2010年12月31日金曜日
ヨゴレの罪悪感
やまんばは暮れの大掃除がだいっきらい。
なんできらいなのか。ヨゴレを見るのがいやなのだ。じゃなぜいやなのか。それはそのヨゴレを見ると、自分の罪悪感が盛り上がって来るからだ。
「わ~、汚いねえ~。。。ここまで汚くするって、それってどーなの?そこまでほっといたあんたっていかほど?」
と、言われている気がするのだ。じわ~っと罪悪感に苛まれる。そして次の瞬間、自己嫌悪に移行する。
その罪悪感と自己嫌悪のダブルパンチを食らいたくないために、見ないフリする。しかし「暮れの大掃除はよい年を迎えられる」という伝統(掟?)による強迫観念の中で引き裂かれる。かくして無理矢理、いを決してぞうきんを持つ。しかしぞうきんを持つまでの行為にいたるまでに、そーとーのエネルギーを使っている。
みんなそんなにエネルギーを使っているわけではないのか?わたしだけなのか。
その根底に、いいこと、悪いこと、という2元論が横たわっているのに気がつく。ヨゴレは単なるヨゴレである。しかしそのヨゴレという言葉の後ろに「いけないこと」という形容詞がつく。自分は怠慢にもそのヨゴレが出るまで放っておいたのだ、という判断が下されている。掃除をするとは、そのいけないことをしてしまった私の、そのいけないことを白日の下にさらされるのである。
よそから見たら、「あんた、これ、単なるヨゴレじゃないの」となるのかもしれない。しかししつけの厳しいウチに育った自分は、なんでもかんでもいいこと、わるいこと、という判断やレッテルを知らない間に貼付けていたのだ。
単なるヨゴレとしか思わない人は、お掃除するとき親に怒られなかったのだろう。
「あんた!なにしゆうぞね。こんなに汚うして!さっさと洗いや!」
「おんしゃあ、なにしよらやー!」
とは言われなかったに違いない。
今、横に怒る人はいない。しかしインプットしてしまった罪悪感が私を勝手に責める。ヨゴレを見る。罪悪感が走る。自己嫌悪になる。その苦しさから逃れるために、言い訳を考えだす。
「し、仕事が忙しかったから」
「あ、あとでやろうと思ってたのよ」
「き、今日はちょっとからだがだるくって。。。」
心は正当化に忙しい。
つまりこうゆうことではないのか。
1:何かを見る。
2:ネガティブなことに結びつけてしまう。
3:それに対して罪の意識を感じる。
4:そんなことをする自分がイヤになる。
5:だが依然としてそれは消えない。
6:苦しくなってくる。
7:なんとかしてそこから逃げようとする。
8:そうなってしまった理由をさがしだし、自分を正当化しようとする。
そうやって、人は絶えず罪悪感と言い訳の中で翻弄されているのかもしれない。
ということは、ヨゴレを見て、勝手に自己嫌悪におちいっているだけなのだと気がつく。すると、ヨゴレを見ても何も感情的におもわなくなる。
「あ〜。こんなところに綿ぼこりがある〜。とっちゃえ!」
と、おもしろがれる。前のように、取れないヨゴレにイライラしたりしない。からだは勝手に軽くうごき、テキトーなところで終わらしてしまえる自分がいたのだ。
なんだ。そんなことだったのか。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」Michaerl E.Porter
2010年12月27日月曜日
生物多様性畑
知り合いのお家から、大きな大きな大根をもらった。一個もっても持ち上がらない。たっぷり栄養をもらって育ったりっぱな大根だ。サラダや煮物にしていただきます。
さて、それとはうってかわって、ウチの大根は大根とは言わない。どんぐりみたいにちっこいんで、小根と呼ばれている。ショーコンというと、なんだか根性のちっこいやつ、みたいなイメージだなあ。商魂たくましいとか。なんだ、ほとんど私じゃねえか。やっぱペットみたいに、野菜も作る人間に似てしまうんかなあ。
そーいやあ、種取りしたアブラナ科の野菜も思いっきり根性曲がっている。
先日ちっとも育たない白菜をふと、横から眺める。なんと、白菜の下にでっかい白い根っこが地面からぼっこり飛び出しているではないか。
な、なんじゃこりゃあ~~~っ。
