2019年3月24日日曜日

ボケを演じてくれている人



心だけが変わればよくって、現象は何も変えることないんす。

弁護士のおばちゃんであろうが、レジのおばちゃんであろうが、そんなんどっちであろうと何も問題はない。いちばん大事なのは、心の変化だけが真に求められていたことだったんだ。

目の前に展開する現象が気に入らないと、それを物理的に変えようとするよね。
一方で、こんな言葉がある。この世は鏡。

鏡に映った気に入らない自分の顔を、鏡をゴシゴシすることで気に入る顔にしようとしてもムダ。映っている元の顔をいじらんと、ブスはブスのまんまやろ?ってやつ。



これを心に置き換えてみる。
目の前に意地の悪ーいヤツがいる。(鏡に映った自分の考え)
そいつをどうにかして懲らしめてやろうとか、あんたのやっていることはまちがっている!と説教たれてやろうとか、あの手この手で策を練る。
(映った気に入らない鏡をゴシゴシ磨こうとする)
いっこうにあいては変わらない。(当り前や。鏡やもん)
悪戦苦闘の結果、あっ!なんや~、私の顔(心)が映ってただけやったんか。
と気づく。


物理的に映っているものと同じように、そっくりそのまんま、心も映し出される。
と、とってもシンプルな仕組みなんやけど、どっこいそうはいかない。

実際、鏡が前にあったら、「ああ、鏡に映っとるわい」と気がつくけど、目の前に鏡が置かれてない日々の生活は、「自分の考えが映っとるわい」とは思えないので、気に入らんダンナをヘーキで攻撃する「あほかー。このボケなすー!」と。

もしもし?自分の考えが映っとるんですでーと誰かがささやいても、原辰徳は怒り絶頂!このボケなすをどぎゃんせんといかん!と我を忘れる私。

これを何十年も繰り返してきた結果。
あん?これ、自分の考えやんけ。。。と、やーーーっと気がつく、このボケなすっ!



そーなんす。
私のダンナはボケなすだ、と思っているそのまんまが映っているだけなんす。
これに気がつくと、なんでかしらんが、ダンナはいきなりボケなすではなく、白馬に乗った王子様に、、、はならんけど、ボケなすではなくなる!


つまり。この世はうまいことできてて、
「あなたはこんな考えを持ってますよ~」
って、鏡に映して教えてくれてるだけなんす。

いやいや。ダンナのボケなす加減はああでこうで、だからこのようにボケなすで、、、、と、心はいうでありましょう。どんだけボケなすか、山のような立証がなされるでありましょう。わかりますわかります。私もそう思ってきましたから。

だからそれが映ってたんだよー、このボケなすーーーーっ!

おっと。おもわず叫んでしまいました。



こんなはなしを聞くと、
「じゃあ、私もダンナはボケなすじゃないとおもうことにしよう~」
となるんでしょうが、どっこい「フリ」はすぐバレます。
なんせ心ですから。
物理的に見えているものをごまかすのは得意です。
いい人ぶったり、親切に装ったり。
(身に覚えあるひとー!「はーい!」)
だけど心はバレバレです。自分の心はだませません。



まずは仕組みを知ることです。
外にあるものは結果です。結果を変えようとしても意味がありません。
その原因にもどらないと。

その原因とは、すなわち心、考え。
最初にダンナがボケなすだから、その考えが生まれたわけではなく、
最初に「あれ?こいつ、ひょっとしてボケなす?」っておもったところから、
ダンナがボケなすを演じてくれだしたのであります。


それに気づくように、日々ボケを演じてくれているダンナさんに感謝しましょう。


2019年3月19日火曜日

私が見ている世界



たとえばこんなイメージ。
今見ている目の前に展開する世界。

目ん玉動かさずに見ると、左右180度の広がり(もうちょっと狭いか)。上下これまた180度の広がり(もっと狭いかw)。その広がりの中に展開する世界。
これが「私」の世界。その見え方は家の中では壁に阻まれ、その壁の向こうは見えない。外にいたとしても、山や建物に隔てられて、その向こうは見えない。
じつはこれが今私が「見ている世界」のすべてだ。

