2013年1月31日木曜日

やまんばのいいかげん食事



やまんばはあんまり食べ物にはこだわらない。
心がぎくしゃくするから。

あれは食べてはいけない、これも危険だからいけない、なんて言うと、おいしく食べられなくなるから。

ほんとは昔、マクロビもかじったし、ベジタリアンの世界も覗いてみた。漢方薬にもはまってた。そして小食の世界には、ずいぶん前に長いことはまってた。

そういう食事療法をやっていると、「いけない食べ物」というのが必ず出てくる。
「危険な食べ物」や「危険な添加物」。
甘いものが食べたい。。とおもうと、即座に「砂糖は危険」という言葉が浮かぶ。するとそれに触発されるかのように、肥満、ひえ、糖尿病、通風、成人病、癌。。。。と、次々と連想ゲームが始まる。

ひえ~、やばいやばい。
お砂糖はやめとこう。でも甘いもんが食べたい。。。

さつまいもにしよう。そうだ、干し柿にしよう、レーズンでもいいな。。。と自分に言い聞かせる。
でも、ダメだといわれればいわれるほど(自分で言ってるだけなんだが)、ますますショートケーキや大福が食いたくなってくる。
カップヌードルがどんだけ危険か、耳にイカができるほど聞いた(タコだろ)。
酒はどんだけ人格を破壊するか。。。
いやいや、ほどほどがいいのだよ、というが。。。。

ほどほどって、どこらへんを言うのだあーっ!

そーやってあれが食いたい、それはダメだ。いや、ちいとならいいだろう、なんて言い聞かせていると、心の中のもう一人が、
「そーやって、ちいとが、ちょっとづつ大きくなって、巨大になるんだろ?」と脅してくる。
巨大な葛藤の山に押しつぶされそーになっていた青春期であった。


その一方で、小さいとき、
「この世は、私が見たまんま本当に存在しているのだろうか?」
と、素朴な疑問を持ったまま、ばばあになったやまんばは、いまだにそれを否定しきれずにいた。

そして量子力学なるもんを知る。
「物質のほとんどは空間である」
「観察されるものは観察するものに影響を受ける」

こっこれは、どーゆーふうに受け止めたらいーのだ!?
やまんばが今食ってるサツマイモは、本当は存在していないのか!?
そもそもやまんばは本当は物質として存在していないのか!?

じゃあ、じゃあ、食品添加物も存在していないのか!?

じゃあ、、、、病気はドオーなるのだ?

。。。。。

なんかしらんが、心が多大に全てのものに影響を与えているような気がする。そもそも砂糖は危険というのも、自分が発見したんじゃなくて誰かの研究結果だ。これ、ほんとだろうか。色々探ると、これ、ホントだろうか?って次々でてくる。
有機肥料は、からだにどれだけいいか言われてきたけど、最近じゃ、有機肥料は地球のバランスをも崩してしまう、恐ろしい毒だともいわれる。
ホントだろうか?
あれ、ホントだろうか?
これ、ホントだろうか?
それ、ホントだろうか?

世の中にはホントってあるんだろうか。

やまんばはいっぺん全部疑ってみることにした。
およそからだにいいとされているものも、からだに悪いとされてるものも、気にしないことにした。
何でもオッケー。好きなもんを食べる。好きなように食べる。楽しく食べる。うひょうひょと食べる。

今んところ、漢方薬をやっていた頃や、マクロビや小食をやっていた頃とはまるで違って元気だ。
あれから20年ぐらい年とったのに。
いやいや、玄米食ってるではないか。でも玄米生活すると、絶対食ってはいけないはずの肉も食うぞ。

結局、気にしないってことか?
何でもありがたくちょうだいするってことか?

わからん。

よいこのみなさまは、けしてやまんばのマネはしないように。



絵:「電車通勤の作法」MF新書表紙イラスト
 どうやったら、電車通勤をより快適に過ごせるかという画期的な本!
 あわてずさわがず、日本人の鏡のような作法であります。やまんばとエライ違い!

