自分の中にわき起こる思考をじーっと観察していると、あることに気づいた。
同じ言葉しかしゃべっていないのだ。
朝ふと目が覚めて、あたまが言い出す言葉。
ストーブがスイッチオンになる時に、感じる感情。
布団をあげる時に、言いはじめる言葉。
起き上がってトイレに入った時にいう言葉。
仕事している時に出てくる言葉。
買い物に出かけた時にいう言葉。
レジでお金を支払いながら出てくる感情。
晩ご飯の用意を考えている言葉。
風呂に入った時に言う言葉。
寝る前に言う言葉。
夜中にトイレに起きた時出てくる言葉。
そして朝目が覚めた時に、言いはじめる言葉。。。。
まるでオルゴールか、カセットテープが自動的に動き出すみたいに、
まったく同じ言葉を呟いている私がいた。
さらに聞いていると、一言一言はまったく同じなのだ。
がくぜんとした。
いやいや。私は曲がりなりにもクリエイターだぜ。新しいものを生み出す仕事の人が、同じ言葉しかしゃべってないだなんて。
どっかで新しいことを言っているはずだ。新しい、聞いた事もないような内容を、日々の中で発見しているはずだ。。。
しかし意識的に聞けば聞くほど、クリエイティブのひとつもない。
いつも同じ言葉を吐き、それを聞いたら、同じ感情をわき上がらせ、いつも同じ結末を憂う自分を見ただけだった。。。
心と見ている世界は同じものだ。なので、同じ考えの中にいては、同じ世界しか見れない。たとえ場所を変えて新しい所に出かけてみたところで、見たものに同じように反応するので、またおなじようなモノを見る事になる。
いわば、ひとつの箱の中で、ぐるぐるぐるぐるまわっているだけ。角度を変えてみたって、結局の所、同じ箱の中でしかない。
思考に乗らない、思考と同一化しないとは、こういうことだったのか。
理屈では判っていたし、だからこそ思考観察をつづけていたが、ここに来て、どうしてそうなのかと言うことを、別の視点から見たような気がした。
あたまが言うことをそのまんま聞く、鵜呑みにすると、わたしはいつまでたっても箱の中だ。その箱の中は、同じ思考で出来ているからだ。そしてずっと同じ世界を見続ける。
思考はある種、みえない牢獄の壁なのかもしれない。限られた思考の中で、限られた世界を見続けさせられる、透明な牢獄。。。
それは歳をおうごとに、固くなっていく。
世間はこういうもの、人はこういうもの、年がいったらああしなければいけないもの、こうでなければいけないもの。
歳がいくほどに、そういう言葉を友だちから聞きはじめる。そうやって、頭もカラダも固くなっていくのか。
お年寄りがどこか頑ななのは、「そうあるべき」が沢山増えて、かれらの見る世界は、より固く、狭くなっているのかもしれない。透明な壁は、ますます頑丈でびくともしないのかもしれない。
自分で自分を牢獄にはめている。
小さなオルゴールの箱の中で、同じ声を聞き、
それを鵜呑みにして同じ世界を見ている自分。
ここから出たい!と思いながら、
そのオルゴールの音に耳を傾け続けている自分。
小さなおとぎ話の中にいる私をみた瞬間だった。