2021年11月30日火曜日

愉快を選ぶ

 


久しぶりに友達から電話があった。

互いの近況報告をしてしばらく話した後、電話を切ろうとしたら、


「待って待って。実は別の用事があって電話したんよ」という。


なんと彼女が選挙の話を熱く語るではないか。

「らしくないねえ~」とからかった。


だけど彼女は真剣そのもの。

「わかった。考えとく」と言って電話を切った。


その後彼女が薦める人の動画を見る。

はつらつと今の政治の悪い部分を変えていこうと、熱く語っていた。


なかなかいい話。

しかしその話の大部分は、この国の政治は今最悪の状態だ。今こそ、この最悪の政治を自分たちの手で変えていこうというものだった。


私は彼の動画を見ているうちにだんだん怖くなってきた。

この国は今大変なことになっている。このまま放っておいたら、この国の国民は悲劇を被る。

それをあなた方は放っておいても良いのですかと。

まるで私が放っておくから、この国は崩壊すると言わんばかりなのだった。


急に一票入れる気が失せた。

これは私の恐れを彼によって解消してもらうようなものではないか。


コースを学んでいる私が、恐れによってその一票を入れるということは自我を選んでいる。

ということはその恐れを実在させることになる。


「やーめたっ!」



その後、投票日が近付くにつれて、私の心に変化が起こった。

なぜか彼の選挙がお祭り騒ぎのように見えてきたのだ。


それまでは彼は私に脅しをかけてきたように見えていた。だが時間が経つにつれ、その部分よりも彼の楽しさの方が見え始めたのだ。彼は喜びの中でこれをやっているように見えてきた。そのわっしょいわっしょい感が、私を楽しくさせていた。


「あ!愉快だ!」

そう思った時、私は彼に投票することに決めた。



その「愉快を選ぶ」という考え方。

今までなかった。


そんな考えが自分にあるとも知らなかった。

行動はいつも「そうせねばならない」で動いていた。

それは義務感。だからだんだんやることが辛くなっていたんだ。


その後、私は愉快を選ぶようになっていった。


つづく。




絵:「健康と生活」表紙イラスト/ノルディックウォーク





2021年11月24日水曜日

罪はなかった

 


夢を見た。


ある問題があり、それを解決しようとしていると、

それを上回るアイディアが聖霊から送られた。

私はその圧倒的なアイディアに喜び、視点が変わり、問題は消えていった。


そして今度はまた別の問題が立ち上がり、

それもまた即座に聖霊から別のアイディアを受け取り、

その圧倒的な視点の違いに感動し、その問題は消えていく。


そしてまた全く別の問題が立ち上がったが、

それもまた聖霊の圧倒的な視点の違いで、

その問題がなかったことになっていく。。。。


その同じパターンを何度も何度も繰り返しながら、

自分の中で限りなく膨らんでいく聖霊のとてつもない愛の中で目を覚ます。

寒い部屋の暖かい布団の中で喜びにあふれた。


寝てられないので起きる。

夢の中の問題はいったい何だったのかさっぱり思い出せない。

そしてそれを解決させた聖霊のアイディアさえも。


だけど全ての問題が聖霊によって次々になかったことになっていく。

こうやって聖霊は私のそばにずっといてくれているんだ!という感謝の思いでいっぱいになっていた。


イメージとしてはこんな感じ。

たくさんのバルーンが、どんどんどんどん膨らんでいく感じ。

私の胸の中で無限に広がっていくその風船の中は、

喜びという空気で満たされていた。





先日「罪はなかったんだ!そんなもの、最初っから、まったくなかったんだ。。。!」

という思いがいきなりやってきた。

何のきっかけもなく、突然。


罪はないという言葉はコースで学んで知っている。

しかしその言葉を知識で知っているのではなく、はっきりと自覚したのだ。

「そんなもの、なかったんだ!」と。


自分に罪はなかったんだと知ることは、すべての重荷をなくすことになった。

ずっと罪を背負って生きてきた私にとって

その開放感はすごいものがあった。

「なかったんだ!罪なんか、まったくなかったんだ!」

私は一人部屋の中で叫んだ。


そのあとの心の大騒ぎといったら。嬉しくて嬉しくてじっとしてられない。

心をどこに置いていいかわからなくなって、誰かに確認したくなる。

だけどそれを確認してどうなる???


これは自分を特別視しようと誘う、自我の動きではないのか?