2013年1月28日月曜日

こじゃんとうまいだいこんやから。。。



今畑はおさるさんのえさ場になっている。
大根、ニンジン、ブロッコリー、ホウレンソウ、去年から突っ込んであったじゃがいもも種芋さえほじって食う。相当お山にエサがないようだ。気の毒でもある。
やまんばは、かろうじて襲撃されていない白菜を収穫して生き延びる。
だがここに来てヒヨドリの襲撃もはじまった。葉っぱものを食う奴らは、そろそろノラボウやブロッコリーの葉っぱをかじりはじめた。白菜に気がつくもの時間の問題だろう。

山のふもとで畑をやるってこういうことか。でもまわりの他の畑の大根は、まったく食われていない。
「そりゃあおまん、おらんくの大根が、こじゃんとうまいがにきまっちょらあよ」
と、負け惜しみを言うことにしよう。

食われたときはショックだが、だんだんそれにもなれてくる。まあ、えいか。とどっかでカンネンする。それでも心は行ったり来たりする。
最初はやっぱりショックだ。がびーん!ってかんじ。だけど毎日見ていると、お猿の気持ちにもなってくる。大根やニンジン食ってあると、
「あいつら、根のものを食べて、からだあったまったんかな」
と、おもったりもする。
だが次の瞬間、別の種類の野菜がなくなっているのに気がつくと、
「こんにゃろーっ!」っておもう。
だけどしばらくするとそれにもなれてくる。

そんな心の繰り返しのようだ。それって自分の心の動きを観察することができる。自分がどんな信念をもっているかみられる。

人間が作った野菜は人間が食うもんだ、という信念。
一生懸命作った野菜を野生動物に横取りされるのは許せない、という信念。

それらの信念のおかげでサルに食われると「これってまちがっている!」って、心が大騒ぎするのだ。

もしこの二つの信念が最初っからなかったら、きっとやまんばの反応はちがったものだったんだろうな。
ひょっとしたら、
「あれ?おさるさんが食べたんだ。ああ、お山に食べもんがないのね。」
で、おわり。
それ以後、とられないようにするにはどうすればいいのか、これからの春野菜はどうしようか、と色々悩まないはずだ。
色々考えるのは、過去を振り返って、未来を案ずるからだ。

もしそこにその信念がなかったら、自分ってどう反応するんだろうなっておもうのも、自分を知るおもしろさになるんじゃなかろうか。

2013年1月25日金曜日

信念をなめたらいかんぜよ


やまんばは、自分が持っている信念が正しいとおもってきた。ずっとそれでいけるとおもってきた。
だけど過去になんどもいざこざがあって、それはほとんどが自分が持っている信念と、別の信念に出会ったときに起った。
信念と信念がぶつかり合い、それが混ざることはなかった。
じゃあということで、あいだをとって足して二で割って丸く収まることは、まれなケースだった。たいていは、心に何かを残したまま、どっちかにあわせることで妥協した。

それが大人のやり方だと思った。それしかちがう信念同士がやりくりする方法はないと思った。
だけど、クリシュナムルティにであった。自分の信念が自分を苦しめていることを知った。

練習したら泳げるようになるように、心も、練習すればうまく考えることができるようだ。私たちは部屋の中を快適にできるように、心の中も快適にできる方法をもっている。

「問題」にぶつかったとき、わたしたちはその「問題」を解決しようとする。その問題は自分の外にあるものとして、悪いことだととらえる。
しかし泳げないことは「それは水が悪いのだ」とは思わない。自分が泳げるようになろうとする。

実は心の中もこれとまったく同じことのようだ。
問題にぶつかるのは、そこに自分が持っている信念がある、と気がつくことができる瞬間なのだ。その問題がおこったのは(本当は問題ではないかもしれない)、その人が大事に信念として抱えているものを明るみにし、手放すことを待ち望んでいる。

2013年1月23日水曜日

信念の始まり(新年じゃないよ)



信念はあらゆるところにある。(きのうのつづき)
信念のはじまるところからみてみよう。

この世に生まれでてから、ぼーっとまわりを見ている。輪郭のないぼんやりした明るい世界。するとそこで何かがうろうろしているのが見える。そのなにかがこっちに向かって音を発する。しょっちゅう音を発するので、その音のでるものをみようとする。するとだんだんぼやけたものに輪郭がついてくる。そのものは、
「けいこちゃん」という音を何度も発するので、どうもこっちとそっちがあるんだなと気づく。
そんでもってその繰り返される音が、こっち側に与えられた特定のものだと分る。
こうして名前というものを知る。

