2016年11月30日水曜日

猫走る



畑に寝そべる。

立っていると肌に冷たい晩秋の風が、そよ風に変わった。
ほお、地面すれすれの植物さんたちは、こんなふうに風を感じているのか。
青く澄んだ空に、カラカラに乾いた大きな葛の葉がヒラヒラ3枚踊っていた。

今度はうつぶせになってみる。
雑草と化したパクチーが顔全部を覆った。
独特の匂いを嗅ぎながら、
しばしアジアンな瞑想(迷走か?)の世界へ。



畑に寝そべるのにもあきて、起き上がって缶コーヒーを飲んでいると、畑に猫がいるのに気がついた。

何やら口をモゴモゴさせながら、こっちに向かって歩いてくる。
やまんばは、じっと動かず様子を見る。

猫はふと顔をあげて、こちらのにおいを嗅いでいる。
「ん?これは人間のにおいだ。。。あん?かいだことのないにおいもするぞ。。。」

じーっとこちらを見る猫。
「人間のカタチをしているが、うごかんぞ」

警戒しながらもゆっくりこっちに歩いてくる。
数歩歩いては、立ち止まりにおいをかぐ。また歩いてはにおいを嗅ぐ。
そしてついに目が合った。
人間のカタチをした物体はぴくりとも動かない。

猫は身体の向きをゆっくり45度斜め前方に変え、フェンスの方に歩く。またしても時々立ち止まってこっちを見る。フェンスの向こう側に抜けても、まだこちらの様子を伺う。

真正面から、フェンス越しに互いの目が合った。じっと動かない物体ふたつ。緊張が続く。猫はゆっくりと歩きはじめた。
急に人間の鼻がもぞもぞし、思わずくしゃみをする。

「ヘーーーックション!」

その瞬間、猫は一気にアクセルをふんだ。
びゅう~~ん!

「ものすごいはやさだなあ。。。」

人間は缶コーヒーを飲みながらつぶやいた。


2016年11月29日火曜日

心は病気。。かもな。


「心は病気」という本を読んだ。
その中で、心は自分が一番偉いと思っていると書いてあった。

ウソだろー。
わたしゃ、エライなんてこれっぽっちも思ってないぜー。と、読みながらツッコミを入れる。

夜、ダンナとケンカになる。
相変わらず、痛い所を指摘してくるヤツだ。
心が炎のように燃え上がる。
バッキャロー!自分をなに様だと思っていやがるんだ!
もんもんとしながら床につく。

朝、もんもんは消えていた。
昨晩の事を思いだす。

あれ?。。。
ひょっとしたら私は「自分が一番エライ」と思っているから、腹立ったんじゃねえか?
そのエライヤツに向かって、意見を言うフトドキモノに、腹立ったんじゃねえか?

「この将軍様にたてつくヤツはだれだああーーっ!」って(笑)。

いやいや。そんなこたあない。
私ぐらいひ弱で、何の力もなくて、まちがいばかりを犯して、アホなことばっかりして、エライなーんて、これっぽっちも思わねえ、ミジンコのよーな、ちっけえちっけえケンキョな存在でござんすよ。へえ。

とかいいながら、昨日のことを思いだすたび、やっぱりこのやろーっ!っと、燃え上がる。
私はまちがってない!ぜーったいまちがってないんだもん!私はまちがっていないとしたら、あんたのほーがまちがってる!と、思いっきりエアー演説ぶちかます。

自分はまちがいを犯すアホなヤツ。。。っていってるそばから、まちがってない!って、言い張ってるこの大矛盾。

これ、ケンキョ?
ケンキョなフリしたゴーマン野郎?

ふむ。
やっぱりじつは隠れてこそこそと、
人にもわからないよーに、
ほんでもって、自分にもわからないよーに、
「この世で一番自分がエライ」とおもっているよーだ。。。orz

やっぱ、心は病気っぽいなあ。。。
きっと、私だけにちがいない。


絵:shadow/ミステリマガジン扉イラスト

2016年11月27日日曜日

絶対的な法則はあるのか。


先日、ある機械の故障で、ある種類の商品がまったく作れなくなった。それは売り上げの主要なもの。
今日の売り上げは半減するだろう。。。そうおもわれていた。
しかしふたを開けてみれば、半減どころかその月の売り上げトップになっちゃった。

従業員は首を傾げる。
商品が少なかったから売れたのか?
それとも雪の日の次の日だったからか?
いろんな憶測が飛び交う。

まったく理屈に合わない現象がおこっていた。

何かの理由にもとづいて、売れたり売れなかったりする。。。わけじゃないのかもしれない。私たちの思考でわかるもんじゃないのかもしれない。。。
と、常々思いはじめる今日この頃。

何か、まだ知られていない決定的な法則があって、その法則さえ掴めば、お金持ちになれる。その法則さえ掴めば、成功者になれる。
人の心は、どこかでその法則があってくれればと願う。

その思いの元は、安心を求める心。
あれがありさえすれば大丈夫。
あれさえあれば、安心。
専門家に聞けば大丈夫。
そうやって、あっちの専門家、こっちのプロフェッショナルを渡り歩く。

そやけど、もしそういう絶対的な法則があるのなら、この世の中はお金持ちだらけだし、成功者だらけなはずやん。けど現実は。。。。?

