2018年4月21日土曜日

父の葬儀その3




「つくしの存在がまったくないねえ。。。」
受付を手伝ってくれた、私の高校時代の友人が言った。

その日の葬儀はうち一組だったため、会場も一番大きな場所、祭壇は山好きだった父のために、山を連想させるような豪華な花にした。
故人を偲ぶコーナーには、父が生前に「これを飾ってくれ」とプロジュースしてきた、華々しい数々の表彰状や贈呈の品々、それにまつわる記念写真。私がもって来た若いころの父の写真も大きく引き延ばされ飾られてあったが、そこになにかが欠けていた。

「おかしいなあ、なんか足らん。。。。
あ!ウチのかあちゃんとの写真がないんや!」
私の母との31年間が、ごっそり抜けていたのだ。



数日前の会話。
「とーちゃんの写真、これだけしかないのん?」
「たぶん、一階の押し入れの奥にあるわね。あたしゃあ、見たことないがやけど。。。」
葬儀社の人に10枚のスナップ写真を用意してくださいと言われ、選んでいたときのことだ。あるのは最近の父と義母の写真ばかり。昔の写真はないかと聞いたときの、ちょっとふくみのある義母の答えだった。

一階の事務所をかねた部屋の突き当たりに押し入れがある。その奥を覗くと、うっすらと見覚えのある布ばりの古いアルバムが、隠されるように押し込まれていた。

埃を落とさぬよう4冊のアルバムをゆっくり引き出す。虫に食われた表紙を壊れないよう開くと、そこには初々しい警官姿の父がいた。若い父の姿を見て心がワクワクする。「わりことし(悪ガキ)じゃった」と本人が言う通り、牢屋に入って泣き顔を見せてる写真や、犯罪者がクビに掛けるプレートをかけている写真など、悪ガキっぷりが写っていた。

そして、はっきりと見覚えのあるアルバムを開くと、そこには私の母との結婚式の写真が。
次々に出てくる母とのツーショット。そして私の幼いころの写真。
「あ。これはやばい!」
義母がそこにいるわけでもないのに、あわててぱたんと閉めた。
「これはもって帰ろう。。」
だまって私がもらうことにした。


冒頭の友人の言葉は、そのまま父の人生の事実を伝えていた。
葬儀に出された写真は、父の若い頃、そして義母との生活の写真。そこに私の存在はなかった。両親が離婚したのち、私と一緒に写真を撮ったことはなかったのだから。

人は自分の過去の汚点を隠そうとする。
表彰されたこと、努力したことは美談として伝えられる。それだけを演出したかった父。だけど、自然と彼の寂しさはそこに現れていた。

死が近づいていた頃、父は私に母とどうして離婚したのかを話してくれた。父の視点から見ればそれは正当な理由だった。そして私は母からもその理由を聞いている。
ふたりの離婚の理由は、まったくちがうものだった。

それぞれの立ち場から考えると、どっちも正しい。この世は善と悪との戦いではなく、善と善との戦いだ。私はふたりの内のどちらにもつかない。だって、どちらの思いもわかるのだもの。




人の死は、何かを変容させる。
それを強烈に感じさせてくれたのは母の言葉だった。

母は、幼い私に暴力を振るう父を許せなかった。
「この人とは一生平行線。戦友として生きようと思った」
と常々言ってたように、父との結婚生活は、つらい思い出がつまった31年間だったようだ。

子供ながらにも、このふたりの結婚には無理があるなと感じていた。父もきつかったに違いない。それがいろんな所で噴出していたのだろう。じっさい再婚後の父は穏やかになっていった。それが私にはとてもうれしかった。

告別式までのあいた時間に母のアパートに行く。

「お父さんが逝ったのを聞いてから、ずっと寝れんかった。。。」
あんなに嫌っていたのに、寝られなくなるとはと、すこし驚く。

「今の私があるのは、あのひとのおかげ」
思わず耳を疑った。
「え?!そんなこというの、はじめてやん!」
すこしやつれた顔で微笑む彼女。

「過去の辛かったことあるやろ?昔はそれを思いだすと、辛い感情ばかりがあふれていた。だけど今、そのつらかった過去は、痛みとともにはない。それをそのまんま見ることが出来る。なんちゃあ、つろうない。ただあったかい感じがある。今はお父さんと過ごした幸せな時間しか思いだせない」

父の死を聞いて、彼女の中で何かが動いていた。過去に起こった出来事を拒絶していない彼女がいた。


そしてこう言った。
「お父さんはねえ。この世でふたりの女を幸せにした男!」
ちょっとはずかしそうな顔をした母。
ふたりの女とは、だれでもない、母と、今の奥さんのことだ。


ふたりが離婚した後、私は二つの顔をもたざるをえなかった。
母との顔。そして父との顔。
離婚した夫婦の子供は、片親と会う時、もう片方の親の存在を消しながら会う。まるで「私はあなただけから生まれた子供よ」という、ある意味ムチャな役割を演じるのだ。