ここまでですくなくとも、こっち側とあっち側とに別れている、その別れているものは、個々に独立している。その個々にはそれぞれ名前というものが割り振られている、という信念が作られる。

これが信念だって?バカな事を言うな。あたりまえのことだろう。
やまんばは、いっつもへんちくりんなブログ書きながら、そんな言葉を言われるんだろうなあ~とびびる。だったら書くな!なんだけど、なんかおもしろくてつい書きたくなる。このあまのじゃくな性格はなんとかならんのか。

では先へ進む。
信念って言葉が不適切なら、洗脳でもいい(もっと不適切じゃ)。
そのこっちに向かってしゃべっている存在は、この世のあらゆることをこっち側に仕込む。仕込まれながら、こっち側の存在は、
「この世は物質でできているんだな。それにはいろんな名前というものがついているんだな。それは上とか下とか横とかいろんなところにある。それにびっくりすることに、それはときどき上から下に落ちたりする。なるほど。ここはそういう世界なのか。。。」

その仕込まれたものは、その後後生大事に使われる。なんせこの世のことを自分より知っている存在なのである。その存在のいうことはスポンジが水を吸収するごとくすいこんで吸い込んで吸い込みまくるのだ。
こうして同じ空間にすんでいる存在たちの影響をほぼほぼ受けつつ大人になる。

やまんばは最近自分の考えが、何から何まで母親にそっくりなのを知る。いや、母親にまったく似ていないところもある。だがそれもよく観察すると、母親のイヤ~な部分ヘの反発としてそういう性格になっているだけのことだったりする。結局、彼女の影響下からはほぼ抜け出せていない。一人っ子はまともに親の影響を受けるが、兄弟はより複雑な信念体系ができる。

信念は箸の上げ下げから、宇宙に飛ぶロケットにまで広がっている。そして一度インプットされた信念は、自ら意識しない限りまったく変化しない。たまに同じ項目で違う信念にぶつかると「それ、ちがーう!」とケンカになる。ほら、夫婦がしょーもないことでケンカする、あれだ。
だがその信念の違いは破壊を生む。夫婦間の破壊から、国家の破壊まで。
信念をなめたらいかんぜよー!

意見のちがいは信念のちがい。
どっちが正しいっちゅーてケンカしても、そのバックボーンがちがうからちがいが生まれただけだ。そこをいくら議論してもぜーぜーと肩で息して疲れて寝込む。夫婦ゲンカは犬も食わんのは、犬はその意味を知っているのかい!

結局ダンナとケンカするのは、自分の信念がどんなものであるかを思い起こさせてくれるいいきっかけになっている。
これは正しいこれはまちがっているという信念は、だいたい自分が生まれ育った家庭の中で生まれた価値観だ。それをどっちかのルールにあわせると、あわせさせられた方がそのうちブチキレる。
うちじゃご飯茶碗は左側でお味噌汁は右側だ。これはウチの母から教わっただいじーな作法だ。だがダンナはご飯は右側に決まってるだろうという。ありえない。
「おたくはそんなふうに教わったの?」
「いんや。だれにもおそわってない。オレが決めた」という。
ありえなーい!
だがそんなことでケンカをしてもエネルギーのムダだ。彼の好きにさせよう。

そういう風に大事な価値観が(どこがや)砕けちる瞬間がみそだ。

自分が何に信念を持っていて、その信念がいつのまにか自分のアイデンティティになっているという真実だ。それは石けんなし生活ではっきりと意識した。あれはおてんとさんがひっくり返るほどの大ショックだった。石けんなくってもいーじゃーん!と。

長い?長いよねえ。。。どこで切ろうか。。。
信念は深過ぎて簡単に言い切れない。。。
え?いつものこと?
すいましぇ〜ん。。。

2013年1月22日火曜日

ばあちゃん力



89才でマラソンやっているばあちゃんがいるらしい。そのばあちゃんは、今度ブラジルで行なわれる高年齢のマラソン大会で優勝を狙っているらしい。練習にでかいタイヤを引っ張って走ってた。