顔を右に見回すと、別の世界が展開する。左に回しても、後ろを振り返っても、その見えている世界の続きが展開する。
だから私たちは、そこに空間が広がっていて、その中に個別の私がぽつんといると思っている。



しかしじつはそうではない。
あるのはその今見ている映像だけなのだ。(おっと。おかしなことを言いはじめたぞ)

顔を動かしたとき見える世界、椅子から立ち上がってドアを開けてトイレを見る世界、電車に乗って展開する世界。ぜーんぶ、そのとき作られている。瞬時にぱたぱたと出来上がっていく。

じゃあ、その世界の外は?いま私の背後の風景は?
ない。なーんにも。
私たちはただ自分が見ている世界だけで生きている。
生きている気になっている。でもこれがバーチャルだった。



そんなバナナ!
だって、あるもん!
家の外にはおとなりさんがあるもん!
八王子の向こうには立川があるもん!
高尾のお山の向こうには、藤野があるもん!

そうそう。ありますあります。走っていって確かめてごらんなさい。確かにドアを開けるとおとなりさんがあります。
そりゃ、そーです。その瞬間に作られてるんですから。

どーんなに高速でスパっ!って後ろを振り返っても、ものすごいいきおいでドアを開いても、ちゃんとそこには世界があります。
この世を見くびってはいけません。そんじょそこらの知恵で、手品のトリックを見破ろうったって、見破れやしません。なんせそれで何億年も(?)だまし続けているんですから。



この世界は自我が作った世界。自分/自我が信じてきたことが展開されている世界。
神さまなんかが作っちゃいない。神さまがこんなへんてこな世界を作るわけがない。
矛盾だらけ。悲劇だらけ。恐怖だらけ。絶望だらけ。
神さまだって、まちがえる?
そりゃ、自我が言う神さまのイメージ。
そんなへなちょこ神さまやったら、わし、いらんわ。


自我の罪悪感で作り上げられてきたこの世界。だんだん薄めていこうじゃないの。

自我の考えのパターンに寄り添っているかぎり、この世界は悲劇へとむかうで。
自分の中の自分へや他人への否定的な考え、いつもの不安な気持ち、言葉にならない焦燥感、未来への怖れ。
これが自我のエサ。



SNSにはそのエサが散りばめられている。
単なる薄っぺらい箱の中に人々は釘付けになる。その中に全世界が入っているように見える。だがそこにはただ映像が、文字が、いや黒いシミが並んでいるだけなのに、人々はそれを見て、怖れおののいたり、他人や社会をとがめて過ごす。
左右180度上下180度の世界よりももっと狭い世界の中に入って、心を脅かされ続けている。
自我が与えるその世界、そのエサを食べて、人はこの世界をもっとリアルに恐怖にしていく。

自我が与えてくる恐怖に気がつこう。
人をとがめる、社会をとがめることの「快感」に気づこう。


それは自我が仕掛けた矮小な世界。
そこに真実はない。
そこは私たちの本当の世界じゃない。
そこから出て行こう。



絵:芽吹き/coopけんぽ表紙最終号




2019年3月16日土曜日

仕事が出来る人が基準な世の中




世の中は、仕事ができる人が基準になって動いてるんだなあ~っておもう。

自慢じゃないが、私ほど仕事の出来ないヤツはいない(笑)。
母への仕送りのためにバイトをはじめたが、時間内に仕事が終らせられないこと山のごとし!
3年もたつのにいまだにノルマがこなせない。我ながらかんどーする。どんだけトロイんじゃ、このぼけ~~!
出来ない自分への心の罵倒が続く。しかし罵倒されて、あせればあせるほどからだがこわばり、ますます遅くなる。ノルマの重圧と自分自身からの罵倒の二重苦に喘ぎながらひたすら作業する日々が続いた。


