ダンシャリで考える。
やまんばは過去のものをいっぱい持っている。過去よく着ていた服とか、過去よく使っていた食器とか、過去よく読んだ本とか。だが今のやまんばは、もうその服は着なかったり、その食器は使わなかったり、その本はもう読まなかったりする。
ダンシャリの著者さんはいう。
この歴史はじまって以来、人類がこれほど個人がモノを持った時代はあっただろうかと。なるほど。お江戸のお殿さんでさえ持っていなかったものをわしら現代人は持っている(金銀財宝は別にして)。で、一般庶民は着た切りすずめだった。
その長い歴史のモノへのあこがれが(執着心といおうか)、まさに満たされた時代が今なんではなかろうか。大昔はそもそもモノがないので、備蓄という事ができなかった。あるときにはここぞとばかりためこむことが、生死を左右する大事な行為であった。その記憶がやまんばにはあるようだ。ためこんでためこんでためこんで、押し入れの中に詰め込めるだけ詰め込んでぴしゃりとふすまを閉め、その前でお茶を飲んでほっこりしている。でもよく考えたらこれは便秘ではないのか?
ダンシャリアンは言う。モノは循環させないとヘドロになる。
リスは自分でとってきたドングリを土の中に隠す。だが隠した本人がどこだったか忘れる。やがて土に埋もれたドングリは芽を出す。そうやって自然界は循環をしている。
やまんばが溜め込んだドングリは、押し入れの中でやがて芽を出すのだろうか。男おいどんのサルマタケのように。
で。。。出ない。出ても食いたくない。
そうなのだ。やまんばが溜め込んだ過去のモノは決して自然循環しないのだ。畑は自然循環している。やまんばのからだも自然循環している(ありがたいことに)。だがやまんばの過去は自然循環しないのだ!こりゃー自分でやらんといかんのだ。
少なくとも日本人は過去にこーんなに物持ちになった経験がない。だから今までの方法論のままに、「あった時に溜め込む」という手法を使う。一度オイルショックを味わった人ならなおさらのこと。それが今飽和状態になっているんではなかろうか。今わしらが学ぶのは、捨てる方法論ではなかろうか。捨てると書くと「もったいないお化け」に襲われそーだが、じゃあ、循環させるっちゅーのんはどうだ?
ダンシャリアンはいう。
川の下流にながすと。
一見「何だ。上から目線じゃん」っておもってしまうが、これは自然の摂理だ。雨は上から降ってきて、山に落ちる。山から土の中を通って川に行く。川から海に流れてやがてその水は雲に変わって、また山に雨を落とすのだ。
江戸っ子は「宵越しの金は持たねえ」というが、あれはいきがっていると思われているけれど、どうもまた別の考えがあるようだ。お金は一所に留まらさせてはいけないという考えがあったようだ。今はものすごい量のお金があるので、どこぞの誰かがしこたま貯め込んでも体勢に影響はない。しかしもしこれが、ある村に10万円しかなかったとしよう。するとそのお金は誰かが溜め込むと、他の誰かが困るのだ。だから「宵越しの金は持たねえ」。さっさと次の人に流していくのだ。
さっきやまんばの本が出て行った。
過去に思い入れをした本ばかりだ。じつはいわゆる循環、つまり図書館への寄付や古本屋に渡すという事をしなかった。どう循環させるか迷いに迷った。彼らをモノとしてあつかいたくなかった。
彼らはやまんばの心の図書館に寄贈された。
絵:「10分あれば書店に行きなさい」MF新書表紙イラスト
まさに、本屋さんは宝の山!
思い出すなあ、高知の大橋通り近くの大好きな本屋さん。地下一階にあって、天井高く本がぎっしり。床も壁もぜんぶ木で作られて、オイルステンのにおいがあたりをみたして、歩くとギシギシ音がするあの本屋さん。。。今はもう昔のものがたり。。。
絵:「10分あれば書店に行きなさい」MF新書表紙イラスト
まさに、本屋さんは宝の山!
思い出すなあ、高知の大橋通り近くの大好きな本屋さん。地下一階にあって、天井高く本がぎっしり。床も壁もぜんぶ木で作られて、オイルステンのにおいがあたりをみたして、歩くとギシギシ音がするあの本屋さん。。。今はもう昔のものがたり。。。
6 件のコメント:
概ね合意。だけど「宵越しの金は持たねえ」
に関しては、使って女房から厳しく言われて
夜「すまねぇ・・かぁちゃん・・」って謝っ
てたおやじが相当数いたはず・・。きっと。
そりゃー、そーとーいただろうなあ(笑)。
新聞にイラストのご本の宣伝みかけました。
捨てなければ。
断捨離本読んで一年はたっていますが、
いまだスタートできてません(汗)
たまに高尾女子(^^)より
たまに高尾女子さま
いらっしゃいませ〜。
「捨てたい!」
と、からだが勝手にうごいた時がグッドタイミング。
きっとまだなんですよ、そのタイミング。
「。。。しなければいけない」ものなんて、ないのだあー。
ダンシャリ・・いいとこは認めるけど、
もったいな教の古い日本人からしてみると、
従えない何かがあるんです・・・。
戦後、もったいな教徒が、宗派変えせずに
アメリカ流の大量消費文化に毒された結果が
今に至る。っと思います。
アメリカ人飯は無駄にするけど、結構ケチ
だと思います。日本でも、もう買わないぞ!
教育が必要と思います!!
あ??そうすると、日本の経済が・・・・・
どうちよ・・・
うまいっ。
戦後、もったいな教の信者が、宗派変えずにアメリカ大量消費教にも入っちゃったんだあ。
あるある。日本人なんか特に何でも信じちゃうからねえ(わしだけか?)。高尾山にもいろんな宗派がごちゃ混ぜだし。あれは日本人のおおらかさを現している。
んで、しらないあいだに自分の中に矛盾を抱えている。
買わないと消費文化を支えられないし、経済が動かんし。
ああ、どーしよー。
ダンシャリはその矛盾を一回自分の中でサラにしてみようと思う人にはおあつらえ向きな方法だと思ったわけさー。
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