2022年9月29日木曜日

投影合戦

 


投影という言葉は、なかなか手ごわい。


この言葉を誰かに言ったら最後、血みどろの喧嘩になる(笑)。



「それはあなたの投影です」


第三者のことを話しているのではなく、

一対一の状況での、この言葉がアブナイ。


「私のことを、こういう人間だとあなたは言っているのでしょうが、

それはあなたの投影だから、

実は自分のことを言っているのです」と。


確かに、私がその人をそういう風に見ているということは、

さばきの心で見たのだ。


ということは、私の投影。

私の中にある、嫌だと思ったものを

人が持っているかのごとく言ったのだ。


だから「はい。そうです」としか言いようがない。


しかし!

そう思えるほど私は人間ができていない。


面白くないから反撃する。


「でもあなたが怒ってるってことは、図星なんじゃないの?」


さあたいへん。 


なまじっかうろ覚えの「投影」という知識。

自分の都合のいいように、防衛と攻撃の道具として使い始める。


どっちのものだと言い争いになり、投影合戦が始まる。



「これはあなたのうんこです。」

「いや!それこそ、あなたのうんこです!」


持っているのが嫌だから、互いになすりつけあう自体に。。。




さて、二人は元々ひとつの心です。

今は二人は分かれて見えます。


何が二人を分けているのでしょうか。


「そこの君。ここに何が入る?」


「うんこ」


「ごめいとー!」


そう。どっちのものだとなすりつけ合いをしているのは、

実はいらないものなのです。


二人はそこではたと気がつきます。

ひとつに戻った二人はそれを外から見ます。


「これは、いったい、何?」



そしてそれは自我の贈り物だったことを思い出す。


自我は神の子たちを分離させるためのアイテムをいっぱい用意している。

喧嘩して「私とあなたは違いますっ!」と言わせ、

分離してくれるのを今か今かと待っていて、

ほれっ、ほれっと、臭うやつを撒き散らすのだ。



「いやーん!くさ~い!誰かうんこしたの~?

あ~~、ワタルくんしたでしょう~!」


「ちがうよ~、リカちゃんだよ~~~!」


「きゃー!私がうんこ漏らすわけないでしょ~~~っ!」


という分離投影合戦が繰り広げられるのだ。






とまあ、そんな感じで、二人で取り扱うには、なかなか手強い代物だ。




だからうんこ(しつこい)は、一人静かにそれに気づき、赦し、


フリーダイアルで

「あーもしもし?聖霊さん?バキュームカー一台お願いします」

と、お越しいただき、


「これ、いらないから処分してください」と頼むのだ。

(自分では決してできないので)

「あいよーっ!持ってくよーっ。任せときー!」

聖霊さんは、実はバキュームカーの運ちゃんなのでした。


ありがたや~~~~。




絵:「金木犀」
 今、あっちこっちでいい香りが漂っています。






2022年9月27日火曜日

人に勧められない(笑)



 コースのおかげで、私は平安を知り始めた。


しかしこれを人に勧めていいものかどうか悩む。

はっきり言って過酷だからだ。


先日相談に来た人も、自分の心を見ることがどれだけ恐ろしいかを私に教えくれた。


1年遅れで一緒にコースを学び出したうちのダンナ。

彼は自分の中の罪悪感にピンと来ていなかった。

しかし心を見るうちに、徐々に自分に罪悪感があることに気付き始める。

そしてその罪悪感がどれだけ自分を翻弄していたかを知る。

今はその自分の露わになった罪悪感に苦しんでいる最中だ。

だがそれが偽物であることを形而上学を学んで理解し、

実践していく間にそこに光を見いだしつつある。



神の子、つまり本当の私たちに罪などというものはない。


罪はないのだと知識で知り、

「罪なんてないから~」と、ないフリをする。


それこそ自我の思うツボ。

罪悪感の自覚のないまま、隠蔽し続ける。

しかしそのままではいつまでたっても本当の平安はやってこない。


真っ黒いキャンバスの上にいくらピンク色を塗っても、

下地の黒がみえて、きちゃないままだ。


はっきりと自分には罪悪感がある!

