近所で楽しくのんべして帰ってくると、ダンナはもう寝ていた。
心が罪悪感でちくちくする。
やばい。怒ってるかな。早く帰るって言っちゃったのに。なんと心が弱い。。。意志力のないヤツ。。。
ふとんにもぐりこんでも罪悪感はうごく。
いけない。こうしなきゃいけなかったんだ。ああ、わしってばか。もうこんりんざい酒はヤメだ!とおおさわぎ。あげくに自分の全否定にまで発展する。寝ても覚めても罪悪感と自己嫌悪のオンパレード。それがきつくなると、今度は言い訳の正当化が始まる。気が狂いそーになる。
一体誰にやっているのだ!?
やまんばはおもいだした。
むかーしむかし。あるところに遊び好きのやんちゃな女の子がいた。あっちこっちと飛びあそんでは、家に帰るのが日の暮れ。決められた時間にいつも遅れる。するととーちゃんが玄関に仁王立ちして待っているのだ。どやされること山のごとし。その度「ごめんなさあ~い!」と本気であやまるのだが、次の日になると、けろっと忘れている。そんなもんだから、まいど玄関でどやされたのだ。
やまんばは、そのときの経験から「遊び歩くとどやされる」という法則をインプットした。厳密に言うと、「遊ぶ」→「時間に遅れる」→「おこられる」という法則。
遊ぶとどやされる。しかしゆいいつ、どやされることを免れるルールが「時間厳守」である。しかし根っからの快楽主義がやっぱりそれを守れない。だから守らなかったわしがイケナイのだあ~~~っ!あの時守ってさえいればあ~!と、おおさわぎする。
さて、問題は時間厳守だろうか。酒飲むことだろうか。
どっちでもない。
その法則によって「心が罪悪感を感じ、正当化しようとし、おおさわぎすること」なのだ。
いったい自分の正当化は誰にやっているのか。父親か?母親か?それとも自分にか?
誰にやったところで何も解決しない。
酒を飲むのをやめるか、時間を厳守することで解決するじゃないか。いーや。それは一つの法則に対する解決でしかない。他にごまんとある個人的な法則のいちいちに対処して、そして「いつかは理想的な人格者~!」になれるのだろうか。
近所に精神病院がある。患者さんがよく道を歩いている。彼らの顔を見ると、心の中が不安やおびえや罪悪感やいろんな意識によって満たされているのが分る。心の中で自分の法則に対して対処しようと必死だ。だが満たされない。その怯えが彼らの雰囲気を作っている。だけど、彼らとやまんばはどこが違うのだ?やまんばも同じように自分でつくった法則に対処しようとしていつも失敗ばかりする!
やまんばは小さい時つくった自分の法則に、ばばあになったいまでも振り回されているのだ。いまでもその法則は、効き目があると信じて疑わないのだ。
それに効き目があるのだろうか。
じつは、もうない。
もう期限切れの腐ったチーズだ。チーズは腐ってもうまい。(←かんけーないやろ)
人はあらゆる法則をもっている。これにひたすら苦しめられる。
小さい時身につけた法則はすべて期限切れだ。いい大人になって使う必要はないのだ。すでにこの世の「ふるまい」を身につけたからだ。
だがその法則をもっていることに気がつかないで無意識にそれを使っている限り、ずっと心は苦しめられている。なぜ?
いつも同じようなことで苦しんでない?
自分のいたらなさに嫌気がささない?
それは小さい時、親に言われた言葉が「まだ効果がある」と信じて疑わないからじゃないか。
「おまえはあきっぽい」といわれなかった?
「だからだめなんだ」といわれなかった?
「おまえはのろまだ」といわれなかった?
お兄ちゃんと比べられなかったか?そしてつねに誰かと自分を比べて
「やっぱりおれはだめなんだ」と、ふと考えてない?
それをしていて苦しくはない?
やまんばは、あの夜気がついた。
「これ、ずっとやってる。。。。」
友だちのウチでも「早く帰んないと。。。」といってる。失礼なやつだ。
そういいながら長居する(もっと失礼だ)。んで、家に帰って自己嫌悪する。(ちょー失礼じゃないかー!ごめんよー!)
これを繰り返している。
きみ、ばかじゃないの。
小さい時親に言われたことを、ばばあになってもずっともってやっている自分にちょーーーーーはずかしくなった。夜中に一人で顔が真っ赤になった。自分の恥ずかしさをどこへもっていっていーのかわからなくなった。
朝、あやまった。
「きのうはおそくなってごめん。怒った?」
ダンナは、なんで?という顔をしていた。
彼はぜんぜん気にしてない。
全く効き目のない「法則」で、おおさわぎしてばたばたしていたのだ。
やまんばの完全一人芝居であった。撃沈。
こーやって自分で積み上げたかべを、ひとつひとつ自分で崩していく日々である。
君はやまんばが笑えるか。(人にふるな)