という思いで行ったり来たりして、ぐちゃぐちゃになった。

そしてそのはち切れんばかりの思いをぐっと押さえ込んだ。

その押さえ込みは相当なもんだったが(笑)。




次の日、罪はないということを知った私に、

自我は猛攻撃を仕掛けてきた。

罪は自我の専売特許だから、それを奪われた日には、自分の存在が消えてしまう。


狭い道路に車が渋滞していた。私は運転しながら、道の脇に知り合いが犬を連れて立っているところを見つける。

軽くクラクションを鳴らしたら、彼女はすぐ私に気がついた。軽くあいさつして通り抜けた時、小さな犬は「ワン!」と吠えた。

そして数秒後、心の中の声はこう言った。

「犬、ひいちゃったんじゃないのか。。?」

その時、犬が「ワン!」って言ったのを思い出した。


「あれは『ワン!』ではなく『ギャン!』て言ったんじゃないか?お前はひいてしまったのだ。。」

ものすごい恐怖が私を襲った。私はとんでもないことをしてしまったんじゃないだろうか。。。

それから家についてもその恐怖はますます増していった。


あれてて彼女にラインをする。だけど既読にならない。

今頃大変なことになってて、ラインを見るどころの騒ぎじゃないかもしれない。。。

自我の声は私を奈落の底に突き落とす。


昨日罪はないとわかったはずだ。だから何も起こってなどいない。

そう言いながら赦し続けた。しかし一向に苦しさは治らない。

過去に、自分の犬が車に轢かれて死んだことも思い出して赦した。

そして幼い頃、うちの犬が産んだたくさんの子犬たちを父と海に流したことまで思い出し、それも赦した。

しかし依然苦しいままだ。


私は単にこの苦しさを、赦しをすることによってなくそうとしているだけじゃないのか?

それは真の赦しではないのではないか?


そう気がついた時、心の中で左上の方に明るい白い雲が見えた。

「これは?」


そして今度は右のほうに、犬が死んだシーンが浮かぶ。

私の心の中に二つの映像があった。

これはまるでシュレーディンガーの猫だ。

一つの箱の中に、生きている猫と死んだ猫がいる。

その両方の可能性がそこにあるのだ。


白い雲は、罪のない世界。形のない抽象の世界。

死んだ犬は、罪のある世界。具象の世界だ。


どちらの可能性もあるのであれば、

私は今ここでそのどちらかを選ぶことができると思った。


この世界が私の投影でできているのであれば、作り上げるのは私。


私は罪のない世界を選ぶ!と断言した。


そのすぐ後だった。

彼女から「大丈夫だよ~」

と明るい返信メールが届いた。



罪はないと確信したからといって、すべてがすぐにひっくり返るわけではない。

それは恩寵のように私に教えてくれたもの。


そのこっちだよと教えてくれる光の方に向かって、

私は日々心の訓練を積んでいく。


やがてまったく罪のない真実の心にもどるために。





絵:「健康と生活」表紙イラスト/カナダのスキー親子




2021年11月21日日曜日

沈黙で答える


 

心の中の声は、絶えず自分を正当化している。


あの人がこう言ったから、私は傷ついた。

あの人がこう言ったのは、私がああ言ったからだ。

だけど、だけど、そもそもあの人がああいう態度だから、私はああ言ったのよ。

私がどれだけあの人に。。。。


考えもしないのにどんどん出てくる言葉。


私はその声に沈黙した。


その声はいくらでも言い続ける。

しかしその声に答えはない。

それは自我の声だからだ。


自我は自分で答えを見つけ出さない。出せない。

なぜならそれが自我の目的だから。


自我はそうやって私たちの心の中にいくらでも忍び込んでくる。

そうやっていつまでもありもしない問題に取り組ませようとする。


私はその声に沈黙した。

沈黙で答える。

沈黙が満ちていく。




自我の声はとても具体的だ。


人がいて、自分がいて、喋った言葉や態度があって、状況があって、物があって、問題があって、、、。

すべてが具象の中で展開する。


しかしそれは偽物だから具体的なのだ。

具体で示すことで、ここに実在すると証明しようとしている。


ほらここにあるでしょ。

ほら、ここに肉体があるでしょ。

ほら目の前にも肉体があるでしょ。

あるでしょ。見えるでしょ。

だ、か、ら、あるのよ!