しかしこの苦悩が、仕事が出来ない人の気持ちになれるという、思わぬ贈り物を受け取ることになる。

職場でみんなから嫌われている仕事の出来ない従業員さんと、マイペースで同じく仕事が出来ない新人さん。このふたりを温かい目で見られるのだ。


仕事ができる人は「出来ること」を基準にしてその目線で彼らを見るから、仕事をこなせないことにイラつく。
一方出来ない私は、出来ない人の気持ちがわかるから、「彼らは出来ないのだ」を基準にしてその目線で見るから、仕事が出来なくてもおっけー。

出来る人にとっては、出来て当り前。出来なければならない。出来ないでどーする!私も努力したんだから、あなたも努力しなさい!という立ち位置で彼らを見るので、彼らがたるんでいる、のらくらしてる、緊張感がない、自分勝手だ、という風にとらえてしまうのだろう。
そのため、無意識に彼らを監視するようになっている。ああ、またやった。ああ、あれもまだできない。。。と、怒りと嘆きでストレスをためることになる。
しかし実際は、彼らも必死で仕事をやっているのだ。



確かに彼女が出来ないことで、私に仕事の負担が来る。ただでさえ私もトロイのに、彼女の分まで抱えるから、なおさら遅くなる。これまで以上に忙しくなった。何で私がここまでやらないといけないのだ?と、仕事の出来る人視点に立ちそうになる。
だがここでこそ、意識の実践をやらんでどーする!



起こってくる出来事は、すべて自分に何かの学びをうながしている。
この世を嘆く材料をあたえるために起こっているのではない。

この世の苦は目の前に起こっていることに抵抗するから苦しいのだ。
今あることすべてを肯定する。

私は今に集中した。今自分がやっていることだけに心をフォーカスさせた。
この時間までにこれを終らせて、あれを進めてと、ノルマのためにしょっちゅう気にしていた時間。

しかしいつも見ていた時計も見ず、未来を考えず、自我が騒ぐ声にも耳を傾けず、ただからだが動くままに動いた。

するとその世界が広がりはじめる。短かった時間がゆっくり動き出す。今が輝きはじめる。時間が消える。人々がやさしくなる。

新人さんはやりたくないと抵抗していたものを、自らやりはじめた。
「おお!やれば出来る子、YDK!」とほめたたえる。笑顔が広がる。



これまで私は自己嫌悪の塊、罪悪感の塊、自己否定の塊の人間だった。
その私が自分を徐々に赦しはじめた。あれもできなくてもいい。それもできなくてもいい。
あれも赦す、これも赦す。。。。
そうやって自分を赦していくうちに、人まで赦せるようになってきた。
赦すとは、自分自身をそのまま受け入れていく作業なのだろう。
ああしなければいけないとは、自分を受け入れていない、抵抗していることだったのだ。


この社会は、出来る人が基準になってものごとが動いている。出来て当り前。出来なかったらクズ!
それではあまりにも苦しい。
そんなに必死になってお金を稼がなきゃいけないのか?
そんなに必死になって売り上げを上げなきゃいけないのか?
その意味は何?

ほんとはみんな幸せになりたいだけじゃないのか?
その基準がお金?
お金持ちだから幸せ?あまりそんなふうにはみえないけど。
持っている人は、もっと持とうと必死じゃないか。
これエンドレスじゃね?

ああじゃいけない、こうじゃないといけない
という心の声に、私らは耳を傾け過ぎ。
その声に従って、私らは右往左往させられてきたんだ。

けどその声は、自分を破滅に向かわすだけ。


その声を、疑ってみる。



絵:似顔絵/河村たかし市長


2019年3月2日土曜日

思い込み段ボール箱



誰かに対する思い込みがある。
この人はこういう人って。
たいていは、あまりいい思い込みじゃない。
この人は短気だとか、アホだとか、どんくさいとかネガティブな思い込み。



心を観察していくことを重ねるうちに、自分の心のパターン、何に不安を感じているのか、何を怖がっているのかを知る。
そしてまた他人に対する思い込みも見つけはじめた。

知らないうちに、誰かのことをブツブツと考え、その思いの中に巻き込まれて時間がたっている。
心はどうにかしてそのだれかさんを変えてやろうとか、回避しようとか、考え続けている。