という自覚があってこその、

訂正の訓練からの~、

無罪の自覚なのだ。

くわ~~~。



だから自分が一体何を抱えているのかを知るために、

徹底的に自分に正直にならなければいけない。

正直になるためには、

自分の心を見るという作業をしなくては正直になれないのだ。


その作業を一人ではなく、聖霊とともに見る。


しかしこれがきつい。

だって自分の心を見ることで最初に見えてくるのは、

自分の葛藤だからだ。

見れば見るほど、自分の闇を見る。


どんだけずるいか、

どんだけしたたかか、

どんだけ残酷か、

どんだけイヤラシイか。。。w


もう、「どんだけ~~~~~~っ!」って感じ。


しかしその自分の心を見るという作業が、

心の強さを作り上げる。




コースのすごいところは一冊の本の中に(日本語訳では2冊)、

自我の力動の解説の合間合間に、本当の私たちの姿をこれでもかと教えてくれる。


自我の闇を露わにさせつつ、

そこに聖霊の光を間髪入れず差し込み、私たちの心を正しい方向に導いていくのだ。


闇など一筋の光であっというまに消えてしまうがごとく。





奇跡のコースは、


もうこんな世界に一秒たりともいたくない!とか、

なんかこの世界、めちゃくちゃ変だ!絶対おかしい!


と、この世界でなんとかして幸せになろうという思いさえも失われて

絶望しつくしてしまった人に響く。



そんな方々にオススメです。


(どんだけ~~~~っ!)





絵:水引草






2022年9月26日月曜日

檻の外から叫ぶ

 


9月は、展示即売会、お里帰り、町内会の長老の集まりの主催などの行事が重なった。


忙しい日々の中、ある現象が私の中で起こっていた。


行事が始まる前、きまって具合が悪くなるのだ。

もう、、ダメだ。。。こんな状態でできない。。。

しかし始まると、そんな体の不調はどこかにふき飛んでしまう。

終わった朝はケロッと起きる。


前からこの変な癖を知ってはいたが、今回は行事続き。

必ずやってくる体の不調。

そしてなかったかのように消える、この変なものは一体なんなんだ!

(単なるプレッシャーだろ)


そして、ひょっとしてこれではないか、、?

と思うフシが。。。




「自分は肉体である説」


体の不調って、ものすごく体を意識する。

自分は体だ!と。

自分は個別で独立してて、

あの人ともこの人とも分かれている一人の人間だ。


これから人と出会うのだと思った瞬間、緊張が走る。

個別と個別が出会う瞬間。恐ろしい。実に恐ろしい。


その思いをさらに強調してくれるのが、この体の不調だ。

私は一個の人間で、これから別の個体と出会う!恐ろしい!

うわ~~もうダメだ!最悪だ!自分は死んでしまう~~!


ほとんど頭がおかしい人。

なぜそんなことをやっているのか。




では次の説。


「自分は罪人である説」


自分はとんでもない罪を背負って生まれてきているから、

その罪を償うために、自分に罰を与えないといけない。

その罰はなんでもいい。

とにかく辛い思い、恐ろしい思いをたっぷり味わうことによって、

その大いなる罪を償わなければいけないのだ!


これです。


この罪の思いが根底にあるので、

自分を肉体だと思わせ、

その肉体を懲らしめるということをやっている。


肉体にまつわる苦しみはなんでもある。

病気、死、老い。


それだけじゃない。

お金、名誉、人間関係、恋愛、家、仕事、成功、、、、。

およそこの世界にあるほとんどのことは、

自分が肉体であるという縛りからの苦しみなのだ。



実は肉体自体が檻。

その中に閉じ込められているという思いが、罪の象徴。



、、、なのではあるが、

本当は私たちは檻の外にいる。


檻の鉄格子を外から掴み、檻の中の出来事を最悪の気分で眺め、

「ここから出してくれええ~~~!」と叫んでいるのだ。


いや。あなたは今も檻の外にいますから。



本当は檻の外にいながら、自分は罪人だと信じているから、

檻の中にいると勘違いをしている。


罪人だと信じているから、

罰を与えるために、自分は肉体(檻)だと信じ込ませるために調子が悪くなった気分になる。

それで罰を与え、その思いで心を苦しめさせることによって

ちょっとでも罪を償えると信じてやまない。


自分はその罪で満載の檻の外にいる。

この今見えている世界の中にいるのではなく、外にいるのだ。


あなたに罪など一度も起こったことはない。

当然罰を与える必要もない。

それを思い出すこと。

それが垂直の知覚。



とか書きながら。


行事が重なって締め切り過ぎた仕事がまだ手元に残る。


焦りでなかなか進まず、

ウンウン唸って頭をかきむしる。


「この檻から私を出してくれええ~~~~っ!」


と、檻の外から鉄格子を握りしめて叫ぶ私であった。





ちゃんちゃん。




絵:「猫じゃらし」





2022年9月22日木曜日

心をロックオン!


