2020年4月26日日曜日

今この瞬間に





私たちは急ぎすぎた気がする。
ここにきて、いろんなことがストップをかけられている。
それはこの文明に、一旦落ち着こうとメッセージをくれているかのように。




庭で石の上にすわって、朝日に当たる植物たちを眺める。
見上げると、庭の木の背後に青い空が広がっている。爽やかな風が頬をなでる。
その中にいることがとても心地よく感じる。

以前はそんな中にいても、あれをしなければ、それがまだ終わっていない、、、
と、心はここになく、
頭の中のあれこれに心を奪われていた。

なんともったいないことをしていたんだろう。
今ここにあるものをそのまま受け取らず、
今ここにないものばかりに囚われていた。
そしてそれをゲットしても、また「はい次!」と、ここにはないものを求め続けていた。



それは今あるものをドブに捨てているようなもんだ。
あるものは当たり前に感じ、ないものをゲットすることが大事。
そんなものの考え方に囚われ続けていたんだ。



今この瞬間に、何も問題はない。
心だけが問題を探す。
ここには何もないと思わせる自我の策略にはまっていただけだ。


目の前にある美しさに心を打たれ、
それを引き金に元々あった喜びの中に還っていく。

喜びの中に、私はすでにいた。



2020年4月19日日曜日

なんもわからん





なんもわからん。

そんな言葉が頭の中で響く。

そうか。私はなんもわかってなかったんだ。
そう思うと、ふ~っと肩の荷が降りてくる。



わかっているはずだと思っているから、それを解決せねばならないと思ってた。

そもそもこの世の中にわかっていることあるか?と、疑問に思ってみると、見渡せば、なーんもわかってないじゃん。

なんで太陽があって地球があるのかわからないし、なんでおひさんは西から昇って、東に沈まないのか。なんで日本語がこうなのか。なんで男と女がいるのか。なんで死ぬのか。なんで生まれるのか。

コロナのことも、日に日に言うことが違うし、思いっきり気をつけている人が感染するし。
感染回避方法が絶対的ではないことも証明してくれる。

かかるかかからないかは、その人次第って言われると、もう何もやりようがない。

いやいやそもそも、私たちは「わかってるはずだ」と言うことを前提に考えている。わかっているはずだから、きっと答えがあるはずだと。

だから感染したらどこか後ろめたい。
「わかっているはずなのに、私はそれを防げなかった。。」
と、ただでさえ体がキツイのに、さらに罪の意識さえ感じてしまう。
それってどおよ。

小学校の答え合わせのように、必ず答えがあるはずだ!と、答えばっかりを探してきた。
あれから50年。(きみまろ風)
中高年の私にゃ、サーパリ答えが見つからなかった!




だから冒頭の言葉。

なんもわからん。

「わかってる」前提でこの世を生きるから、苦しかったんだ。

「わかってない」を前提にしてみたら?


わかってないから、回避のしようもないが、そもそもそれがなんなのかわかってないのだから、感染するもしないもそれがどう動いて、どう出会って、そうなったのかもわからないのだ。。



どう「やるか」ってことを要求されて、ずっとやってきたけど、
ここにきて、「なんもするな」と言われている。

やることに慣れてきたわたしらは、しないことに慣れていない。すると自動的に心がわさわさする。
そのわさわさする心をどう持っていくか、ということにフォーカスしてみるのもいいもんだ。

サーパリわからないことを、わからないとして、そのまんまにしておく。
大きなものに委ねて、のんびりと生きる。


朝日のかけらが雨上がりの葉っぱの上に落ちて、きらきらひかる。
眩しさに目を細めるこの瞬間に心を乗っける。

ちっちゃい頃、こんな感じだった。
そうだ。ずっと綺麗なものを眺めては嬉しがっていたんだった。
あの頃の心は、今もここにある。

何も知らなかったけど、
包み込むような大きなものは、今もここにある。


2020年4月7日火曜日

高尾の蜜




私の散歩コースには、たくさんの物語が潜んでいる。
また新たな物語が展開した。


コースの途中に梅林がある。そこは人が滅多に入らない場所。こっそり入っていって、オオイヌノフグリを芝生がわりに、靴を脱いでしばし大の字になって寝る。今年の梅はよく香った。甘酸っぱい匂いに包まれながら、極楽を味わう場所だった。

