2015年10月11日日曜日

天狗がちょろまかした



先日、つじつまの合わないことがおこった。
と、ゆーと、なんだかとんでもないことが起こったみたいやな。
いやいやなんてーことないんやけど、でもよー考えたら、不思議やねん。

かごに入れた時は、5つだったものが、かごから出す時には、4つになっていたのだ。

は?
なんですか?それは。

どっかに落としたかと探したり、もともと入れてなかったのだと、いろんなことを確認したが、どこにもない。あたまの中で、入れた時の記憶を辿っても、確かに5つ入れた。しかしほんの1分移動しただけで、1個減っていたのだ。

これを友だちにゆーと、
「天狗だ!」とか
「いじわる好きな神さんが食ったのだ」とか、遊んでくれる(笑)。
確かにここは高尾だよ。天狗のすみかの、た・か・お。
だから天狗がちょろまかしたってのかい!セコい天狗やのお~。


私たちは、この世はつじつまが合う世界だと信じて疑わない。
1+1=2な世界なのだ。
だがほんとだろうか。数学も突き詰めていけば、1+1=2ではないらしい。
わしは方程式が好きだった。なぜかとゆーと、ひとつの法則で解くと、完全に答えが1つ出てくるからだ。
それって、ある意味、安心感がない?
はあ~っ、解けた!すっきり~っ!って。

けど、この世はそーはいかのしおからだっちょのふんどし。
つじつまのあわないことだらけ。

だからだろうか。人々はひたすら探求する。完全なるしあわせを求めて、完全なる安心感を求めて、法則を探す。
あそこの法則がすごい!と聞けば、行ってその先生にお伺いを立て、あの農法さえ使えば、完璧だ!とあちこちの農法にふんそーする。
あれさえ使えば、完璧に儲かる。あの方法さえ身につければ、完璧な作品しか生み出さない。あの宗教の教えに入れば、完璧なしあわせが手に入る。。。。

だが実際は、そんなもんどこにもない。探求し続けて、明け暮れて、見つけられなくて、あっちの法則、こっちの法則へと転々と移動するのがオチじゃなかったか。
事実、やまんばだって、自然農、自然農法、たんじゅん農法、自然栽培、。。。と転々として来た。どっかにバッチリあう農法があるはずだ!と。でも結局、外になんかみつからなかった。



んで、最初の話。
このじじつに、やまんばはリンゴから手をはなせばリンゴは地面に向かって落ちる、とゆーほどの、あたり前の法則の、崩壊の断片を見た気がしたんだ。
これは、なにかを教えてないか。。。?と。

リンゴはほんとは手をはなしても地面に落ちないのかも知れない。5はときどき、4になったりするのかもしれない。
もし1+1が、数字上では2なのに、実際にリンゴを数えてみたら、3個になってたり、8個になってたりしてたら、この世の数学は変わっているだろう。

そうなったら、とてもじゃないが、人は安心できない。
8時までに出社しなければいけないのに、時間が逆行してたらどーなる!?もしくは、8時の次が、11時だったらどーする!?

いや、そもそもこの世がそんな状態だったら、今の数学も時計もないだろう。そしてそもそも、そこに安心感などもたないだろう。
「時間にあわせる?なにそれ?」
「お金?ああ、減ったり、増えたりするもんよ」

絶対的な法則がある!とおもっているのは、
「絶対的な法則があってくれなくちゃ困る!」
とゆー、心理状態が生み出した、「おとぎばなし」だったりしてね(笑)。


ちゃんちゃん。

(って、どこに落としたんだよ!)

絵」「大天狗」オリジナル


2015年10月6日火曜日

やまんばの白髪





54歳のやまんばは、口紅はおろか、化粧品一個ももってない。石けん使わないので、顔がパサつかないから、化粧水も、クリームももってない。
石けんなし生活の髪は染めてもない。まるっきしの、天然そのまんま。

このごろ友だちが、髪を染めるのが面倒になったといっていた。染めるって、けっこう面倒なようだ。

先日もしばらく会っていなかった同い年の女性が、あたまが真っ白になっているのを見てビックリした。彼女、あんなに白髪があったんだ。ずっと染めていたのだ。しらなかったなあ~。
その日はどこかのお葬式の帰りだったようだったが、喪服姿に8割白髪。すっぴんに、うっすら紅を引いただけの彼女は、どこか色っぽかった。