直径10センチ以上ある白い大根が地面に突き刺さっている。いやカブか?その下はいったいどーなっているんだろ。丸いのか、長いのか、引っ張ってその正体をのぞいてみたい衝動に駆られる。これは確かウチでとった白菜の種だ。よく見たら、あちこちの太らない白菜の下に大根が潜んでいる。お、おもしろいじゃねえか。。。。
このように複雑怪奇な野菜(こうなると野菜なのかなんなのかわからない)が育ってしまう妖怪畑である。やっぱりペットと同じで似ちまうのか。。。
去年は全滅したソラマメ。今年秋口にまいた種は順調に育っていた。ある日、コウベをたれているソラマメちゃんを見つける。みんなでしょんぼりしている。よくみると、おびただしい数のアブラムシがソラマメちゃんのコウベにビッチシくらいついているではないか。顔中にアブラムシを付けて、がっかりしているようだ(ちがうだろ)。
ここまでくらいつかれていると、手で取るということはまったくできそうもない。おもわず、根っこから引っこ抜いて、水道でジャバジャバ洗って干して、また植えなおしたい衝動に駆られる。
しばらく考えて、
「困った時はそのままにしておけ」
という自然農の師匠川口さんのおしえどおり、ほっとく。(おい)
見ないフリしていたソラマメちゃんを久しぶりにのぞく。あれ?なんだかがっかりしていない。よくみると、あんなに顔にくっついていたアブラムシちゃんが、顔洗ったあとのように消えている。はは〜ん。あいつら、夜のうちに地面から這い上がって、近所の川で顔を洗ったな(それもちがう)。
ふと彼らの足下を見ると、カラスノエンドウが育ち始めている。そこにアブラムシがべっとり。。。
なんと移動しているようなのだ。
アブラムシは、「やっぱ、ソラマメより、カラスノエンドウよね~」
と言ったのか、どーなのか。
こーゆーのをコンパニオンプランツというのか?アブラムシちゃんにはアブラムシちゃんの好き嫌いがあって、
「あたし、ソラマメはあんまし好きじゃないけど、まあ、大好きなカラスノエンドウが出てくるまでは、これでガマンしてやるか」
と、当座のしのぎだったのかもしれない。草がないきれ〜いな畑じゃ、こんなことは発見できないど。これはコンパニオンプランツというよりは、今ハヤリの生物多様性っちゅうやつなんかもしれん。うちの白菜だって、大根と合体しているし。これを多様性と言わずして、ナニを多様性と言うのか。
今度、近所の畑のおやっさんにアホにされたら、草ぼうぼう畑と言わずに、
「ウチの畑は、生物多様性保全ですから」
といっておこう。ドーダー!
絵:ムックの表紙
2010年12月22日水曜日
予言ごっこ
「あんた、2011年10月28日に地球は終わるんだって、テレビで言ってたよよ」
と、母が電話で言う。私はほとんど見なくなったから、近頃のテレビの動向はわからない。
あれ?確か地球が終わる(人類だっけ?)のは、2012年12月21日じゃなかったっけ?いつの間に早まったんだ?
またはじまったなあ。『ノストラダムス現象』はいまだに人々を魅了するらしい。
やまんばも中学生の頃、ノストラダムスの予言を読んでコーフンしたたぐいの純朴な少女だった(どこが?)。その頃はまだ「やまんば」ではなかった私は、
「ああ、その時代に地球がなくなるんなら、子供は産めないわねえ。大変だもの。1999年に死んじゃうんなら、それまでにどんな人生にするのか、しっかり考えとかないと」
と真剣に考えたのだ。
んで、ニューヨークでその時を待った。なんにもおこらない。。。
「はれ?予言はどこ行っちゃったの?」
それからまもなく、マヤの予言というものが出現。今度は2012年12月21日に地球は終わることになった。その予言の説得力のために、フォトンベルトというものが現れ、地球温暖化があらわれ、千里眼者があらわれ、ありとあらゆる方向から、マヤの予言の説得力を演出する。それで一時期出版物もテレビも盛り上がった。が、どうもそれだけじゃ、ネタが減って来たらしい。たいくつしはじめた。それで、もちょっと早めの予言、どっかになあい?と。
みんな心底この社会がいやなんだろうな。だからちょっとでも早いとこ「終わって」くれればもっとうれしい、という深層心理なんだろうなあ。何の根拠でその日なのかはしらないが、あと1年も地球が持たないんであれば、ほとんどあくせくしないでいいではないか。わくわくしてその日を待つのがいいではないか。と、言う心理なのか?