梅の花もほとんど散ったある日、見慣れない光景に出会う。箱だ。私が寝ていた場所に、大量の縦長の箱がそこかしこに並べてある。そーっと近づくと、ブンブンと音がする。縦長の箱の下の方にある小さな穴から大量の虫が出たり入ったりしていた。
「ミツバチだ!」

それからまもなくして、道で例の箱をいじっているお兄さんを見かける。
「あれはなんですか?」
「ニホンミツバチです」
「へ~。あれがニホンミツバチ!」
初めて出会う養蜂家の方にちょっと興奮した。

ニホンミツバチとセイヨウミツバチはまるで違うらしい。いわば前者は野生で、後者は家畜。彼は野生のニホンミツバチを育て、増やしていったそうだ。なかなか難しいらしい。しかも蜂蜜の取れる量はセイヨウミツバチのそれに比べてほんのわずか。とてもじゃないがそれで生計は立てられないらしい。

「そんな生業にならないものを、なんでわざわざ?」
「。。。可愛いから。。。」
そのはにかんだ、嬉しそうな顔に、彼のニホンミツバチへの愛を感じた。

「手を突っ込んでも刺さないよ」
「え~~~」
おそるおそる群の中に指を入れる。そこに人の手があることを気にとめてもいない様子の彼ら。相変わらず忙しく働く。少しだけ触れた彼らの感触に、ほんのりこそばくて愛くるしさを感じた。
「こんなに無抵抗でいていいのかって思うくらい」と楽しそう。
それでも冬は気が立っているらしく危ないらしい。
でも分峰する頃のこの時期の彼らは大丈夫なのだそう。


人にはほぼ無害だが、スズメバチには容赦しないらしい。大きなスズメバチを大勢で囲み、熱を浴びせて殺すのだそう。この日本で長い年月を過ごして生き抜いてきた彼らの知恵なのだ。熱を浴びせてという攻撃の仕方が、なんか気に入った。
一方セイヨウミツバチは一人で戦い、散っていくという。まだ外来種ゆえにその知恵がないのだろうか。

セイヨウミツバチは、一種類の花の花粉を採取するだけだが、ニホンミツバチは、だいたい2キロ圏内の花という花を渡って花粉を採取する。だから百花蜜。なんだか素敵な響き。

お兄さんは、どこに彼らを設置するか、周りの環境を見て決めるのだそう。畑の近くには置かないそうだ。農薬でミツバチがやられるから。
その土地の植生の様子で、どんな味の蜜が取れるかわかるのだそうだ。それを見極めて設置する。すごい。


後日、彼の蜂蜜を買う。
セイヨウミツバチの蜂蜜と一緒に売っていたが、その値段の違いがすごい。高い!
以前母に高知から送ってもらっていた高価な蜂蜜の比ではなかった。ちょっとビビりながら買う。

ひつ口食べてびっくりする。
口の中に複雑な味わいが後から後からあふれてきて、最後にほんのり酸味を感じる。まさに百種類の花の味がする。深い深い味わいだった。
私が住んでいるこの高尾に咲く花を採取して作られた蜂蜜だと思うと、なおさら感慨深くなるのであった。

「この仕事やりだしてから、風邪ひかないよ」とお兄さん。
ニホンミツバチの蜂蜜は、なんちゃらかんちゃらというものが、なんちゃらかんちゃらで、、、。
まあ、早い話がその栄養価は相当高いそうだ(思いっきりはしょりました)。




昨日スタバでサンドイッチを買って、ダンナと二人そこに行くと、お兄さんにまた出会った。
初めて出会った養蜂家の彼に、ダンナは彼の蜂蜜の美味しさを、アランデュカスのチョコレートに匹敵する!と、褒め称えた。蜂蜜の味と、彼の真摯なたたずまいが繋がって、心打たれたようだ。

ブンブンと大量のハチが乱舞する中で食べたサンドイッチは、幸せな味がした。あのブンブンという音は、心のどこかを動かすようだ。お兄さんはこの音をいつもきいているのだなあ。


夕方、庭に咲くルッコラの花に、足に大量の花粉をつけたミツバチが忙しく動き回っていた。
きっとお兄さんのところのミツバチだろう。
今年の秋にはまた新たな蜂蜜ができる。
蜂蜜に変化したうちのルッコラの花を味わえるかも。。と思うと心踊る。





2020年4月3日金曜日

夢を見ているもの





入学式の当日、ドキドキしなかった?

