ。
とことん、赦すことだ。
恐れている自分、怒っている自分、不安な自分、違和感を感じる自分。。。
ぜーんぶ、そんな自分を赦すことだ。
で。あの時、一瞬見せてもらったけど、また元に戻った(笑)
でもそれを指針に進んでいくのだー。
ありがとう!
絵:「おぼろ月夜」