ヒマなやまんばなら、そういう絶対的な法則を必ずみつけだせるに違いない。時間が有り余ってるんだもの。。。。。


けど。
残念ながら、そんなものない。
そうおもう。

なにもしようがない。
そうおもう。

だけど、その、なにもしようのなさが、なんともいえず、開放感を与えてくれる。

もし何かの法則があるのなら、それを使えない私はまだ未熟だ、という無意識の焦燥感を生む。
けど、そんなものはないのだ、というアイディアは、その焦燥感を取り除く。


畑で、どんなにがんばったって、出来るときは出来たし、出来ないときは出来ない。
仕事でどんなにがんばったって、うまくいくものはいくし、うまくいかないものはいかない。


これは言い訳だろうか。

うん。言い訳だよ。
もっとがんばらなきゃいけないのさ。
今、うまくいかないのは、あんたの努力が足りないのさ。
自我はそういつも私に言ってくる。


じゃあ、冒頭の出来事は、なんだったんだろう?

私になにをおしえようとしてるのだろう?






2016年11月23日水曜日

自由農法?



秋の畑。
夏草が次々に枯れ、代わりに冬草が地面をおおいはじめる。


夏のあいだ、草たちは我先にと空へ空へと伸びて、地面に影を作る。強烈な太陽をさえぎり、地面はしっとりと濡れている。かれらは土に適度な湿り気を与え、微生物や虫たちにすみかを与える。

秋、その仕事をおえた夏草たちは枯れ、今度は冬草たちが地面をおおいはじめる。

夏とはちがい、かれらは空へ空へとは伸びずロゼッタ状に広がり、土を覆い隠す。緩やかな太陽の光と熱を葉の中に蓄え、その熱を土に伝える。冷たい北風が吹く頃、地面に低くはえ広がった草たちにおおわれて、畑の土は暖められる。



メヒシバなどが地面をおおいつくす。


畑8年目の冬がやって来る。
何度もくりかえされてきた草たちの仕事。あきらかに、土は肥えてきている。

冬草におおわれた地面に、長靴と靴下を脱いで、そっとつけた。
手袋もはずして、素足のそばに手もつける。
なんとも言えない安堵感が、からだ全体に広がる。

自然農法、自然農、自然栽培、炭素循環農法。。。
いろんな農法がある。
わたしはいろいろためしてみたけれど、
そのどれでもない。
どこにも行き着かない農法。
どこにも答えがない。
ただ現れては消えていく畑の生き物たち。

それをただ見ているだけの私。ただ見させられているだけだった私。
常識や、こうあるべき。そういうものから離れていく。
どうやっても、どんなに力もうと、かれらは、かれらのペースで生きる。
過ぎてみれば、それにゆだねることでしかなかった。
今思えば、それがどんなに心を自由にしてくれることだったか。

自由農法。。。
そう呼んでみようか(笑)。

芽吹きはじめたスナップエンドウ。
これから寒い冬を乗り越えて、春に私たちを楽しませてくれる。



2016年11月20日日曜日

つくし流麦道

ゆっくりと左手で缶ビール350mlを持ち、
やさしく右手の人差し指のつめでプルトップを引っ掛ける。
そのまま指先をすきまにすべらせ、
プルトップをぐっとおこし、
ぷしゅーっと缶ビールを開ける。

今度はそれを右手に持ち替えて、左手でワイングラスを持つ。
グラスの口元に、缶ビールの口元をかちんとあわせ、
ゆっくりとかたむける。
あふれてくる泡を押え気味に、
とぽとぽと、麦汁をグラスに注ぐ。

窓から見える高尾山にむかって、一瞬麦汁をかかげ、
ぐっと一息に飲み干す。


これ、つくし流茶道の所作なり。
もとい。
つくし流麦道の所作なり。

サントリー様。
結構な御点前で。

2016年11月13日日曜日

忘れていたものは感覚。



小さな気づきが起こる。

また、ひとつ。

ほんのかすかに、またひとつ。。。

そうやって、気づきが起こっていく。

内側で起こることは、ほんとにささいなこと。
だけどその気づきは、かすかだけど、安堵感や、小さな解放をもたらす。
そのことが、どんなに重荷を降ろしていくことか。

ああ、、、こんなことで不安になってたんだ。
ああ、、、この言葉が私を締め付けていたんだ。


目に見える、物質的に形を持った外の世界は、強烈に私たちに影響を与える。
景色、人、テレビの中、パソコンのモニターの中。
その映像を見ては、一喜一憂する私たち。

でもその一喜一憂は、どこで起こっているのか。
この、心の中。あたまの中。

だから、
私はその騒ぐ心の中、あたまの中を、観る。
ただ観る。

「ああ、こんな感情じゃいけない!」
「こんな考えをもったらいけない!」
そういう否定的な感情が起こっても、
それさえもただ観る。

今、どんなきもち?
今、どんな感情?