 

昨日、人の相談事を聞いた。

本当は相談には乗りたくはなかった。


私は人を救えない。

それは過去に散々人を救おうとして、全く救えなかったからだ。


そしてコースを通して、救われるべき存在などいないことを知る。


自分とは違う他人。私とは違う、悩みを抱えた他人。

そう思っているが、実はその他人も自分と同じ一つの心。。。


頭ではわかっているが、

いざそれを実践できるかというとそう簡単にはいかない。

だから心の訓練。



目の前にいる兄弟を悩める欠乏感のある存在としてみるならば、

私もまた自分自身を悩める欠乏感のある存在としてみることになる。


しかし兄弟を神聖な存在としてみるならば、

私もまた神聖なのだ。


この見方に言葉はいらない。

ただそこにいて、彼を神聖な存在、

光り輝く存在としてみることができるかどうか。


しかし具体的な話を聞くうちに、

どんどん欠乏感のある存在として話をしてしまう自分がいた。


「あなたにはこういう問題があって、

その問題を解決するには、これこれこういうやり方で。。。。」


ああ、ダメだ。

これじゃ今までと同じだ。。。





今回、彼と会うことは私の中の何かを解放することだと気がついていた。

私の中の罪の思いを終わらせるために来てくれていることを。


そして彼と会う前、

私の中の罪だと思っていたものが消えていく解放を味わった。


で、彼と会った。

だが結果がこれだ。


相変わらず人は救えない。。。



いや待てよ。


私が救う必要はないのではないか。


彼自身が自分を救うのだ。

そして神聖である彼はすでに救われている。


どこを見るのか。


この世界にフォーカスすると、救われていない彼を見る。

水平の世界にはそう見える。


しかし垂直な方向、

つまり神聖さの中から見ると、彼はとっくに救われている。


それを思い出すことだ。

私の心をそこにロックオンすることだ。


馬鹿げてる?

でも見たいものを見るのだから、

ほおっておいたら水平線上でしか見ない。
(つまり自我的な視点)

しかしそれに気づくことで、

どこから見るのか自分で決められる。



私が彼を「問題ある人」と見る限り、彼は問題ある人となるのではなかったか。

では逆もしかり。


私が彼を神聖なる存在としてみることで、彼もまたそれを思い出すのだ。


だって心はひとつなのだから。




絵:「ススキと高尾山」




2022年9月19日月曜日

消そうとしない

 



何か嫌なもの、動揺するものを見て、

それを赦す時、

わりとやってしまいがちなのは、

その嫌なものを消そうとして、赦そうとすることじゃないかなあ。


気に入らない状況や、誰かにどっかに行ってもらうために

ほとんど無意識にやってるけど、


聖霊と共に赦します。。。って。

私だけ?(笑)


現象を消すために赦しは使えないよなあ。

魔法の杖みたいに。




そもそも現象があるのは、

自我が「この世界はあるよ」って教えるためにある(余計なお世話じゃ)。


その現象を見て、楽しんだり怒ったり泣いたりしてくれるためにある。

その箱庭の中で喜怒哀楽を味わい、

いつまでもそこにい続けてもらうことが自我の目的だ(油屋のようだ)。



コースが使う「赦し」は、そこから脱出するための道具。

その道具をその現象を消すための道具として使おうとするなら、

その前提が「この現象は存在する」と言ってるようなものだ。


嫌なものが実在してて、それを消すとは、

罪は実在するけど、それを消してやろうとしていることと同じ。


消そうとする思いは拒絶。

自分から離れて欲しいという分離の思い。



本当は私から出たもの。

油屋の湯婆婆は私が原因(笑)。


私の中にある嫌なものを、外に見た(出した)。

それだけなのだ。


だから赦すとは、

いったん外に出した自分のものを、

また自分に受け取ることなんじゃないかなあ。


受け取る。引き受ける。包含する。慈しむ。赦す。


拒絶、分離、とは全く反対方向の流れ。


そうやって現れた苦しい感覚を、そのまま受け取る。


目の前の現象は心の結果として現れているだけ。


その原因である、

心が感じているものだけにフォーカスする。


嫌なものがあると信じていることを受け入れる。

罪を見つけた自分を受け入れる。

怖がっている自分を受け入れる。

そしてその恐れているものをも、受け入れるんだ。


その何もかもを包含する静けさの中で、

実在していなかったものが、

元の無に帰っていく。


さっきまでのものが内側で自然と消えていくのを発見する。

違った見方で見えている。




この世界は、肉眼で見ているのではなく、

心が見ているのだと少しづつ実感する。





絵:「葛」