今月は忙しくてバタバタしている間に、
山桜が満開になっていた。
高尾山が一望できる場所で、
久しぶりに山笑ふこのひと時を一人堪能する。
春の香りがする大地に大の字になって青い空を眺めながら思う。
胡蝶の夢の話は、「私が蝶になったのか、蝶が私になったのか」
夢と現実の区別がつかないことを意味しているが、
実は、私は蝶でもあるし、人間でもある、
という夢を見ているのではないか。
夢と現実の区別というよりも、
この世界が夢そのものである。
その夢の中で私が蝶になろうと、人間になろうと、
それは夢の中の物語でしかなく、
「私」とは、人間でも蝶でもないのだ。
頭の中で聞こえてくる声は、常にこの世界のことを話す。
あれはどうなった?
それは解決せねばならぬ。
その解決法は、ああやってこうやって。。。。
それは「お前は人間だ」という催眠をかける。
私が人間であると信じさせる方法は、頭の中の声を聞くことだ。
頭の中は勝手にこの世界のことを物知りのようにいう。
そう。この世界は形の世界。
形が私。形と形がまぐわって新しい命を作る。
形は形を作り出し、それは変化して死にゆく。
その常に変化するものに囚われて、
この形じゃイヤだ!別の形にしたい!
と言い続けて戦っている間に、
老いというものがやってきて、
思うように動かない自分に腹が立ち、
それを別の形にしようとあの手この手を使う。
またまんまとこの形の世界に囚われて生きることの繰り返し。
ある時、「この私という人生は、
何度もなんども同じことを繰り返しているだけなんじゃないか?」
と気がついた時、ハッとして、ゾッとした。
苦しみは形の中にあるんじゃないのか?
形ばかりに心が奪われてきた、このことへの気づきが促されていた。
空を眺める。
そこには形がない。
形がないものは私と思っているこの体を覆い尽くし、
その体の中にまで浸透している。
目の前の山の中にも、木々や草花、
そこに生きる野生動物や昆虫や蝶の中にもある。
そこに心を移す時、心は広がる。
私と思っていたこの体は、
私が見ている夢の中の主人公で、
その周りにある透明な何かが本当の私。
形であるものは私ではなく、形のないものこそが私。
心がグルンとひっくり返る。
あると見えているものは存在しない。
ないように思えるものこそが存在する。
形は、私の恐れの心が映し出した夢という幻想。
その夢の中に登場する形を、
もう追求しなくていいんだというホッとした喜び。
私は蝶でも人間でもなかったという安堵。