何もかもが新しく未知。知らないことばかり。
知らない先生、知らないクラスメイト、知らない教室、、、。

その時の心の置き場のなさ、不安な気持ち、ここがどこかわからないという心細さ。

そういう感覚が、朝起きた時、時々ある。
知ってはいるが、どこかよそ事。

それに気づいた時、「はっ!いかんいかん!ここに戻らなければ!」
と、ブルブルっと体を震わせて、この世界に戻る。
そうしていつもの感覚に戻り、今日何をやるのかを思い出す。


今朝もその感覚で起きた。
心細さから、いつもの感覚に戻ろうとした時、
「あれ?この感じ、小さい時なかった?」って思い出した。

全てが希薄で、ここに住んでいる感じがしなくて、ただ目の前に起こっていくことをそのままに眺めてる。。。。


これが「夢をみているもの」の視点だったんじゃないだろうか。
それがある時「ぼーっとするな!」という言葉とともに、
「夢を見ているもの」の位置から、「夢の主人公」になりきる。

私は自分が肉体に入った瞬間を感じたことがあるけど、それは恐れがきっかけだった。

この世界で生きるには、この肉体にちゃんと入ってないといけない。そうでなければこの世界を渡り歩いていけない!と思い、入りたい入りたいと思い続けた。そしてある日、ピタッと入った。それは私が「夢の中の主人公」になった瞬間であったのだ。

「この感じのままいてみよう。。。」
そう思って起きた。
しかし徐々にその感覚は消えていき、いつもの「ここにいる」感覚になった。




胸の奥にある喜びを発見してから、意図的にそれを意識するようになっている。
不快感を感じた時、気がつけば頭の中は言葉でいっぱい。そんな時こそ、胸の奥に焦点を合わせる。

その中は大きな空間が広がっている。
何もないそこには、何もない。
だけど何かがあった。
それが喜びだった。

それを教えてくれたのは、ハレルヤさんという謎の人物だった。
何年か前にチラッチラッとSNSでお見かけしていたが、そのうち見かけなくなった。そしてつい最近彼を「発見」した。去年からまた活動を始めたという。

彼が教えてくれる世界は、とてもじゃないが言葉で言い表せない。抽象の、そのまた抽象の世界を、私に畳み掛けるように教えてくる。
今まで具象の世界にのみ焦点を当ててきた絵描きの私。「抽象絵画など具象だ。抽象ではない」と言い放つ彼。具象こそがこの世界の特徴だったのだ。

彼は一見誰もが知っている言葉を使うが、使い方が全く違う。その意味不明な言葉の海に沈んでいきながら、徐々に海の底から浮上してくる何かを私は次第に捉え始めていた。

一般的に知識とは、言葉で書かれたものをそのまま読むだけでわかる。
しかし彼のそれは、体験しなければわからない。それが本当の「理解する」ということだった。

朝の「ここにいない体験」は、私に昔の心の状態を思い出させてくれてる。
そして胸の奥にある喜びは、
「そうだ。昔ずっと持っていたものだ!」と確信させてくる。


私たちはいつの間にか、目の前に見えるものを通して喜びを感じるようになっていった。だから人は幸せになろうとするとき、常に何かをしようとしたり、見ようとしたりする。しかしそれが消えればまた不幸せがやってくる。だから人はいつも何かをしようとしたり、場合によっては消そうとしたりする。これさえなくなれば私は幸せになれるはずだと。
これは先日の私のブログにも書いた。


しかし思い出したその喜びは、何も必要としない。
何も見ても見なくても、何をしてもしなくても、ただそこにあった。
幼い私はその喜びをいつも胸に抱えていた。その喜びとともにいた。

彼の言葉は私を罪悪感の檻から出させてくれた。
「開いてるよ、そのドア」
「へ?開いてるの?」
「見てごらんよ、開いてるじゃない」

よく見たら、檻さえなかった。
私がそこに檻があると信じ込んでいただけだったのだ。

裏高尾の満開の山桜が最後の美しさを見せようと、その花びらを舞い踊らせていた。

心が膨らんでいく。





絵:山桜/和紙