あるのだと証明したがっているのは、それがないということだ。


具体の中には苦しみしかない。

答えのない世界でぐるぐる回っているだけの苦の連鎖。




それを見届け、どんどん赦していくうちに、しだいに具象ではない抽象を見つけ始める。


肉体という具象の目で見る世界ではない、

肉体ではない何かで知る抽象。


今までは雲の形をなぞっていた。

どんな形の雲か、それをどうすればいいのかと。

しかし今は、雲と雲の間の何もないものを見る。



沈黙の先に見える光。

静けさの中に満ちてくる光。



忘れていた答えはここにあった。





絵:「見上げた空」

2021年11月17日水曜日

喜びと散歩


私もかなりなものだったが、罪悪感や自己嫌悪が強い人は、

形而上学を学び始めると、

自我が、恐れによって攻撃と防御を繰り返している仕組みを知ると、


自分が自我とともに何をしているのかをはっきりと自覚してしまうので、

自分をさらに責めてしまうことになる。


そうなると本末転倒。

自分を裁くことを日常的にやっている人間が、

そうやっている自分をさらに責めることになり、

裁きに裁きが重なって身動きが取れなくなってくる。


そんな時道しるべになるのが、喜びだ。


私たちは喜びは数ある感情の一つだと思っているが、

実はその感情こそが、自我からの脱却を導いてくれる。


喜びはもっと大事にされるべきだ。


誰かが傷つくことによって得られる喜びは論外として、

心に火を灯す何気ない日常での小さな喜びは、大きな喜びの火種になる。


それが一体なんなのかを事細かく教えてくれたハレルヤさんには、本当に感謝している。

罪悪感まみれで苦しんでいたとき、喜びが私たちの本当の姿だということを教えてくれた。



私はよく散歩をする。

木々の間を歩きながら、心がだんだん明るくなってくるのに気がつく。

家の中でぐるぐると考えがまとまらずにいたことが、

歩いているうちに、なんてことないことでくよくよ考えていたんだなと、

別の視点が広がってくる。


木漏れ日など見ているうちに、ますます嬉しくなってしまい、訳もなくその場ではしゃぎたくなってくる。

この頃は家の中でも嬉しさでぴょんぴょん跳ねている。


でも本当はみんなそうなんじゃないだろうか。

嬉しくなったら、子供のようにその場でポンポン跳ねて、

ぐるぐるまわって、

きゃーっ!って叫びたくなっちゃう。


でも「大人しく」という言葉が示すように、

大人とはこうあるべき、こうするべき態度っていうのを教えられて、

その最も大事な、宝石のような感情を押し殺してしまう。



散歩していると、ご近所さんたちや、山から帰ってきた登山者の人たちとよく会う。

すれ違うだけの人も多いが、中には一緒に歩きながら話をすることも。


みんないろんな人生を背負って、この高尾山にやってくる。

そっけない態度をする人もいるけれど、本当は愛を求めている全員素敵な人たちだ。


一人一人が個性的で魅力的。

一瞬すれ違うのも、きっと私と縁のある人たち。


心の中でそっと祝福を送る。時には白い百合の花を贈る。

驚いて喜んでいる姿が目に浮かび、私までほっこりする。



歩けば歩くだけ、喜びが増えていく。


道でぴょんぴょん跳ねているおかしなおばさんがいたら、

喜びを表現している山姥だと思ってください。






絵:「秋山」今は高尾はこんな感じ。



2021年11月14日日曜日

水晶玉をのぞく魔女

 



やること、すること。

どうやったかってこと。


そのことに重点が置かれる。


だからSNSが受ける。

あれをやったこれをやった。

どう?私って充実しているでしょ?って表現してみせる。


だけどほんとは、そこまで充実なんかしてない。

やって充実したふりをしているだけだ。

私の「5時です。麦汁プッシューっ!」だって、ほんの一瞬のこと。


この世の充実は、ほんの一瞬。

SNSにあげてもう一回喜ぶだけ。

いいねをもらってもう一回喜ぶだけ。

でもほんとは充実なんかしてない。


だからまた「何かやろうとする」。

その繰り返し。

そのうちSNSもまた廃れてくるのだろう。

でもまた別の形の「何かをする」アピールが始まる。。。




これを書いていると、家の外から聞こえてくる、道を歩いている人の声。

「頑張ればできるんだから」


はい。頑張ってきましたよ。今まで。

だけど頑張った結果がコレ。

もっと頑張ればよかったんかな?

まだ足りなかったんかな?

死ぬまで頑張り続けろってか?