どっちにしたって、ナーンにも起こらんとやまんばはフんでいる(人為的な演出はあるかもしれないが)。
歴史を辿ると、いつの時代も「予言」があった。その度に人々は右往左往し、実はワクワクし、あっけらかんとその日は過ぎ去り、予言なんてなかったかのようにやり過ごす。そしてまたある日、あらたに出現する「予言」に、凝りもせずまたコーフンを繰り返して来たのだ。
しかしこの世は終わらない。
アメリカ映画が映像で起こすような派手な崩壊は起こらない。地球のどこかで地震が来て火災が起きて家は崩れるだろう。しかしまた人々は動き始める。大カタストロフィーなどというものは起こらない。人類はひたひたと生き続けるのだ。そしてそこにはまた人々の葛藤がつづいていく。人生はいつまでたっても、その人が死ぬまで否応なく続いていくのだ。
だから予言に喜んでいてもしかたがないと思う。予言は一種の娯楽にすぎない。ゴシップネタのように楽しんで、自分の人生から逃避しているだけのことだ。
だからそろそろ私も自分の人生とか自分の感情から逃げないことをせんといかんなあと思うのである。
怪奇現象に逃げ、UFOに逃げ、予言に逃げ、スポーツに逃げ、レジャーに逃げ、金儲けに逃げ、不倫に逃げ、エステに逃げ、ほんでもってパワスポに逃げる私たち。今いる自分がいやで、今置かれた立場がいやで、年がいく自分がいやで、どこか別のところをいつも探している私たち。
その結果が、こんなにもみょ〜な世の中を作った。ホントは人のせいでも政府のせいでも予言のせいでもない。それを作ったのは他でもない、私たち自身。
その理由を理解するには、心が混乱して変になっていく過程を、はっきりと自分で見ることじゃないだろうか。そこには何の方法論も存在しない。その人にしかできない。誰も助けられない。そしてその心の中には、探し求めた青い鳥が住んでいる。実はその青い鳥そのものが自分なのだ。
でもさあ、最近太陽の位置がおかしいのを感じるのだ。
こりゃ、予言どころの騒ぎじゃないぞ!
って、相変わらず逃げてんじゃねえかよ。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」イラスト
2010年12月18日土曜日
最初のインプット
「こんなアラグイ歯で、よく大口あけて笑うなあ」
これがウチのダンナの私の印象。私は歯並びがチョー悪い。しかし本人はちっとも気にしていない。それは前歯が外れたとき、「お、ゲージツ的な歯並びだ」と母に言われたからである。子供の私は、「人のはずらっと横並びなのに、私のだけがたがたしている。かあちゃんはこれがゲージツ的だといって「ほめて」くれた!」(と、おもいこんで)喜んだのである。
それが私の自分自身の歯にたいする印象。「歯並びが悪いのは、かっこいいのだ」と。だから大口を開けて笑う。
だってかっこいいんだもん。
ここには二つの価値観の違いが存在している。
1:歯並びが悪い→かっこいい
2:歯並びが悪い→かっこわるい
母にほめられなければ、(ほんとはほめていなかったかもしれないが)私は今頃、口に手を当てて笑っていたかもしれない。
どうも最近思うのだ。人は最初のこれがいい、これが悪い、と言う価値観のインプットが、そのまま続いていくのではないかと。
そもそも感情が揺れるのは、その価値観のいい、わるい、という判断がなせるわざなんじゃないか?
つまり、真っ白なキャンバスに最初に塗られた色、又は最初に描き込まれた○か×かで、判断基準を作ってしまい、それは気付かないまま大人になってもその価値基準を続行させ続けるのだ。ヨメと姑がやり合うのは、生まれた時にインプットされた価値基準がまるで違うからだ。姑とダンナは価値基準が一緒だ。当たり前だ。ダンナの価値基準は、その母親がインプットしたものだからだ。
ひょっとしたら、人間は、ものすごーい単純なのかもしれない。
真っ白なコンピューターに、ある日「歯並びが悪い」という言葉が入ってくる。と、同時にそれはいいこと、悪いことという判断が一緒に添えられる。「歯並びが悪い」というアイコンをクリックすると、私のコンピューターには「かっこいい」という文字が出てくる。しかしダンナのアイコンをクリックすると「かっこ悪い」と書いてあるのだ。ダンナはダンナで、歯並びにたいする価値基準が、どこかでインプットされている。
私の「白髪」というアイコンをクリックすると、「かっこいい」と書いてある。母の「白髪」というアイコンをクリックすると「みっともない」と書いてある。
私の「ほっぺた真っ赤」というアイコンには「かっこ悪い」と書いてある。ダンナの「ほっぺた真っ赤」というアイコンをクリックすると「かわいい」と書いてある。
最初にそれがしのび込んだら最後、延々とその価値基準のまま、人は行動するのではないだろうか。
その基準が「みっともない」とか「かっこ悪い」と心を動揺させるのだ。感情的になるとは、この価値基準がもとになっているにちがいない。人はポジティブな価値観よりも、ネガティブな価値観に心を動かされる。ほっぺた真っ赤が恥ずかしいと思う私は、つねに自分のほっぺたの色を気にする。鼻の頭に汗をかくのが恥ずかしいと思う人は、つねに鼻の頭の汗を気にする。最初の第一歩の、その項目が出来上がった瞬間の、いいわるいに振り回され続けているのだ。
小さい時、その真っ白なコンピューターにアイコンは爆発的にふえる。
そのアイコンの中には、最初にインプットされた価値観、「いい」「わるい」という単純な価値観が入り込む。
少し大人になってもう少し複雑な心境も入る。ここちよい、ここちわるい、キモイ、キモくない、損、お得、勝った、負けた、好き、嫌い、えらい、えらくない、すごい、すごくない。。。。。などと。だが依然としてそこには二元論が展開されている。
たったこの二つの価値基準が、人同士を争い事に持っていく。二人の人間の後ろには膨大な数の二元論がひしめき合っているのだ。それは子供の頃にインプットされた価値基準によって。。。。
続く。。。。?
