2024年11月29日金曜日

それでいいのだ。



「センブリ」和紙、水彩


久しぶりに立ち寄ったなじみの喫茶店。

そこでは過去に何度も小さな展覧会を開かせてもらっていた。


入りぎわ、またやろうかなと思い立ち、店主にスケジュールを聞く。

ちょうどやる予定だった人からキャンセルを受けて、1月に空いているよと。

1月。。。ちょっと早いかな?と思ったが、そこしか空いていない。

やらせてもらうことにした。



最近、ふと思いつくことに抵抗せず、

どんどん受け入れることにしている。


例えば陶芸教室。

地域の秋の文化祭に出店させてもらった時に出会った陶芸教室。

なんとなくやりたいと思ってその場で入会。

初めての教室の日に、生徒さんがキレた場面に出くわす。

でもそのまま受け入れた。彼は彼で色々思うことがあったんだろうと。

だからってその教室が問題、、、とも思わなかった。

先生や生徒さんたちはみんなそれぞれ個性があって優しい人たちだ。


スポーツクラブは週三回行っていたが、

急ぎの展覧会の制作のために、

しばらくは週一回と陶芸教室週一回にした。

あとの五日間は制作三昧だ~。



目の前で起こることをそのまま受け入れ、

心に浮かぶことをそのままやる。

こんな単純なことが、なんで今までできなかったんだろう。


今までは、何かを思いついても、

「いや、、、もしこうなったら、面倒なことになるし、、、」とか、

目の前で不快なことが起こったら

「いやー。。。こんなところ、来るんじゃなかった。。。」

とか思って、色々判断解釈した結果、やめてきたこと多数。

あれはもったいなかったな~という後悔ものがいっぱい。


でもそれでいいのだ。

起こることにただ任せる。

最悪の事態になっても、それでいいのだ。

それにはちゃんと意味がある。


任せられるようになってきたのも、

だんだん罪悪感が消えてきているからなのかもなあ。




「ただ、自ずと起こることに干渉するのをやめること」

っていうコースの言葉が私にぐっと入ってくる。


そしてやめたところに何かが入ってくるのだ。

それは私のちいこいアタマで考えもつかないところで起こっている何かだ。

こうであらねばならないという自我のちっこい世界をはるかに超えた何か。


ただ「夢を見ているもの」のところにたち、

その夢の中で起こっているものを、

何の判断もせず、そのままに受け取る。


それがどんなに気楽なことだったのか。

バカボンのパパはとっくに知っていたのだ。



ふじだな珈琲さんでの展覧会は、
1月10日(金)〜1月31日(金)
定休日:火、水、木

am10:00~ pm5:00

詳しいことは、またご連絡します。




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2024年11月23日土曜日

夢を見ているもの

「秋の音」和紙、水彩

 

いつものようにスーパーで買い物をした時のこと。


新しく見つけたスーパー。

美味しいものが食べたいので、あれやこれやとついつい手にとってしまう。

たくさん買っていっぱいお金を使ったことを後悔した。


胸にチクっと痛みがやってきたとき、

あることを思い出した。


それは先日のこと。

その内容はもう忘れたんだけど、

苦しさで悶々としていたとき、

「夢を見ているもののところに立て」というひらめきが来た。


その場所に立とうとした瞬間、私の中から苦しみが消えたのだ。

それを思い出したのだった。



スーパーの出口から大きな木が見えた。

赤く色づき始めている。

なんとなくそれを見ながら、

「私は夢を見ているもののところに立つ」と心で言った。


次の瞬間、それまで心にあった罪悪感が消えた。


目は相変わらずその大木に注がれている。

赤い葉っぱがハラハラと風に舞っている。

見ているものは何も変わらない。

しかし心が静かになった。


この世界の中に私はいなかった。

そのとき、私はこの夢の「主人公」ではなかった。



「夢を見ているもの」と「夢の主人公」の違いは、

私の捉え方としては、

双六の上にいるコマの一つの「夢の主人公」に対して、

「夢を見ているもの」は、

双六盤から垂直に上がった、

上の方からこの世界を俯瞰して見ているものなのだろうと思っていた。


これが本当に「夢を見ているもの」の視点かどうかはわからないが、

その視点に立った時、私は1ミリも動いてはいなかった。

全く同じ場所から夢を見ていた。


でも心は完全に違った。

なんの悩みも心配も消えている。

この世界を、ただ見ていた。判断一つなく。

静かで平安で、そしてここの住人ではなかった。

自分という形が消えていた。





判断は、この世界を実在させる。

判断は恐れを抱かせ、それをリアルにする。


お金を使ってしまった!という恐れは、

お金というものが実際にあって、それでものを買う。

そのお金は増えたり減ったりする。

その減り具合や増え具合で、人は一喜一憂する。


その時、私は夢を見るものではなく、夢の主人公になり、

モノポリや双六の上に立って、あてのない水平線上をウロウロする。ゴールは死だ。



私は死さえも、夢を見ているものとして見ていられるだろうか。






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2024年11月18日月曜日

幸せの一週間

「コスモス」和紙、水彩

 