それが人生ってものなのか。


ならば私はもう御免こうむりたい。



多分私は、がんばらさせられ続けているんだと思う。

あれ?がんばりさせられ?。。まあ、どっちでもいいや。


欠乏感と罪悪感からくる焦燥感。

まだ足りない、もっとがんばらなくては、もっと充実感を味わって、、、

ほいさっ、えらさっ、どっこいしょ~。

おさるのかごやはホイサッサ~。


ネズミの回し車みたいなもんだな。死ぬまで回し続ける。


それが自我のささやき。

止まったら死ぬよ。回さないと死ぬよ。

いやいや。回してたら死ぬよだ。





ピタッと止まって、ひなたぼっこ。

頑張ってるをする世界から離れる。


外を見ることから内側を見ることに移行する。

形象を重視することから、内側の見えないものを重視する方向に移行する。


形象は罪から作られていることに気づく。

形象を見続けることは、罪を見続けているんだ。




いわば私は水晶玉の中をのぞいている魔女。


その中に私の罪でできた世界が見える。

自分の中に罪悪感があるうちはその世界から離れられない。


だけどその罪を赦すことによって自分の中から罪の意識が徐々に消えていき、

その魅せられていた水晶玉からだんだん離れていく。

そうするとそのまわりにあった光に気づき始める。


そして「なあんだ。私はとっくの昔っからずっと光の中にいたんだ。

いつの間にか、水晶玉の中の闇に囚われていただけだったんだ」

って気づく。


その時、私の中の魔女は消え去り、

何事もなかったかのように、光の中でくつろぎましたとさ。


おしまい。




絵:「Witch」


2021年11月11日木曜日

大好きな本屋さん


 

高校時代、八日に一度の楽しみがあった。

亡くなった父に申し訳ないが、八日に一度とは、父の当直の日のことだ。


その日だけは母と二人で高知の食の通り、大橋通りに出かけて行って、好きなものを好きなだけ食べて帰ってくるのだ。


母の仕事帰りに合わせていつも待ち合わせするのは、大橋通りから一歩脇に入った雑居ビルの地下にある本屋さん。私はその本屋さんが大好きだった。


地下へと続く階段を降りていくと、そこは一気に木の世界。天井まである高い本棚たちがそびえ立ち、さながら本棚の森に入ったかのようだ。天井以外すべてが落ち着いた同じ木の色でできていて、歩くとキシキシと音がする。塗りたてのワックスの匂いの奥から、小さなカフェから漂うコーヒーのいい香りがした。コーヒーの香りとワックスの融合が、ひときわ心を落ち着かせる。

私はそこで夢野久作や久生十蘭の世界に想いを馳せた。


その中でも私を虜にして離さない一角があった。それは絵本のコーナー。そこでは何時間もいられた。

幼い頃母に呼んでもらっていた絵本は、たった一冊の本の記憶しかない。だがこの本屋さんを通して、私は絵本の世界を知った。


高校生になって読み始めた絵本だったが、不思議なことに大きくなっても読める。安野光雅や宇野亜喜良、海外ではユーリーフルヴィッツやアーノルドローベルなど読み漁った。


その後アメリカに渡った時、絵本を出版している出版社に営業してみようと思った。


アメリカでは絵本のことを「children’s picture books」という。

子供の絵本かあ。。。

高校時代から読み始めた絵本だったので、その言葉になんか違和感があった。

絵本は絵本じゃん!picture booksといえば?と。

だけどそれだと写真の本ってことになっちゃう~(笑)。


手当たり次第営業をかけて、ある出版社に声をかけられた。しかしその出版社は、子供のおもちゃから絵本まで、全て可愛らしい世界。いい話ではあったが、いづれ自分が嫌になることは見えていた。かなり気に入られていた様子であったが、丁寧にお断りをした。




子供向けの絵本は山ほどある。だけど大人が読むに堪えうる絵本の方に私は惹かれた。

それはその絵本の中に、広がりを感じさせてくれるからだ。

文字で書かれていない、絵で表されていない、その奥にある何かを。


絵本から目を離すとすぐ見える普段の見慣れた風景が、その絵本の世界を通してみると、突然違う風に見えてくるのだ。私はあの本屋さんでそういう感触を何度も味わった。



この世界はこうなのよと、大人が知ったかぶりを子に教えるための教材としての絵本ではなく、大人もまだ知らないものを、子供と一緒に味わう。


なんだろうね。

これはなんだろうね。

でもステキだね。

一緒に探ろうか。


そう思わせてくれるもの。そんな絵本があってもいい。

いやそれこそが、まだ知らぬ何かを見つけていくきっかけになるのではないだろうか。


母と子がベッドの中で二人共通の世界を味わう。

子はこれから出会う世界に思いを描き、

母は日常から遠く離れた何かに想いを馳せる。


ほんの数分間だけの二人の世界は、大きな光の波紋となって世界に広がっていく。

その波紋に触れた人々は、何かを思い出していくのだ。。。



絵本には世界を変えていく力がある。


久しぶりにあの頃の自分を思い出していた。





絵:「10分あれば書店に行きなさい」/MF新書表紙イラスト