絵「ハーバードビジネスレビュー」扉イラスト
2010年12月16日木曜日
まだ知られていない感情?
怒りというものが、言葉によって固定化されたかも知れないので、ついでにいろんな憶測もしてみる。そもそも感情というものは、怒り、悲しみ、恐怖、嫉妬、喜び、などなどの言葉によって表現される。なんとも計上しがたい感覚ってえのんは、「言葉にならない」ですまされる。だいたい上記のものが主流となっているが、ひょっとしたら、この世には、まだ知られていない感情が存在しているかもしれない。赤色と青色の間には、紫色が存在するように、怒りと悲しみの間になんかまだ言葉にされていない感情があるかもしれん。KYみたいな。(意味不明)
んで、それが「発見」されたあかつきには、皆大手を振ってこれがその感情だあ〜と表現する。そうやって新しい感情が、市民権を得る。純文学には、その手の感情があふれているので、これでまたあらたな純文学が開拓されるのであろう。
ということは、感情とは5、6種類だけではないかもしれないのである。音が8音階でできていると勝手に思っているが、それは西洋さんだけの決まり事で、アラブさんとこにいきゃあ、64音階(?)もあるように。そうなったら、純文学はいそがしーのである。
ではその元になる最初の言葉になっていない感覚とはいったいなんぞや?なのだ。何やら胸の辺りがもぞもぞと、もやもやとするあの感覚である。
何か出来事があったときや、人になんか言われたとき、なんか知らんがもやもやする。それは即座に怒り!と反応するが、それはその言葉を知っているからだ。同じ過去の体験を思い出し、
「こっこれは、過去にあったぞ。そうだそうだ、これは怒りジャー!」
と瞬時に脳みそが言葉によって導きだしてくるのだ。
じつは悲しみも同じように反応からやってくるのではないか?
「こっ。。このもやもやは何だ?そうだ、これは悲しみという種類のものだ。え〜ん」となる。
つまり、ひょっとしたら、最初のもやもやはほとんど同じ感覚で、そこから、これは、恐怖や怒りや悲しみや喜びであると判断した脳が、その言葉によってそれを増幅しているのではないか?
最初に何らかのエネルギーが発生して、それを脳が各分野に振り分ける。(ちょっと間違えたら、怒りが喜びになっちゃうかも?)それは放射線状に広がり、これは悲しみだあ〜とどんどんその力を増していく。ということだったら?
すると、感情というものは、ほとんど同じ感覚から来ているという事になる。ある種のエネルギーの爆発。ひえ〜、そうなっちゃうと、感情ってたいした違いのない、ただのエネルギーってことかあ?
純文学さん、これは事件です。
絵:「ロクシタン」ネット会員さんの似顔絵
2010年12月13日月曜日
なんかようかい?
言葉というものは不思議な作用があるものだ。
言葉によってイメージは強化される。「閉じている」「KY」「2番じゃダメですか?」
時代時代によってハヤリ言葉が現れる。その言葉を聞くと、その時の状況や固定化されたイメージがすぐ浮かぶ。
それをおもちゃに、人を「閉じてる人」とか「KYな人」とかいってみたりする。するとそれはまた固定化され、Aさんを「あの人はKYな人だ」と、Aさんに対してイメージが固定化されるのだ。いっぺんついちゃうと、これがなかなかとれない。Aさん=KY。
言葉はイメージを固定化しやすい。人の名前でもそうだ。
ガンジー=えらい人。小沢いちろー=ダーティな人。
一旦なにかの拍子でついちゃったイメージは、なかなかとれないもんだ。意識的にとろうとも思わない。だって、誰かが言ってたんだもん。それをそのまま受け入れちゃうのが手っ取り早い。右にならえ。人と違うこと言ってたら、白い目で見られるし。
感情のエリアでもそうだ。たとえば「怒り」という言葉。
この言葉もイメージなのだ。ダンナとけんかしてむかっ腹立つとする(日常茶飯事)。このやろあのやろと色々心が大騒ぎする。そして過去にあった出来事をつらつらと机の上に並べ始める。一旦広げ始めると無限に広がってくる。東京ドームぐらいの大きさに広げたところで、だんだん飽きてきてそのうち寝ちゃうのがいつものパターン。昼間だと、仕事を思い出してダンナのことを忘れている。そうやって怒りは「そのうちおさまる」というパターン。そうねえ。かれこれ、20年はやっているかしら。ほほほ〜。
さてこの「怒り」という言葉を使わないとどうなるのか。この世に「怒り」「腹が立つ」「怒る」という言葉がなかったとする。
ダンナと口喧嘩をする。心が動揺する。ダンナに言われたことを繰り返して考える。また心が動揺する。動揺するということは、少なからずあたっているからだ。全く外れていたら、動揺しない。つまり私が何か間違ったことをしたかも知れない、とおもっている。失敗したかもしれないとおもっている。でもでも、それはこういう理由でやったことなんだから!と自分がやったことを正当化しようとする。心の中で一所懸命言い訳している。。。。だけなのだ。
この時の感情を「怒る」という言葉を作ったことよって、イメージが固定化されていく。この動揺は「怒り」なのだと。まわりの状況を見計らわず好き勝手に振る舞う人を「KYな人」というように。そんなことをいうと、感情と言葉とは違うといわれそうだけど、ほんとに?「KYな人」と言った言葉の後ろに感情は入っていないのか?
