やまんばはきほん、チョー忙しい時以外は夜は仕事をしない。
のんべして~、めしくって~、だらだらしてねる。
とゆーことは、夜は頭を使う必要がないってことだ。せいぜい晩飯の献立を考える程度の脳みそ活動でよい。
なのになぜか頭はフル回転だ。
自分の思考の内容をチェックしてみると、自分の未来の不安、仕事の不安、家族の不安、社会の問題点に文句を言う、畑になに植えようか、そんなところだ。
未来の不安は、漠然としている。仕事の不安だって、漠然としている。ましてや社会の問題点を、このやまんばがここでフンフン文句言ったところで、なーーーんにもうごかん。
ゆいいつ、考えてものになりそーなものは、畑になに植えようかぐらいだ。が、それだって、頭でいくら壮大な計画をたてようが、いざ畑に立つと、
「うん。やっぱ、これにしよう」
とかいって、たいていは夜通し立てた計画をいきなり却下する。
仕事だってそうだ。前もって考えたって、だめ。その場になって膨らむアイディアにまかせる。タマーに夜ふといいアイディアが浮かぶことがある。しかしそれは「考えた」のではなく、いきなり「浮かんだ」だけだ。
と、ゆーことは、前もって考えたよーにならないのが人生ってことだ。少なくともやまんばの人生において、太陽を53回転してきた時間において、計画通りに事が運んだ試しもなければ、計画通りにやった試しもない!!!
であるならば、なんで前もって考え抜こうとするのか。
不安なのだ。
なんかしてないと不安なのだ。手を動かすとか、することがあると、それで気がまぎれるが、ナーンにもすることがないと、手持ち無沙汰になって、いたたまれなくなって、やたらめったら考えはじめるのだ(笑)。
ほらほら、やまんばをわらっているそこのあなた。あなたも似たよーなことしてないか。
だいたいわしらは、ぼーっとしていることをきらう。
建設的でないとか、そんなことしてたらろくな人生にならんとか思っちゃって、少しでもマシなニンゲンになるために、考えをめぐらす。
どうも思考には二つの方向性があるように見える。
1つは、たとえば人と待ち合わせするのに必要なもののような、実質的な思考。
もう1つは、ふとあふれて来た問題定義のようなものに「あ~っ、この問題があった!」なんて言っちゃって自動的にのっかって、だらだらととめどもなく使う思考。
後者はきりがない。
わしらは考えたことによって答えが導き出されるという信念を持っている。だから出てきたものを「出て来たからにはこれを考え抜いて建設的にいこう」と集中するが、そんなもんにはたいしていい答えはでない。
思いかえしてみると、いい答えというものは、ほとんどがふと浮かぶ直感だ。
だから後者は労力のわりには実りがないと言うのがやまんばの経験。
そしてその後者の部類に思考は、たいてい怖れをきっかけとして、保守を選択する内容に行き着く。最終的には「おお、人生って恐ろしい。いっしゅん先は闇だ。」とかいって身震いするのがおちだ。
不安を感じるために思案に暮れるが、その結果は転ばぬ先の杖を導き出して、人生を狭い世界にもっていく。
少なくともやまんばの思考はこのようであった。
このパターンに気がつくと、それをやっている意味はあるのか?という疑問が出て来る。
ついでに不安から来る保守的対応のエネルギーは、それを考えている間、増えていくというよりもかなり消耗されるのがわかってくる。
心配してぞくぞくしてエネルギーを使い、何か手だてはないかとアレコレ考えることでもっと消耗する。そういう考えは短時間で終わるわけがなく、きりがないほど延々と続く。その消耗たるやどんだけなのだろう。
やまんばはそういう消耗がなんだかばかばかしくなった。そんなところにエネルギーを注ぎ続けているのがもったいなくなった。建設的に考えているつもりだったことが、まるで建設的じゃなかった。
恐怖から導き出される考えは、結局混乱しか生まないのではないか。
恐怖から導き出される考えは、結局混乱しか生まないのではないか。
自分を狭くさせていく思考パターンに気がつきはじめた。
ふとやってくる問題定義に「ああ、また来たな」ぐらいの対応になった。
すると植木等じゃないけれど、
「およびでない?およびでないね。
こりゃまた失礼いたしました!」
と、問題定義思考が消えていくのを見た。