ウチの母は、かなり変わっている。
ドアに小指を挟んだ。激痛がしてながめてみると、小指が関節のところから外に向けて曲がっている。
母は、
「ああ、こんなもん、元に戻したらえいがよね」
といって、ぐいっと小指をいったん上に引っ張って、ゴキっと元の位置にハメた。
それで終わり。
これはふつー、「骨折」といって、大騒ぎして、ばんばんに腫れて、お医者さんに行ったり、ギブスをはめてもらったりして、全治何週間とかいって、お薬をもらって、安静に、ダイジーにすごす。
しかし彼女は、そんなのへーきだった。じじつ、腫れもしなかったらしい。
もちろん病院なんか行かない。(良いこの皆さんは、ちゃんと病院に行きましょうね〜)
先日も腕に大きな火傷をして、皮膚がべろんとめくれ、実が見えていたにもかかわらず(うえ~)、そのまま放置。勝手に完治させる。
前に足の小指がおれて、さすがに手術になったときも、
医者が、
「ここは麻酔がかけられないところだから、そのままメス入れるき、がまんしてや」
といったので、彼女は「感じないこと」にしたらしい。
すると、術後医者が、
「あんた、ほんとうにすごいわね。あたしがメス入れても、ぴくりとも動かんかったねえ。。。ほんとにすごいわ。。。。」
と感心したと言う(ほんまいかな)。
母いわく、
「二度ばかり、ズン、ズンって、小指に何かが響いた感じだったんだけど、それだけやった。痛くも何ともなかったき」
と、へーぜんとしている。
なんというか、砕けた背骨を自分で作り直した件といい、どうも母は「肉体の損傷」に関しては、まったく無頓着なのだ。
しらっと、へーきで、けろっと、自分で、勝手に治してしまう。
と、こ、ろ、が、だ。
彼女にとって「ぐあいがわるい」ことに関しては、まったくちがう反応をする。
ちょっと身体の具合が悪い(つまり、カラダが重い)と、大騒ぎする。
どうしよう、どうしよう、とパニックになって、ありとあらゆる方法を試みる。ショウガと玉ねぎジュース、ケールジュース、ハブ茶、お風呂に入る、カラダをさすりまわる、等々。。。
おかしな話じゃないか。
ふつー、火傷したらおおさわぎする。小指が外に向かっておれてたら、おおさわぎするもんだろ?
だけど、ぐあいがわるいぐらいなら、「寝てすます」ことだってできる。こっちの方がおおさわぎしない。
彼女の場合、逆になっている。
背骨を自分で作り直せる技術があったら、カラダがおもいぐらいなんちゅーことない。へのかっぱ。おちゃのこさいさい、
のはずじゃないかー。
のはずじゃないかー。
これはニンゲンの過去の経験からくる、それぞれの反応の違いを現している、いい例じゃないだろうか。
彼女にとって、ケガなどには、トラウマがないのだ。
「ケガ?へーき。勝手に治るもんじゃないの」
とくる。むしろ過去にずっとヘーキで治していた経験がそういわせるのかもしれない。
だが、
だが、
「あっ!ぐあいがわるい!いやっ!じぇったい、いや!どうにかしてこれを取り除くのよおおおおおっ!」
となる。
(「ぐあいがわるい」ことにかんして、彼女は複雑ないろんなおもいを抱えていたことを後日知った)
(「ぐあいがわるい」ことにかんして、彼女は複雑ないろんなおもいを抱えていたことを後日知った)
やってきた「問題」に対しての反応の仕方が、まるでちがうのだ。
ケガ=気にしない。
ぐあいがわるい=パニック。
わしらはケガをすると、大騒ぎする。だいたい似たような反応だ。だから一般的には、ケガ=パニックなもんだと思い込んでいる。だからケガすると、おおさわぎする。
それは返していえば、ケガすると、おおさわぎするもんだ、と定義づけ(条件づけ、そしてもしくは洗脳かも)がされているからそうなるんではないだろうか。
彼女には、ケガに対しての定義づけがフツーの人とちがっていた。
それは「ほっといたらなおる」もしくは「おおさわぎする必要はない」というあたりだろう。
だけど「ぐあいがわるい」にかんしては、
「おおさわぎをしなくてはいけない」
という定義づけをつけたようだ。
とゆーことは、いろんなことが、定義づけによって反応しているだけなんかもしれんじゃないか。
もし彼女が、「ぐあいがわるい」ことさえも、彼女の定義づけによることだと気がつけば、ぐあいがわるいことだって、
「ヘーキ。ほっときゃ、治る」
となるんではないだろうか。
人類が「人生は不幸の連続だ」と思っていることさえも単なる定義づけで、その定義づけが、わしらを不幸の連続に「させて」いるだけだったりしたら。。。。
きみは何を「定義づけ」てる?