「怒り」という言葉を教えてもらったのは子供の頃。これが怒りというもんだと、母や父から教わる。そうやって私は小さい頃から「怒り」のイメージを記録に残して来ているのだ。だからダンナとけんかすると動揺がおこり、これが「怒り」だと、過去の経験に照らし合わせて思い出し、無意識に「怒り」をグーグル検索し、あらあら出てくる過去のいろんな怒りのオンパレード。
いつの間にかダンナへの怒りも、世の中への怒りも一緒くたになって爆発するのだー!
と、なっているのではないか?
だから「怒り」も「KY」も似たようなもんだと思うぐらいが、よろしいんではないかとおもっちょる。「怒り」というイメージの言葉に、執着するほどの価値もないかも。
じっさい、腹立った時、その腹の立った感情だけをみてみるといいかも。ダンナの言った言葉を思い出すのではなく、ただその自分の動揺だけを観察してみるのだ。自分の心の大きな動揺に気がつくだろう。その動揺をいいとも悪いとも判断せず、ただみる。ただひたすら自分の心だけを見る。いいわけもしない。きっと言葉がどんどんうかんで出てくる。ああいった、こう言われたと。しかしそれも映画のワンシーンのように眺める。人ごとのように見る。そのとき、何かが溶解していくのを見るだろう。
そのときこう言うのだ。
「なんかようかい?」
(えーかげんにしなさい!)
絵:「ハーバードビジネスレビュー』カットイラスト
2010年12月11日土曜日
石けんなし生活1年と9ヶ月に突入
だらしなーい話なんですが、久しくトイレ掃除をしていなかった。何ヶ月?ゲゲ。最後に洗ったのいつだっけ?
ここだけの話、あんまりトイレがにおわないのでかまけてました。鼻がイカレてしまったのか。一階と二階に二つのトイレ。一階は公的な場、二階はほとんどダンナ専用(げろげろ〜)。
久々にトイレ掃除。一階を終わらせ、恐怖のダンナ専用トイレへ。。。。
なんと。におわない。便器に「さぼったリング」はしっかりついている。しかし便器まわりや床に撒きちらしまくっているはずの液体のにおいがしないのだ。この嗅覚鋭い私が、排泄物のにおいを嗅ぎ分けられないとは。ここまで老いぼれたのか?はたまた石けんなし生活1年9ヶ月で鼻がイカレタか。もしくはダンナのシーシーのにおいに何かの変化があったのか。どちらかしか考えられない。食生活は全く同じ。変わったと言えば、ダンナが仕事に出ることぐらい。仕事に出れば排泄物も汗もかく。じょーしきなら、もっと臭くなっているはず。ところがにおわない。身体もにおわなければ、排泄物もにおわない。そんなことってあるんかいな。ちなみにうんこは臭いよ。ついでにおしっこも出た時は臭いよ。しかしそのあとが消えるのは、どーゆーこっちゃ。
先日、髪を切りにいった。
床屋のおねーちゃんには悪いと思いつつ、今回も「あ、シャンプーなしね」とたのむ。おねーちゃんにしてみたら、1年9ヶ月もシャンプーリンスなしのお客の頭を触るのはイヤに決まっている。最初の頃はベトベトしていたので、気の毒だった。さすがにちょっと悪いと思ったので、半年後に切りにいく前の晩、洗面器にぴゆっとシャンプーひとしぼりしてそれをお湯で溶き、さらさらと髪だけ洗っていった。さすがにその日はおねーちゃんにイヤな思いはさせずにすんだ。
しかし今回は全くべたつきがないので、そのまま行ってみた。
「あ、全然さらさらしてるねえ〜。前よりずっとよくなったよ。やっぱ、これっていいのかなあ」と店長。
私の髪をお湯だけで洗うお姉ちゃんに聞いてみた。
「なんか私の髪の毛、他の人と違ったりする?」
するとおねえちゃんは、
「うん。すごくやわらかい」
「でもさあ、シャンプーなしにして、毛は前よりぶっとくなったよ」と私。
「でも、他の人の髪の毛は固いけど、あなたのはすごくやわらかいんだもん」
理屈で考えたら、変な話だ。シャンプーなしにしてコンブトになった私の髪。枝毛もない。びんびんに強いはずだ。なのにやわらかいという。おねーちゃんは何人もの人の毛を触っているはずだ。だから何か違うのかもしれん。シャンプーをしていると毛が細くなるから、ほんとはそっちの方が柔らかいとおもうもんだが。
キューティクルっちゅうやつが、しなかやになっているのかもしれん。ぐふふ。