自分に問うてみる。
その感情とともにいる。
感情が起こるとき、身体が反応している。

ぎゅっとなるような、
がちっと固まるような、
胸の辺りがもやもやするような。。。
その感覚にだけ寄り添う。

頭で考えることには寄り添わない。
考えは、答えを出そうとする。
だけどその答えは、きっとまた、ぎゅっと心を締め付けるような、答えがやってくるだけだ。
私たちはそれをずっと繰り返してきた。

考えるよりも、もっと手前の、
感覚の中に意識を向ける。

外の刺激的な世界よりもっと手前の、
考えることよりもっと手前。

忘れていたものは、
自分自身の感覚。

指先に触れるパソコンのキーボード、目に映るモニターの画面、電車の音、かすかな石油ストーブの匂い、足の寒さ、舌に残る珈琲の味、体全体に感じるなにか。

そしてあたまの中を行き交ういろんな言葉、いろんな感情。。。
これもまた感覚。
そういうすべての感覚。

その感覚の中に、しずかにいてみよう。

その時、心はいまここにいる。


絵:「スギ林」/和紙、洋紙、水彩、クレヨン

2016年11月12日土曜日

そんなもん、あったっけ?


うまいサトイモを食っても消えていく。
うまい麦汁を飲んでも消えていく。
お金が入っても消えていく。
寝ていても目が覚める。
若いつもりでも老けていく。
安定した生活は長くは続かない。

しかし、
まずい料理も消えていく。
まずいぶどう汁も消えていく。
風邪も消えていく。
しんどいことも消えていく。
花粉症も夏になると消えていく。
貧乏がとまらないこともない。
金持ちがとまらないこともない。

ぜんぶが、現れては消えていく。

草も、野菜も、雲も、風も、光も、闇も。
怒りも、哀しみも、やったーっ!って気持ちも、
全部、みごとに、現れては消えていく。

なのに、人々は安定を求める。
「どこかに絶対的に安心できる法則があるに違いない。」
と、ずーっと求め続ける。

安定した収入、
安定した仕事、
安定した人間関係、
安定した健康状態、
安定した心、
安定した気候、
安定した国、
安定した政治、
安定した経済。。。

そんなもん、あったっけ?

ひょっとしたら、そんなもん、ないんじゃないか、はじめっから。
ないものを探し求めるから、苦しかったんじゃないか。

だからお釈迦さんは「人生は苦である」って、いったんじゃないか。

じぶんの人生振り返ってもそうやった。
ずっと同じことが続くことってなかった。
すべてが変化しつづけたし、今も変化し続けている。

ずっと変わらなかったのは、
この心の中の
「どこかに安心できる、安定した法則があるに違いない」
と、求め続けていた心だったんじゃないか。

その考えにしがみついていたのかも知れない。
不安だから。

その「安定したい願望」が、こころにあらわれたとき、
そこには不安な感情がある。
その感情を消そうとはせず、
ただその思いや感情とともにいよう。

それもやがて消える。


絵:「とらのお」/和紙、洋紙、水彩

2016年11月10日木曜日

まさかの展開



今年4月に制作した表紙のイラスト。

まさかこんな展開になるとは。

ある人が数ヶ月前に
「彼が今度のアメリカの大統領~w」
って、予言してたが、ほんとにそうなっちまった。

果たして、この本のタイトルのように、
アメリカは崩壊するのか?


そーなったら、今もアメリカの仕事もやってるし、こっ、、こまるなあ。。

絵:表紙イラスト/ドナルドトランプ

2016年11月6日日曜日

ウチの雑草、アブラナ科。


ウチの雑草は、アブラナ科の植物です。

アブラナ科の植物、白菜、小松菜、水菜、壬生菜、タアサイ、チンゲンサイ、、などなどを畑に植え、花が咲くまで置いておくと、春先になると菜の花が咲く。

これをゆでてたべると、甘くて甘くて、まーおいしいこと、おいしいことといったら、ほっぺたが落ちるぐらい。

これもまたそのままほったらかしにしておくと、アブラナ科の植物は、子孫を大らかに繁栄させ、種をつける。

夏野菜を植えつめるために、種を付けた彼らを根絶やしにし、畑のあっちゃこっちゃに山積みにする。

すると秋になると、その山積みからこぼれ種が、勝手にわらわらと芽を出しはじめる。
アブラナ科はいとも簡単に交配する。
一カ所から、ありとあらゆる形の葉っぱの植物たちが生えてくるのだ。

今日もやまんばは、スーパーの、スーパー高い野菜には手がつけられず、畑で勝手にはえてきた雑草アブラナ科の野菜(雑草?)を収穫する。

小松菜のよーで、小松菜でない葉っぱ、
水菜のよーで、水菜でない太い葉っぱ、
タアサイのよーで、タアサイでない葉っぱ、

など、奇怪な形の葉っぱたちをゆでて、マヨネーズで食べる。

これがよー、めーっちゃうまいんじゃ。