心だけが変わればよくって、現象は何も変えることないんす。
弁護士のおばちゃんであろうが、レジのおばちゃんであろうが、そんなんどっちであろうと何も問題はない。いちばん大事なのは、心の変化だけが真に求められていたことだったんだ。
目の前に展開する現象が気に入らないと、それを物理的に変えようとするよね。
一方で、こんな言葉がある。この世は鏡。
鏡に映った気に入らない自分の顔を、鏡をゴシゴシすることで気に入る顔にしようとしてもムダ。映っている元の顔をいじらんと、ブスはブスのまんまやろ?ってやつ。
これを心に置き換えてみる。
目の前に意地の悪ーいヤツがいる。(鏡に映った自分の考え)
そいつをどうにかして懲らしめてやろうとか、あんたのやっていることはまちがっている!と説教たれてやろうとか、あの手この手で策を練る。
(映った気に入らない鏡をゴシゴシ磨こうとする)
いっこうにあいては変わらない。(当り前や。鏡やもん)
悪戦苦闘の結果、あっ!なんや~、私の顔(心)が映ってただけやったんか。
と気づく。
物理的に映っているものと同じように、そっくりそのまんま、心も映し出される。
と、とってもシンプルな仕組みなんやけど、どっこいそうはいかない。
実際、鏡が前にあったら、「ああ、鏡に映っとるわい」と気がつくけど、目の前に鏡が置かれてない日々の生活は、「自分の考えが映っとるわい」とは思えないので、気に入らんダンナをヘーキで攻撃する「あほかー。このボケなすー!」と。
もしもし?自分の考えが映っとるんですでーと誰かがささやいても、原辰徳は怒り絶頂!このボケなすをどぎゃんせんといかん!と我を忘れる私。
これを何十年も繰り返してきた結果。
あん?これ、自分の考えやんけ。。。と、やーーーっと気がつく、このボケなすっ!
そーなんす。
私のダンナはボケなすだ、と思っているそのまんまが映っているだけなんす。
これに気がつくと、なんでかしらんが、ダンナはいきなりボケなすではなく、白馬に乗った王子様に、、、はならんけど、ボケなすではなくなる!
つまり。この世はうまいことできてて、
「あなたはこんな考えを持ってますよ~」
って、鏡に映して教えてくれてるだけなんす。
いやいや。ダンナのボケなす加減はああでこうで、だからこのようにボケなすで、、、、と、心はいうでありましょう。どんだけボケなすか、山のような立証がなされるでありましょう。わかりますわかります。私もそう思ってきましたから。
だからそれが映ってたんだよー、このボケなすーーーーっ!
おっと。おもわず叫んでしまいました。
こんなはなしを聞くと、
「じゃあ、私もダンナはボケなすじゃないとおもうことにしよう~」
となるんでしょうが、どっこい「フリ」はすぐバレます。
なんせ心ですから。
物理的に見えているものをごまかすのは得意です。
いい人ぶったり、親切に装ったり。
(身に覚えあるひとー!「はーい!」)
だけど心はバレバレです。自分の心はだませません。
まずは仕組みを知ることです。
外にあるものは結果です。結果を変えようとしても意味がありません。
その原因にもどらないと。
その原因とは、すなわち心、考え。
最初にダンナがボケなすだから、その考えが生まれたわけではなく、
最初に「あれ?こいつ、ひょっとしてボケなす?」っておもったところから、
ダンナがボケなすを演じてくれだしたのであります。
それに気づくように、日々ボケを演じてくれているダンナさんに感謝しましょう。