などと勝手な憶測をする私。(いいように解釈しているだけかもな)
今も触ってみるとさらさらしている。
この快感は「わっかんねえだろ〜な〜(古い!)」
しかしひとつだけ面倒なことがある。それはいまだにブラッシングするとブラシにフケのようなものがつくことだ。これだけはいまだにある。だからといってフケが肩に落ちることはほとんどない。シャンプーで洗わない代わりに、ブラシを洗っているというへんなおまけつき。これもまた、わしらの知らない大自然の英知なのだろう。これは「髪の毛のうんこ」と、自分で命名している。
石けんなし生活の快感は、やってみないことには、
「わっかるかな〜、わっかんねえだろ〜な〜」
『ハーバードビジネスレビュー』のための似顔絵(クリス・アージリス)
2010年12月9日木曜日
いいことをするって?
やまんばはよくパンを焼いては近所の友だちのうちにもっていき、野菜がとれてはまたまた近所の友だちにもっていく。友だちは内心ありがた迷惑なのかもしれんが、その行為は一見いい人にみえる。そうはみえても要するに、やまんばはいい人に見られて、いい気分になりたいという勝手な欲望なだけなのだ。
いいことをすると、たいていほめられる。人は他人によろこばれたり、ほめてもらうとうれしくなる。これがけっこうヤミツキになる。だからなんか作っちゃあ、人の迷惑顧みず、今日も持っていってしまうのだ。
ところがもっていっても期待するほどに喜んでくれなかったりすることもある。向こうにだって事情がある。「げ。まずいもん、またくれやがった」と思うかもしれんし、虫の居所が悪くて愛想がふれなかったりするかもしれん。だがやまんばはそんな事情も顧みず、「反応がない!」などと怒ったりする。こっちが勝手にもっていっているだけのことなのに、相手の反応次第でムカついたりする。
よく考えてみりゃ、喜んでくれることを期待するあたりが、すでにやまんばの勝手な考えなのだ。
つまり、いーことをする=自分が喜ぶ。ということだけなのだ。
そのことをおもいっきり自覚しておいた方が、あとあと人間関係がうまくいく(と、ふんでいる)。
その自覚がないと、知らない間に「いいことしている」が、「してやっている」と変化する。すると、「こんだけやってあげているのに、その態度はなんだ?」となる。これはもう完全に上から目線である。自分で好き勝手に「いい気分になれること」しているだけなのに、いい気分になれることを自分で忘れてしまうと、その行為は「大きなお世話」になる。やってくれとは頼んでないのに、勝手に怒られるのだ。他人にとっちゃえらい迷惑だ。
いいことしている→いい気分→自分で楽しんでやっているんだなあという自覚がある。
は、そりゃそれで「まあ、すきでやっているからいいか」と他人様から勘弁してもらえる。
しかし、その行為の中に、自分「が」楽しんでいるんだという自覚がないと、やっかいである。
いいことしている→してやっている→反応がない→こんだけやってやっているのに、それはどういうことだ?→知らない間に相手の上に立っている→態度に表れる→そのうちこじれる。
こういう変なぎくしゃくは、日常茶飯事なんだろう。自分のダンナにもやっているし、子供にもやっている。ついでに近所の町内会でもやっているし、ボランティアでもやっている。政治家もやっているし、企業でもやっているし、国家間でもやっている(これは思いっきり打算が入るが。あれ?でもやっぱ、全部に言えることか)。
いい事する人はいい人。という単純な構造ではない。そこにはふくざつ~な、打算や虚栄心や自己満足や不安からの逃避や、その他諸々のおっそろしくからみあった心理が入り乱れておる。げげげ〜。
自分がやる行為は「あたしが好きでやっている」と、いつも意識していることにかぎるとおもうやまんばであった。だから近所のみんな、ゆるしてね。
絵:「小山ダンススタジオ」のための絵
2010年12月8日水曜日
虫のいないブロッコリー
畑もやることがなくなった。
草も冬支度で地面にへばりつき、大地を覆い尽くして冬の寒い風に地面がさらされないようにしているように見える。やまんばは畑を歩き回りながら、寒そうな野菜はいないか見回りをする。ブロッコリーやケールは足下にわらや枯れ草におおわれて、あったかそうに見える。