一方、91才で現役のピアニストがいる。リビングにはグランドピアノが二台あって、今もコンサートのためのリハを他の演奏者たちとそこでやっている。8時間ぶっ通しでひきまくると言う。
やまんばはそんな姿を見るのが楽しい。やまんばもそんなふうになってみたい。

彼らが共通して言うことは、
「好きなことやって、好きなもん食べるのがいーのよ」だ。
彼らは朝から肉を食いまくる。
どうも最近は年寄りが肉ばかり食うシーンが多い。これは意図されたものか。反面、別の番組では心筋梗塞や脳梗塞が増える話をする。どこまでいっても視聴者を混乱させているようにしか見えない。
これも「肉食えば元気な老人になれる」というふうに誘導しているかに見える。

だが彼らがいってるのは、
「好きなことして好きなように暮らす」
ってことなんじゃないだろうか。

本当はそこにつきるんじゃないだろうか。
だけどフツーの人は心がおろおろさせられる。あれダメなんじゃないか、これしちゃいけないんじゃないかと。情報はあらゆるものをうえつける。知らない間にどんどんいらん心配をし始める。無意識のうちにそれが「信念」になり、その信念に翻弄され続ける。
だけどかのばあちゃんたちは、あれがダメだとかこれ食べちゃいけないとかおろおろぐちぐち考えてないように見える。きっと若い頃はおろおろしたり苦労しまくったのかもしれない。だけど少なくとも今の彼らにはそんなもんはみえない。

やまんばも生まれて来てからずっと自分に植え付けて来た大量の信念に気づいてきて、最近びっくりして来ている。
「信念」っていうと、なんだか素晴らしいことのように思う。だけどクリシュナムルティもエックハルトトールもニールも都留さんも「信念を捨てろ」という。最初はその意味がチンプンカンプンだった。だけど今はその意味がわかってきたようなきがする。それを持っているとどんだけ自分を見失うか。

思考はそれをエサにして生きる。そしてその声に人類は振り回されている。
その声に振り回されるのではなく、その声を利用するのだ。

きっとばあちゃんたちは、その声を利用しているのだ。
生命ってすごいなあ。

2013年1月15日火曜日

平穏死つづき



平穏死で一番やっかいなのは、遠くの長男なのだそうである。(わしか?)

患者さんが医者と常日頃、やり過ぎの延命治療はやめて、出来るだけ自然な状態で死期をむかえる平穏死でいきましょうと決めていても、いざとなったら、遠くにいる長男や親戚がわらわらとやってきて、そりゃないだろう!と訴えてくるのだそうだ。

年末年始のころは親戚が集まってくるので、特にそういう苦情が続発するのだそうな。そうなるとそれを説得させることは難しいという。日頃の患者さんをよく見守って話を聞いて、その状態を実感として把握していないから、どうしても生き延びるだけ生き延びさせなければいけないという大義名分がでてくるそうだ。

本人がそれでいい、と言っているにもかかわらず、それじゃダメだ、という心理はどこからくるのか。

「あたしはねえ。あのとき母の面倒を見られなかったことがどんだけ悔やまれるか。。。だからあなたには、そういう苦悩をしてもらいたくないからいうのよ。。。。」
このごろそんな話を立て続けに聞く。

彼女は母に出来なかったこと、出来なかったのはこれこれこういう理由があったからなどと、私にえんえんと訴える。
訴えられても困るのだ。だけどそれを私に訴えるのはわけがある。「あなたにはそういう思いをして欲しくないからなのよ」だ。だがそれを聞く私は、そのあなたとは今日初めてあったばかりで、その初めてあったばかりの人を本気で心配していってくれているのだろうか。

ほんとは、母の面倒を見れなかったことへの後悔と、それに対するいいわけを心の中でただただくりかえし、それを私に訴えているだけのように見える。まるで「そこまで考えている私はえらい人でしょう?」とほめてもらいたいかのようだ。

そうだ。ほめてもらいたいのだ。
人間とは不思議な生き物だ。

彼女の母親は、彼女が面倒を見なかったことを死んでも怒っているのだろうか。いやきっと、自分が自分に対して怒っているのだ。死んだ人は彼女に対して怒っていなかっただろう。だってそんなひどいことを母親にするような人には見えなかったもの。きっと母親は、彼女が仕事で忙しくて看病できなかったことを理解していたに違いない。