人は「べき」にずっととらわれて生きているんだけど、特に年がいってくると、女の人はけっこう不自由だなあ~とおもう。

化粧はするべき。
髪は染めるべき。
料理はするべき。
やせるべき。
ジムには行くべき。
健康管理はするべき。
体にいいものを食べるべき。
習い事はするべき。
親の面倒は見るべき。
子どもの面倒は見るべき。
家の掃除はするべき。
洗濯はするべき。
電気はこまめに消すべき。
ゴミはできるだけ少なくするべき。
ご近所さんとは波風立てないようにするべき。
みんなが見て「正しい」ことをするべき。

近所のおばちゃんとはなしをしても、あれをしなきゃ、これをしなきゃ、と言う話でもりあがる。美容院行かなきゃ、病院行かなきゃ、ジムに行かなきゃ、孫の面倒見なきゃ。。。

なんか、強迫観念のように、やまんばに訴えてくる。
まるで、「私、これやっているからいいでしょ?オッケーでしょ?大丈夫でしょ?」って、同意を求められているみたいだ。

もちろん、いいよ。おっけーだよ。
でもねえ。いつまでも人に同意を求めてるってことは、
ずーーーーっと、人の目を気にして生き続けることになるよ。
ずーーーーっと、ありもしない架空のモノサシで、自分をはかり続け、心が落ち着かないまんまなのだよ。

つまり、自分で自分が認められないのだ。自分がこれでいい、と心底思えないからだ。だからつねに外のなにかと比べてオッケーか、オッケーじゃないかをはかり続けるんだ。

それほど、自分で自分を認めることは、相当難しい。
やまんばだって、ここに来てやっとそのことを、はっきりわかり始めたところなんだもん。
とてもじゃないが、
「あら、勝手に出来ちゃった」
なんて自然にいかないんやろな。(笑)


絵:「水仙ちゃん」:越前茶ペットボトルのキャラクター

2015年10月3日土曜日

苦しみの中にくつろいでみる




わたしたちは、「ねばならない」というものにとこかこまれている。

痛いのは取り除かなければならない。
苦しみは取り除かなければならない。

人は苦しいと、それに抵抗する。
人は痛いと、それに抵抗する。

でもそれに抵抗すればするほど、痛みは増す。
苦しみに抵抗すればするほど、苦しみは増す。

なぜ抵抗するのか。
それは、痛いことは悪いことだとしているから。
苦しいことは悪いことだとしているから。

確かに痛いことは、「死」と言う恐怖に結びついているから、カラダは自然と守ろうとする。それは大事なことだ。痛みから来る恐怖がないと、人はアクセル踏みっぱなしで、ドンドン死んでいくだろう。

だが私たちのほとんどは、その瞬間の肉体的恐怖ではなく、過去や未来を想定することによる観念的な恐怖のなかにいることがほとんどではないだろうか。


やまんばは、痛みを感じるとき、痛みの中にくつろいでみる。
この痛みはどんな痛み?
おお、こんなかんじか。おお~、ググ~っとねじれる感じか。
おおおお~~~っ。。。

痛みは抵抗するよりも、受け入れる方が、和らぐのを知る。
そしていつのまにか消えていく。
肉体の中にひそむ叡智を感じる。なぜ痛みを与えているのか。
それさえも、素晴らしい教えなのではないだろうか。


やまんばは苦しさを感じるとき、苦しさの中にくつろいでみる。
この苦しさはどんな苦しさ?
。。。胸になにかがある。
どんなものが?
そう、、ねえ。。しいて言えば、ありとあらゆる色の、いろんなカタチの考えが、バラバラに飛び交っている感じ。。。。
それはどんな色をしている?
それはどんな柄をしている?
そうねえ。そうねえ。これは市松模様で、これは、ゴブラン織りみたいな。。。

そんなふうに感じるものを実況中継しているあいだに、その苦しさは、いつのまにかべつのものを立ち上げてくる。

ああ、こんな観念があるから苦しかったんだ。。。
ああ、そんなものは苦しさを生むだけで、必要なかったものだったんだ。。。

そんな気づきにおどろかされる。

苦しさに抵抗するのではなく、苦しさを素直に味わってみる。
ただそれだけで、なにかがほどけていく。


絵:「witch」オリジナル
美しい魔女を描いてみたかったんだあ〜。