「とりあえず、こんな感じでいいや」やまんばはほっと一安心する。
コンビニのおばちゃんが、もらった無農薬ブロッコリーが、虫だらけで取り除くのがイヤになるといっていた。
「すると農家のおじさんが言うんだよ。『スーパーのブロッコリーは虫が一個もいないだろ?どんだけ農薬がかかっているかってことよ』ってさあ。でもさあ、どーにもこーにも洗っても洗っても出てくるもんで。ゆがいてもまだいるし。これも食えってことかあ?」
「ウチのブロッコリー、虫いないよ」と私。
「そりゃまたなんで?」
「どっちとるかだよなあ。肥料やって大きく太らせて虫も呼んじゃうか、肥料を入れずに時間かけて育てて虫呼ばないか」
「ふ〜ん。つまり、不毛の地に育った虫も食わないものを作るか、肥料をやっておいしくして虫も呼んじゃうかどっちかってことかあ〜。なるほどねえ〜。おっしゃ、今度そのことおじさんに言っとくよ」
と、おばちゃんは言った。
ほんとは、ちと意味が違うんだけどなあ。まあいいか。
『不毛の地に育って虫も食わない(まずい野菜)』じゃなくてえ〜、
『自然に近い状態の土で育った強い野菜は虫も食わない(うまい野菜)』
なんだけどなあ。
畑に行っても、ただうろうろするだけのやまんば。ナニしてるかと言うと、ひたすらながめている。なんつーか、そうしているあいだに、なんかしらを発見するのだ。それがおもしろいのだ。
一カ所に何粒か種をおろした白菜。間引いていきながら大きくしていく。中にはどれを間引いていいのかわからなくなるほど競り合って大きくなる苗たち。そんな時はそれをそのままにほっておくと、時間とともにどっちかが虫に食われたり、大きくならなくなる。それで「あ、こっちを間引けばいいんだな」とわかる。
そういう姿は、自然に強い種を残していこうとする力が働いているようにみえるのだ。それはどっちが競争に勝ったとか、負けたとか言う次元ではない。同じ白菜どおしが「あ、あんたが大きくなってね。私は自然に帰るから」と譲り合って生きているように見えるのだ。虫だって食べなきゃ生きていけない。譲った野菜さんは食われる運命を快く受け入れているように見える。その姿は野菜の苗一個一個が独立して存在しているのではなく、なんといおうか、すべてでひとつのような大きなうごきをしているようにみえてくるのだ。
だからその土地でその根を大きく広げ強く生きはじめたブロッコリーを虫さんは食べない。「あ、そのまま大きくなって下さい」と、育つブロッコリーさんを尊重する。
ところが肥料で甘やかされて育ったブロッコリーさんは、その生体そのものの生命力が弱いので、虫さんは「これ、食べていいもの」と判断するのかもしれない。ぶくぶくと甘く大きく育ったブロッコリーさんは虫にとっては淘汰されなければならないものなのかもしれない。それを見た人間は「あ〜〜〜〜っ!虫!こうしてやる〜〜っ」と、殺虫剤を農薬を死ぬほどかけて殺す。だから肥料には農薬がセットになっているのだ。それは化学肥料だけじゃなくて、有機肥料にも言える。どうしても野菜は肥料を入れなくては育たないもので、虫は駆除しなければいけない存在のようだ。これも最初に「これはこうするものだ」という教えから、頭がはなれられないからじゃないだろうか。
最近買った種の自家採種の本に書いてあった。道路のアスファルトを突き破って出てくる根性大根こそ、残していかなければならない大事な種だと。何の肥料も与えないで耕さないでそして固いアスファルトを突き破ってまでして出てくるそのど根性。その遺伝子はだれよりも強いものをもっている。大事に神棚にとっておく場合ではない。そのまま地面で花を咲かさせ、種をもらうのだ。
最近の野菜不足の背景は、こういう環境に強い野菜がめっきり減って来たことがあるのではないだろうか。ちょっと気候変動があるとすぐダメになる農作物。それはひとえに肥料付けのおぼっちゃま野菜しか作らなくなったからなのでは?中国ではリン酸が事実上の輸出禁止になったそうだ。リン酸は農業にとって大事な肥料。これからの日本はいろんな面でめんどうなことになりそうだ。
だからこそ、根性大根や根性ブロッコリーが必要になってくる。肥料なんか入れないでも十分に育つ野菜の種を!