だけどそれを彼女自身が許せない。自責の念はえんえんと続く。それには母がもうこの世にはいないことで「答え」がみいだせないからだ。だけどたとえ母親が夢枕に出てきて「あなたは頑張ったわ。わたしはあなたを怒ってないわよ」と言ったところで、彼女の気持ちは収まらないだろう。

こうして人は、罪悪感と自責の念の中で生きる。
「母」という言葉がでてくると、自動的に「私の罪」を思い出し、それを聞いてくれる人があれば、また同じ話を繰り返すのだろう。
いくらそのとき他人にほめてもらっても、自分自身がそのえんえんとまわっている心の繰り返しに気がついて終止符を打たない限り、止まりはしないだろう。


良いこと、悪いこと、という二元論が人を動かす。
「親の面倒を見ないことは悪いこと」という法則は、あらゆる側面で人々の心を縛り付ける。

だから遠くの長男はめんどうなのだ。

逝こうとするする人を延命治療で引き止めるのは、本人のことを考えてのことではなく、自分の自責の念からのがれるためなのかもしれない。

やまんばは日々自責の念の中でおろおろする。あんなことしちまった、こんなことしちまったと思う自分の心に翻弄される。だから自分の親がいざということになったら、おろおろして迷いまくって大騒ぎしてぐちゃぐちゃになるにちがいない。その後も、みんなに言いまくって、いいわけしまくって、みんなに許しを乞おうとするだろう。

あらためてそういう自分に気がつくことができて、いい本にであったなあとおもうのであった。

2013年1月11日金曜日

平穏死



このところたてつづけに平穏死についての本を読んでいる。
ひとつは「大往生したければ医療にかかわるな」、もうひとつは「『平穏死』10の条件」。
どっちも死に際を、医療とは一線を引きながら、いかに自然に死んでいくかを定義した画期的な本である。

自ら医者でありながら、自分の首を絞めるような本を書くこの覚悟は、なみなみならぬなにかがあったんだと思う。

現代医療のありかたが、死を敗北ととらえ、もはや治る見込みのない状態であっても死を受け入れず、患者さんを苦しみのままにえんえんと生かせ続けるという医療の残酷さ。延命のために施されたものが、結果的に不自然な姿を作り出し、それに抵抗する患者さんを縛り付ける現実。いったん延命治療に入れば、それを止めることは殺人と見なされ、止めることはほどんと不可能なこと。
そしてその反面、延命治療を施さないで死んでいく人々の何とおだやかで静かな看取りの姿。そういうもろもろのケースを事細かに書き記してある。

人はなにかあったら、「どうしよう」といって、なにかしようとする。それの最たるもんが医療じゃないだろうか。そのじっとしてられないからなにかしようとする衝動(いやいや、人類を救うためのものである)が、人の尊厳そのものも無視していってしまうことが起る。
「何かせずにはいられない」結果が、そういう現状や混乱や残酷さを作り出しているのかもしれないとしたら、私たちは何をしているのだろうか。

あえて何もしないことは、どれだけ難しいことであるか。
昔は何も手がないから「ああ、おっちんじまった」で終わるが、なまじっか生かし続けることが出来るまで医療は進んでしまった。だからどこでけりを付けるか判断するのが難しいのだ。

なりゆきにまかせられない。自分で決断しなけりゃいけない。なんてえ難しい世の中なのだ!

だれや、医療を進歩させちまったヤツは!(だれに当たっとんねん)

2013年1月8日火曜日

人は繰り返しを求めるが決して繰り返されない、、ってか?


人は繰り返しを求める。

は?そりゃあたりまえだろう。

このジレンマが人生を不幸な気分にさせる。

やまんばはパンを作る。なんてえ特徴もないただのパン。
いつものように「あれ食いたいなあ」とつくる。んで、余っちゃうから人に押し付けてくる。だが思いもよらぬところで「おいしかったー」なんて言葉が返ってくる。

「いや、あれ、ちっくと失敗したがやに。。。。」と、とまどう。しかし心の深いところで「おいしかっただってえ?ちょーうれしい。」と踊ってしまう。
んで、また作って人に押し付けてくる。

すると不思議なことに、あの言葉が返って来ない。
「ん。。。?なんかおかしい。。。なんかたりないぞ。。。」
そのとき、自分があの言葉が聞きたいがゆえに作っていたんだということを知る。

