ちいさいとき、欲しいものを手にしたとき、天国にも昇るような気持ちになった。
寝る前に枕元にそれを置き、眺め、幸せな気分になり、朝起きてそれに気がつくと、また天国に昇るような気分になった。
しかしそれも四日と持たない。五日目にはそれがあるのが普通になり、枕元には置かなくなり、やがておもちゃ箱の片隅に葬り去られる。
大人になっても同じことが繰り返された。
いや、大人になったらもっと幸せ感が短くなった。
二日。。。いや、一日で終る。
やった!ゲット!幸せ~~~♥となるも、次の日には、
「ありますけど、それがなにか?」となる。
おいしいものを食べても、「う~~ん、おいちい!」と、幸せ感がマックスになるが、口からその味が消える頃には、幸せ感が消える。
だからもう一口、もう一口と食べ続ける。
しかしじょじょに幸せ感は薄れ、食べ過ぎた頃には逆に不幸な気分になる。
最初の出会いが大きくて、その幸せ感を再現しようとその店に通うが、最初の衝撃は二度と味わえない。回数が増えるごとに幸せ感は急速に薄れていく。
若い時は、仕事をゲットした時によろこび、納品した時によろこんだ。
今は、仕事をゲットしたとき、ほっとし、納品してほっとする。これは若い時の幸せ感とは微妙にちがう。幸せ感というよりは、「すこし寿命が延びた」的な安堵だな(笑)。
どうも人の幸せ感は、何かを手に入れて感じるもののようだ。
ある条件があって、それをクリアしたとき幸せを感じる。条件づけの幸せ感。それは時間とともに消える。最初マックス。それからじょじょに落ちていく。
そのあとの何かしらの心もとなさは、次の幸せ感を求めてさまよう。今日はあそこであれ食べよう~!あのお店に次の新しい秋ものの服があるかしら?
それもまた人生の醍醐味。味わい。
でもどこかむなしさを感じる。
ずっとなにかをゲットし続けて、幸せをもらっているだけなのか?
ずっと何かをクリアし続けて、幸せをもらっているだけでいいのか?
幸せは自ら生み出せないものなのか?
何の条件も持たず、ただ幸せではいられないのか?
なにもせず、ただぼーっとしているだけで、幸せになはれないのか?
そう考えながら、庭の木々たちを眺める日々が続いた。
それはあるときふいに来た。
バイト先でトレイを拭いている最中に、唐突に来た幸せ感。
何の条件づけもない。何もゲットしていない。しかもつらいバイトをしている最中。
すべてが愛おしくなった。
目の前を通り過ぎるおばさん、おじさん、わかいおねえちゃん、おにいちゃん、
みんなが愛おしくなった。トレイが愛おしい。タオルも愛おしい。それを拭いている手も愛おしい。
目に見えるすべてのものが愛おしくなった。
内側から、何か意味のわからないものがどんどんあふれてくる。ついでに涙もあふれてくる。
ヤバい。誰かに見られたらへんだとおもわれる。
だけど止められないこの恍惚感。なんじゃこりゃ?
何かをゲットして得た幸せ感とはまるでちがう、これがちまたでいう至福というやつなのか。
その至福感は45分ほど続いた。
そのあとは何事もなかったかのように、いつもどおりの感覚に戻った。
たとえばジャングルの未開の人に、フェラーリ一台プレゼントしても、
「なんのこっちゃ?」と、幸せ感など感じないだろう。
条件づけの幸せ感は、その記憶の中に教えられた「価値観」がある。その価値観を元に、幸せを感じるものだ。しかしわたしがあのとき感じた幸せ感は、そういう教えられた価値観を越えている。それはジャングルの未開の人にも宇宙人にも共通して感じられるなにかだ。
それはもともと私たちがもっていたものではないだろうか。生まれてまもない頃もっていた感覚。
自分も他人もなく、自分と布団という違いもなく、そもそも自分という個別の意識さえもない存在。その存在がつねにもっていた感覚。ほとばしるような爆発するような感覚!
自分も他人もなく、自分と布団という違いもなく、そもそも自分という個別の意識さえもない存在。その存在がつねにもっていた感覚。ほとばしるような爆発するような感覚!
ただ私たちはそれを忘れることを選んだ。
忘れて個人個人になり、個別の人生を生きることを選んだ。
でもどこかで寂しい。なにかが欠けている感覚が残る。
その寂しさを、物をゲットすることで、あの感覚を思いだそうとしているのではないか。
あの至福感の擬似体験として。
紙絵:「つた」
紙絵:「つた」