一個やっと出来上がったブロッコリーをゆがいて食べる。甘いふくよかな味がした。
絵:「空想英語読本」表紙
2010年12月2日木曜日
高尾山異常
「もう、頂上なんか足の踏み場もないのよ!そこですわっておにぎりなんて食べられないんだから!」
これが今の高尾山の現状らしい。狭い頂上は人でごった返し、砂埃がすごいとの事。ハイキングコースになっている道は、人をかき分けかき分け進むのだそうだ。
「銀座より人が多いわよ。まったくもう。これじゃ山見にいってんだか、人見に行ってんだかわかんない」
山から下りて来たばかりの70すぎのおばちゃんは怒る。何でも高尾山に登り始めてかれこれ37年だそうな。ミシュランだか、ミッテランだかにお星さまをいただいてから一気にふえたそうだ。ほんでもって最近は山ガールなどのおっしゃれ〜な民族も乗り出し、すごいことになっている。
おばちゃんいわく、毎日平均3、4万人来ている(!)らしい。
そ、それって「年間250万人という世界一の利用者の高尾山」の記録を軽く超えてくれるではないか!計算機が手元にないが、軽く見積もっても年間1000万人?!
ホントの数字は知らないが、そんなふうに思えるほどの状況なのだろう。
長野は戸隠の近くのプチホテルの方から時々「戸隠だより」をいただく。そこにも最近うんざりするほど人がいると書いてある。そっちは「聖地巡りもの」らしい。戸隠は霊験あらたかな修験僧の山だ。ご利益目指してやってくるのだ。
そこまで霊験あらたかかどーかは知らんが、高尾山もいちおー、てっぺんにお寺がある。これまた修験僧の山だ。でもよく見ると、ありとあらゆる神様仏さまがまつってあって、節操がないと言うか、哲学がないと言うか、神様仏さま、ご利益ありゃ何でもござ入れ的な品のなさがある。おもわず、あのごちゃごちゃの神様軍団の中に、どこかにキリスト教もイスラム教の神様もまつってあんじゃないか?と勘ぐらせてくれる。そこがまたやまんば的には大好きなノリなんである。人間のえぐさ、欲深さは底知れないものがある。それをここまで見事に表に現してくれた高尾山にあっぱれ!なのだ。
高尾山歴37年のおばちゃんは、人に会いたくないから、朝7時に高尾山に登るんだそうな。いつものふじだな珈琲で、私とあったのが10時半頃。すでに山頂から降りて来ていた。
それでもおばちゃんは登る。なぜか。それは薬王院さんからもらう健康手帳にスタンプを押してもらうためだ。この手帳一冊600円、証印一回100円。21ページで満行となると、御護摩受付所の外壁に、自分の名前のお札が張り出される。その枚数が多くなればなるほど、お札は大きくなり、重要人物の名前の近くの高いところに張り出されていくのだそう。おばちゃんは、なん十冊ももっているそうだ。
でも「ダレソレさんはそんなに高尾山に来ていないのにあんな高いところにお札が貼られている!きっとズルしているのね」とおばちゃんはいう。中には一人5冊分もって来てスタンプを押してもらう人もいるそうだ。まあ、ちゃんと100円づつ払っているのだから、お寺側としてはへーきなんだろう。それで位が上がっていくのだから、寺側も登山客側もどっちもどっちの欲かき仲間だわな。
それにしてもうまい事考えつくなあ。「健康手帳」と銘打って、お山に来させる。おばちゃんの世代は「健康」という言葉に弱い。そしてお山に登れば登るほど、お札の位置が上がっていく。一冊満行するたびに2700円使っているのだ。あのお札の山を見ると、いかに人がそれを利用しているかがわかる。いやはや、すごい。丸儲けだあ。
今まで日本名山を90カ所めぐったおばちゃん。年がいってからは、せめて高尾山に登って身体をキープしなければ、死んでしまうくらいにおもっている。ほとんど強迫観念だ。別に人をかき分けてまでして高尾山に登らなくてもいいだろう。まわりにゃ、山ほど山がある。そっちをゆったりのんびり登りゃいいだけだ。
「高尾山は、私の山なのに。。。。」
と、おばちゃんは言った。
高尾のお山はそんな人々をかわいいやつよのお、とほほえましく見ておられるのだろうな。
ちなみに、近所のおねえさんに言わせると、
「人?そんなのコース変えりゃ、ぜーんぜん会わないよお〜」
とのこと。
視点を変えりゃ、とたんにこの世は違って見えてくるのだ。
絵:オリジナル絵本より
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