あの言葉が欲しいのに!あの言葉を聞きたいがゆえに作ったのに!なんであの言葉が返って来ないのー!と。

ところが、その期待した言葉はパンについては語られなかったのに、畑の野菜について「おいしかったよー!」と語られていたりする。

だが、エゴはパンについて聞きたいのよ!パンのこと言って!と叫ぶのだ。

人は繰り返しを求める。
一度味わった「たのしい」ことは、もう一度同じパターンで味わいたいのだ。
だが一番最初にやってきたその言葉には「は?」だったのだ。ピンと来ていないのだ。
けれどもあとからじわじわとそのよろこびを噛み締め、くりかえし思い出し、
「フッフッフ。。またその快感を味わうんだぜエ~」と策を練りはじめる。

ところがこの世はうまいことできていて、けっして同じ快感を味わわせてくれない。まるでやまんばの欲深さをあざ笑うかのように、別の状況を作ってくるのだ。

こうして人は思ったようにいかない人生を不幸なものだと思い込む。
こうあって欲しいのに、そうならない自分をなげく。だけど、こうあってほしいの「こう」は、一度きりなのだ。その「こう」が最初にやって来た瞬間、心は嬉しさよりも驚きを感じている。
ところがその驚きが時間を追うごとに反芻されて、どんどん嬉しさに変わりはじめる。思考は次第にそれを求めるようになる。「もう一度あのシーンを!」と。
だけどそうは問屋が卸さない。


もし、思考はそういうパターンを持っていて繰り返しを求めるが、現実は同じパターンを決して作らない、という事実を知ると、人生って不幸じゃなくなるんじゃないだろうか。

やまんばはパンに対する言葉ばかりを求めていて、その人が別のことをほめてくれていることに気がつかなかった。

一瞬一瞬、この世は新しいことがやってくる。
二度と同じことはやって来ないことを知るのは、実は人生を味わえる醍醐味じゃないだろうか。いつも次の瞬間に何がおこるかをワクワクしながら観察していると、きっとその友だちが言った野菜がおいしかったの言葉に、やまんばはちゃんと反応するだろう。
そしてそのあとはそのことさえも忘れて反芻することもなく、日々瞬間瞬間を生きるんだろうな。

畑にも同じことがいえる。
正月開け畑に行くと、大根がほとんどサルに食われ尽くしていた。育ちはじめていたブロッコリーも頭からがっぷりくわれ、ニンジンは好き勝手に引き抜かれていた。
毎年同じことはくりかえされない。こんなことは今までなかった。大根食うとは知らなかった。

人間は繰り返しを求める。
こうやったら、きっとこうなるはずだ、と言う思いは、安心や保証が欲しいからだ。だが人生は決して同じパターンをふまない。春が来て夏が来て秋が来て冬が来るが、決して同じパターンではない。瞬間瞬間がまるで新しい。畑もきっと去年までとまるで違う姿を見せてくれるんだろう。

その新しさに歓びを感じることが今を生きることなんだろうか。
刻々と変化することを恐れるのではなく、味わうことなんかも。
なんてねー。



2013年1月1日火曜日

あけおめっ。


みなさま、新年あけましておめでとうございます。

やまんばは、暮れの風呂掃除のさいちゅーにぎっくり腰やっちまって、なーんにもしない年末と正月をすごしております。

今さっきもコタツに入りながら、ねっころがって、ぼげーっと空を流れる雲さんをながめておりました。ほうきの先ちょみたいな雲がゆっくりゆったり流れております。どれひとつとして同じ形がなく、刻々と変化しながらこの星の回りをなでていくようです。
今年この星はどんな形になっていくんでしょうか。この星の人々はどんな心持ちになっていくんでしょうか。そんな姿を雲さんはそろ〜っとやさし〜くなでていってくれています。

おとそもお雑煮もない、ふしぎーな正月です。まだ新年のお日さまも拝んでないし、もちろん初詣もいかない。
こんな正月あったかなあ。

こーゆー時間もいいもんだな。

昨年中はこのブログにお付き合いくださいましてありがとうございました。

今年もこのやまんばブログをよろしくおねがいしま~す。
また今年もぶっとばすぜい~。