目の前の山の木々が急に色づいてきた。

雨模様の景色に黄色い紅葉がまぶしい。


先日、一週間ばかり不思議な状態にあった。

毎日が幸せの連続だった。


その時期は忙しく、毎日毎日用事があった。

しかしその内容とは関係なく、私はただただ喜びの中にいた。

こんなに幸せでいいのだろうかとふと不安がよぎるが、

そんなもの跳ね飛ばすほどの勢いだった。


そしてソフトランディングするように、

いつもの心の状態に戻った。

小さな恐れや不安がさざ波のように、

ひたひたと寄せては返し揺れ動いている感じ。

そう、それが私のおなじみの心境。


その違いを通して、

いつもの状態がいかに不自然なものであるかを知らされたのだ。




幸せの一週間は、心に不安が全くなかった。

恐れ、罪悪感、心配、怒り、漠然とした不安、、、、。

そんなものが一切消えていた。


ただただ嬉しく、楽しく、

目には見えないけれど、そこらじゅうが光に満ちていた。


ああ、恐れがないって、不安がないって、

こんなにもすごいことなんだ~!

と、体験を通して教えてもらったようだった。


その時は、どうして不安がるのかわからない!

なんで?なんでみんな心配してるの?

心配することなんかひとっつもないのに!


と、どうして自分がずっと不安でいたんだろう?

すごく馬鹿げたことにすがってきたんだ~。

何を今までやっていたんだろう?

何も心配する必要なかったのに!


と、思っていた。


と、その時の心の状態を覚えているのに、

また不安な状態にいる(笑)。


すごく馬鹿げたことに、またすがっている(笑)。


チーン。



いやいや。チーンしている場合ではないのだ。


教えてもらったのだ。あれを。


これが本来のあなたなのだよと。


あの心でいるなら、もうそれは必然的に周りに伝播していくだろう。


喜びの波紋がどんどん広がっていくだろう。








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2024年11月10日日曜日

はい。正直に認めます。

 

あんこ屋Suzuさんにお嫁入り「筆りんどう」

「筆りんどう」


心の中を正直にみる。

自分に嘘をつかない。

自分の中にある感情や思いを、自分で隠してしまわず見る。


ただそれだけでよかったんだ。

なんてシンプルだったんだ。



私たちは、自分の中に湧いてくる思いにそっとフタをする。


私は怒っていない。

私はイラっとしていない。

私はチッとか思っていない。

ぜーんぜん大丈夫~。


そうやってみるか、もしくは苛立たせた相手を恨む。

あのやろう。

このやろう。

どーしてやろうか。

いつかギャフンと言わせてやる。


そうやって心の中で一人妄想を繰り広げる。




私たちは、この世界で生きているのだから、

この世界で行動して、なんとかしなきゃと思っている。

だからこの世界を必死で観る。


でも不幸なのは、心が不幸と感じているのだ。


苛立たせる相手がいるのではなく、

苛立ちたい私がいる。


恐れる状況があるのではなく、

恐れたい私がいた。


恐れは外にあるのではなく、

恐れは私の中にあった。



隠したいのは、私自身だったのだ。

私自身から、私の恐れを隠したい。


ところが、それをやり続けても、

それが終わらないことに気づく。





そして私はやり始めた。

自分の心を正直にみる。

恐れがあるなら、それを観る。

それを認める。

それを受け入れる。


今、私は怖がっています。

お金が減ることを怖がっています。

それを隠しません。

はい。正直に認めます。


今、私は怒っています。

それを隠しません。

はい。正直に言います。

あいつにめっちゃ腹たっていますっ!


今、私は人の顔色見てる。

相手にどう思われるか心配している。

その思いを正直に認めます。




そうやって自分自身から出てくる思いを正直にみる。

その恐れを体で感じて、受け止める。

目の前に出して、それを聖霊に渡す。


その行為は、

心の中にある私の「恐れの信念」を浮上させ、

聖霊に消してもらうためにあった。



悪夢もそうだ。

どうしてこんな酷い夢を見るのだろう?

そう考えても答えは出ない。

心の中にある残酷な思いが浮上してきているだけなのだ。

それを渡していこう。



そうやって本当に自分の思いに正直になっていく。

その思いを受け止める。


ただそれだけで、心は静かになる。

この時、何かが開く。

何かがすっと入ってくるスペースが空くのだ。


だから目の前の状況が何一つ変わらなくても、

心が変わっていく。




将来が不安です!

そんな想いも差し出す。


その不安を見つけてどうにかしようと行動しても、

恐れが動機になっている限り、道はひらけない。


道が開くのは、喜びからくる。


なんでか知らんが「やりたい!」と思ったことから道は開いていく。

それがその人の、その人だけのオリジナルな道なのだ。

それが一番輝く。


本当はそれをやるために、ここに生まれてきたのだ。








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