ことばには、二極分化されるものがある。
寒い暖かい。長い短い。明るい暗い。重い軽い。遅い速い。低い高いなど。
その言葉に、ひそかに人はそれぞれに「いい、悪い」という判断をしのばせている。
心はその言葉を聞くたびに「これはわるいこと」とか「いいこと」というおもいと一緒に、小さな感情をわき上がらせる。
「今日は寒いわねえ」と言うと、
「カラダ暖かくしなきゃ」とおもう。
「これ、寸法が短いわ」といわれると
「長くなきゃいけなかったんだ」とおもう。
「あいつ暗いよね」と誰かが言うと
「やっぱ性格は明るくなきゃ」とおもう。
「あ、体重が重くなった」と思うと
「げ、軽くしないとやばい」とビビる。
「遅いわねえ」といわれると、
「はやくしなきゃ」とあせる。
「体重が重い」という事実がある。その「重い」は、何かの比較によって生まれる。
「寸法が短い」と言う。その「短い」は何かとの比較によって生まれる。
「部屋が暗い」と言う。「暗い」は何かとの比較によって生まれる。
ただ比較によって「重い」という事実があるだけなのに、思考は即座に「軽くしなきゃ!」と思い始める。それは重い=わるい、というアイディアが盛り込まれているからだ。べつに重い=いいこと、となってもいいし、遅い=いいこと、となってもいいじゃないか。
だけどたいていは、なんだか「悪い」という方向に落ち着いている。
これはことばの内容うんぬんというよりも、どうも「いいこと」と「わるいこと」に分類することに重点が置かれているようだ。
ほんでもってその「悪い」ということに、わしらはそーとー翻弄されている。(もちろん「イケナイ」もそうだ)
なにかについて「わるいこと」といわれると、そくざに反対のことをしようとしないか?
なにかについて「いいこと」とおそわると、その反対のことをする人を非難しないか?
心は「いいこと」でも「わるいこと」でもない、中間にはいたがらない。
善悪のどちらかにつきたがる。
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