困ったときはそのままにしておけ。
これは自然農の川口さんの言葉だ。この言葉にやまんばは何度も救われた。畑をやっている間に、何度もやって来た難問。サルにくわれる、イノシシにやられる、虫にくわれる、ちっとも育たない野菜、農法をあの手この手を使って変えて四苦八苦し、あげくにどんどんどこへ向かっているのか分らなくなってボーゼンとする。。。
そんなとき、ふと思い出すあの言葉「こまったときはそのままにしておけ」
やまんばは、どーしようもなく「そのまま」にしておいた。
するとそのまんまでことが進行していく。何もなかったかのように、畑は変化していった。そのうちサルはいなくなる、イノシシは来なくなる、虫はくわなくなる、野菜は静かに育ち出す。。。。
やまんばは何かしたのか?なにもしていない。ただ日々やることを淡々とやっていただけだ。あのとき「問題だあ~~~~っ!」っちゅうて、パニクっていた自分があほらしくなる。
なにもしていないのだ。その「問題」にたいして、なにも。。。
これはいったいどーゆーことだ?
人は何か問題を見つけたとき、その何かを解決するために、何かをしようとする。
パニクったとき、
「どうしよう~~~~っ!」って、思わず言葉が出る。
あれは単に感嘆詞のようなもんだとおもっていた。「きゃ~~~~っ!」みたいな。だけどよくその言葉をみてみると、「どう、しよう」といっている。
な?「どうにかしよう」と言っているのだ。
つまり、何か問題が起きたとき、人はその「問題」に対して、何かしようとしている思いが、言葉になって現れているのだ。
何かして、どうにかして、つまり行動を起こして解決しなければいけないと心底思っているのだ。
なんでや?
これ、心が落ち着いていられないからなんではないか?
足が地に着かないというか、お尻に火がついたというか、その場でいても立ってもいられない気分になる。んで、衝動的になにかをしようとするんではないんだろうか。で、その言葉が「どうしよう~~~~っ」
慌てふためいてどーにかこーにかやる。だけどどうやってもうまくいかない。そのうち頭ん中がぐちゃぐちゃになって、ぼーぜんじしつして、へたりこんでほけーっとなったとき、「あ”?」ちゅうて突然いいアイディアが浮かんだりする。
困ったときはそのままにしておけ、は「ありのままでいる」と言うことと同じ意味なんではないか?
「困る」ことは、その状態を「問題」ととらえるから困るのだ。だけどそれが私にとって必要なこととしてやって来ているとするならば、それのどこが問題なんであろうか。その「問題」を解決させるためにあるんだろうか。その「問題」を消すためにあるんだろうか。ならばどうして何もしないのに畑は粛々と進んでいくのだ?何もしないのに「問題」は消えていくのだ?
そもそも「問題」とはほんとうにあったのだろうか。
私たちの視点から、勝手に「問題」だといっているのかもしれない。サルにとってはトウモロコシを食べることは問題ではない。うほうほだ。虫にとって双葉を食べることも問題ではない。野菜が育たないことだって、「今はその状態(畑)で育つ意味ないし~」って言ってるのかもしれない。
私たちはいつもありのままの状態でいられない。なぜなら心はいつも「あれはよくない」「それはまちがっている」と非難や批判でいっぱいになっているからだ。
それを回避するためにあの手この手を使う。だが解決とよんでいるものは「対処療法」でしかないものが多い。そういうものはそのうちどこかにひずみを作っていく。それが今の社会に見え隠れしている。
困ったときはそのままにしておけ。
ありのままでいる。
これ、思考を使うなっていってな~い?
下手な思考休むに似たり。。。ってか?(そのままやがな)