どうも思考は、何かしらその方法を考えついたら、解決できると思っている。小学校のころから叩き込まれた方法論だ。
問題を提示されて、答えを出す。それで一気解決♥

だが現実はどうだ。他人を「解決」させようたってムリだ。
他人をどうこねくり回しても消去できない。せいぜい自分が「逃げるが勝ち」「なかったことにする」ぐらいの、消極的な方法論しか出て来ない。



Aさんに対する思い込みがある。
それは過去に焦点が当てられている。過去Aさんがやってきたことを、だいじに抱え込んでいる私がいた。
Aさんという段ボール箱に、Aさんの過去がいっぱいつまっている。これは客観的なものではない。あくまでも私視点だけの過去の記憶だ。


それを一気に消去する。
だってえ〜。
Aさんっておもいだすだけで、自動的に自我さんは、Aさん段ボール箱を
「ハイハイ、これね」と、もってきてしまうのだから。
するとあれやこれやの思いと一緒に思考が次々と膨らむのだ。
それってたとえ目の前にAさんがいても、Aさんをあるがままには絶対見られない。

だから私はそのAさん関連の記憶がいっぱいつまった段ボール箱を目の前に持ってきて、
「はいっ!これは私の単なる思い込み。それを今までだいじに持っていた私を赦します。神さま、消去して下さい!」とやる。

するとふしぎなことに思いだせなくなる。Aさんが過去にやったこと。
えーと。なんだっけ?
それでも日常生活に支障はない。Aさん記憶がないからといってその人と関わっても困ることはなく、ことは淡々と起こっていく。



段ボール箱消去で何が起ったかというと、心の重荷が消えていく。他人に対する思惑が消えていく。ああ言われたけど、それって、どうなの?とか、ああ、今ごろあの人は私のことをうんぬん。。とか、スコーンと抜けているのだ。
これをやっていると、どんどん軽くなってきた。


自我の塊である私たちは、目の前にあるあらゆるものに名前を付け、解釈をくわえている。
目の前のパソコンには、パソコンという名前だけでなく、いろんなイメージをくっつけている。
すぐ壊れるもの、壊れたらお金はかかるし、やっかいやし、めんどくさいし、人に助けを求めんといかんし、捨ててしまいたくなるし、それでもこれがないと生きていけんし、、、、うんぬんかんぬん。。。

たった1つの物体に対してさえも、これだけの思い込みをかかえている。
コーヒーカップ、ストーブ、テーブル、木、、、それぞれにいっぱい過去の記憶をくっつけている。その色眼鏡で目の前のものを見ている。そして自動的に心はその記憶に揺さぶられている。
それが人となったら、もっとすごい観念や記憶の塊がある。道行く人には興味は示さないが、身内や職場や気になる人に関しては、巨大な思い込み/観念でいっぱいなはずだ。



あるがままに見るという言葉がある。言うは易し、行なうは難し。とてもじゃないが、あるがままになんか見ていない。記憶のメガネでしか見ていない。

だからやってみた。
他人への記憶の塊をここに出してきて、それを消去してもらう。
自分の目の前に出してくるのは、そこに光が当たるから。

はっきり言って、気持ちの良いモノではない。自分の醜い部分も見せつけられることになる。それでもそれがいちばん大事な部分。人は自分の醜いものを見たがらない。それを他人に渡して、それを見ると言うことをやっている。他人に嫌なものを見る時は、それが自分にあることを教えてくれている。この世は投影だといわれるゆえんはここにある。

だから私は自分の醜い部分をいっぱい見る。
最初は耐えられないが、そのうち笑えてくる。
どこまで残酷やねん!と。

そしてそれは、どこかで知っていた。
醜くありたい、残酷ってどういうものか知りたい、苦しみを味わいたい、
恐怖を味わいたい、不安ってどんなもんなんやろ?
それを知りたがっている私がいた。
それを他人を通して味わわさせてもらっていたのだ。



パソコンの中身を整理するように、
心の中身を整理していこう。

一個一個、自分を重くしていた思い込みを消去していこうとおもう。

思い込みって、
重いゴミなのよね(笑)。




絵/いちい