私の中にある、母に受け入れられない父の血が、ひそかに分裂を起こしていた。


それが、母のその言葉を聞いたとき、私の中でなにかがはじけた。
内側からなにかわからない大きなエネルギーがぶわっとあふれでた。
私のすべてが受け入れられている感じがしたのだ。
子供のように一瞬大泣きした。
それは分裂していた自分の身体が統合されたような、不思議な感覚だった。

それから母と抱き合って泣いた。
それは悲しみからではなく、何かが溶解した胸が熱くなる涙だった。

死は決して悲しいだけのものではない。言葉では解き明かせない変化をまわりにもたらす。父の死はそのことをはっきりと伝えてくれていた。


最後のお別れの時、父にそっと伝えた。
「とーちゃん。これはかーちゃんからの伝言。
『この世でふたりの女を幸せにした男!』やて。
すごい言葉もろうたね。
とーちゃん、ほんとにありがとう。
そして、おつかれさまでした」

火葬場で父を待ちながら見たすぐ近くの山は緑がムンムンしていた。『山笑ふ』とはまさにこのことだ。

それはまるでとーちゃんが笑っているかのようだった。



2018年4月18日水曜日

父の葬儀その2



父は葬儀場から、お金の準備まで用意してくれていた。

私といえば、会場のお花選び、棺選び、骨壺選びなどのもろもろの葬儀のための道具の選択、父のスナップ写真、新聞広告に出す内容のチェック、お香典返しに添える言葉、弔電を読む人の選択や順番、香典の管理、その他いろいろの細かい作業を葬儀社の方にうながされるままにやっていただけだった。

亡くなってから葬式会場を探す人たちから比べれば、はるかに楽な作業にちがいない。どこまで行っても、父の手際の良さに感心、ほれぼれする。




こんな人だったっけ?
と子供心に思う。

幼かった私にとって、父はあまりにもしつけの厳し過ぎる、恐ろしい人だった。

お膳の上の箸がそろっていない、新聞を足で踏むなどの私の失敗を見つけると、間髪入れず父の鉄拳が飛んで来た。固いグーの手が私の顔面にめりこむ。岩のような父の圧倒的な破壊力に、幼い私は後ろに吹っ飛んだ。よけようものなら、倍になってよけいに殴られる。よけられないと思った私は、父が向かってくるその様子をただじっと受けとめ続けた。

お酒を飲んで帰ってくると家で暴れる。投げたり壊したりしたので、電化製品はどこかがかならずへこんでいる。
照明器具をバットで殴って、ガラスがバラバラと布団の上に落ちる様子を見ながら、母は私をかばいこう言った。
「お父さんは、あんなことするけれど、本当はいい人なのよ」
目の前で展開する彼の行為と、母のいい人だという言葉が、私の中で分裂した。


しかしそういう父もよくよく見ていると、ただ寂しかったのだと言うことがわかってくる。

私はよく父の晩酌の相手をした。そうすると、とても機嫌が良いのに気がつく。
父は父として、自身の人生にたくさんの苦悩をかかえていた。それを受け止めてくれる誰かを必要としていただけなのだ。

通夜の夜、父の親戚の人たちと話をした。父の幼年期の話しもまた壮絶なものだった。
父はただ祖父からもらった激しいしつけをやっただけだ。

だが残念なことに、受ける側がもらう傷は深い。
私の中に残ったトラウマは父に謝ってもらって取れるものではない。これは自分自身で解消していくものだ。そう簡単にはいかないだろう。

しかしこうやって受け継がれていくその家のやり方も、私の代で消えていく。
それがゆいいつの救いだ。


今回、お通夜や葬式に来てくれる人々が、口々に私に言う。
「お父さまには、本当にお世話になった」と。
父がどれだけたくさんの人の面倒を見、真摯になって相談に乗っていたかを知ることになった。

私は娘の視点からでしか、父を見ていなかった。父と一緒に生活をした18年間で味わったものでしか、父を判断して来なかった。

それがだんだん溶けはじめたのは、父の死が近づいてきはじめてからだ。

何度かの手術の度ごとに帰って、父と会話をする。回を重ねるごとに、私の中で何かが溶けはじめる。それは一個一個、音もなく自然に溶けはじめるなにかだ。
病気や手術や入院することは縁起でもないことなのだけれども、そのおかげで私は父に近づいていった。

いつのまにか、殴られたことも恨みにも怒りにもなっていなかった。
あのとき、どうしようもなくそうなったこと、そしてそれはすでに過去ものであること。父を責める気持ちもなにもなかった。
病床にいる父に
「とーちゃん、わたしはつらかったよ」
と、伝える必要も感じなかった。
時には冗談を言い合って、時にはただじっと2人だけで、何も言わずにただいる時間がすてきだった。

そして今、こうして父とかかわりのあった人々に触れて、葬儀の準備をしている。
それは二度とやって来ない貴重な時間だとしずかに受けとめていた。



写真:父と5ヶ月の私。





父の葬儀その1




「お父さんが、息があらいきねえ。はよう帰って来てや」
そう母から電話があり、あわてて飛行機の手配をして電話をかけなおす。

「最終便しかとれんかった。まにあうやろか?」
「うん。もう大丈夫。さっき息を引き取ったぞね」
おもわず、
「はやっ!」と、言ってしまった。

その四日前に高知に帰って来た所だった。その時の父の様子で、もう先はないなと感じていた。亡くなる直前まで血圧もなにもかもが正常だったと言う。しかし母が電話を切って、数分もしない内に息をしなくなったらしい。
父らしい、あっぱれな行き方だった。

きっと私が飛行機の手配やら、仕事の手配やら、バタバタしているのを近くでにやにやしながら見ていたんじゃないだろうか。
「何をあわてよらあ、おれはもう逝ったぞ」とかいいながら(笑)。


最終便で戻ると、父がベッドにいた。
すぐに目を開けそうな、でも、もうここにはいないような、どっちとも言えない不思議な父がそこにいた。

「今日はここでお父さんと一緒に寝よ」
父が私の母と離婚して、一度も泊まったことのない父の家。はじめてのお泊まりは、死んだ父と、再婚相手の義母と、狭い布団の中で川の字になって寝ることだった。

緊張してなかなか寝られない。そのうち小さな揺れに気がつく。「あ、地震が来る」と思った直後に揺れが。高知は震度3だった。
いろんなことが起こるなあ。。。
これからやってくる未知の体験に、ハラをくくらされた瞬間だった。

父プロジュースの元(笑)、喪主としての仕事が始まった。と言っても、葬儀社の方にやっていただく内容を次々に選択していくということのようだ。

父のカラダは死後硬直が始まっていた。納棺師さんがこられて、身体から出る液体を吸い上げていく。死後変化していく父を告別式までもたせなければならない。あいにくこの時期火葬場が込み合っていて、予定より一日ずれ込んだ。なによりもまずは火葬場ありきで予定が組まれていく。

父の肉体の変化に応じて、いろんな処置をしている納棺師さん。
父の家は二階がメイン。玄関までの階段は狭く急で、二度折れ曲がる。
膨れて重くなったからだを降ろすのは、出来るだけ早い方が中のいろんなものが出なくて済む、、、などのリアルな話しを聞きながら、
「じゃあ、早いとこ葬儀社さんの方に連れて行ってもらっていいですか?」
と、父を早めに運んでもらうことに。
長い闘病生活のために、肉体に水がすごくたまっていた。最後は足が自分でもち上げられないほどに。

父の身体は、男性6人によって無事会場に運ばれた。


注:写真は、父がまだ母と結婚する前のもの。
押し入れの中から古いアルバムをみつけた。
立ちポーズが決まっている(笑)。

2018年4月5日木曜日

父、自分の葬式をプロジュースする


「葬式のことで話しがあるから、帰って来い」
父からの電話で高知に戻った。

自分の葬式にはあれを置いて、これを納骨して、名簿はこのように。。。
と、色々注文をしてくる父。
はいはいとメモっているうちに、なんだかおかしくなってくる。

「とーちゃんさあ。今、自分の葬式のプロジュースしてるじゃん。それって、覚悟出来てるってことなん?」

何度ものがんの手術に耐え、抗がん剤治療も全部受け、今は全身にがんが転移している。そしてついに何の抗がん剤治療も行なわれなくなった。
父はそれを見て、自分の死を身近に感じたようだった。

父は私の言葉にちょっと考えて答えた。
「出来てない」
素直な父の言葉におもわず笑った。

離れて暮らして40年たつが、今になって父がどんな努力家だったかみる。
術後の回復力はすさまじいもんだった。日々のリハビリでみるみるうちに回復していく。人がみていないあいだにひそかに訓練して、杖をつかないで歩ける姿を見せて、医者や看護士さんたちをあっと驚かせるお茶目な所もある。
目標を持って、一歩一歩確実に前進していく人だった。

それが今は、何の努力もいらないと言われることになる。

「起きたいのに、起き上がるなと言われる。。。歩きたいのに、危ないから歩くなと言われる。。。なんちゃあできんじゃいか。。。。」
自分が情けないというような、泣きそうな顔をする。

日々後退していくカラダの状態。
トイレに行こうとしてこけると、もうおしめにしようと言われる。
今度はベッドで起き上がって後ろに倒れ込むと、もう起き上がってはいけないと言われる。

だんだん自分では何もしてはいけないと言われていく。努力の人が、もう努力はせんでええと言われる。努力こそが、彼のアイデンティティだったのだ。看護して下さる方々にご苦労をかけてまでの、その無念な気持ちは彼にしかわからないだろう。

人は何かを「する」ことで安心を買う。その何かを「する」ことさえも出来なくなると、彼の安心はどこで買うのだ?

「とーちゃんは、ほんとに努力の人やでねえ。すごいわ。でもねえ。ときにはなんちゃあせんでもええときがあるがよ。人生、決して悪いようにはならん。安心して起こることに身をまかせてみたら?」

レースのカーテンから漏れる薄明かりの中で、父はどこかホッとしたような顔になり、そのまますーっと寝てしまった。

私が生まれて来て、最初に出会った存在、父と母。
かれらを通してこの世のルールを知り、そしてまたかれらを通して人間の生き様をみせてもらっている。


高知の山は、今、緑がムンムンし始めた。