2011年2月26日土曜日

花粉症減ってる!




来ちまった。来ちまったよ〜ん。花粉症。
パッキリ24日からいきなりくしゃみの連続。きのうはさらに追い討ちをかける鼻水ずーずー。お山はまっちろ。春一番のおかげでスギちゃんは花粉をパフパフ飛ばしている。ウチの庭に初めて花をつけたスギちゃんもパフパフパッフ〜ン!と、思いっきり飛ばしてくれちゃっている。
さっそくネットで花粉情報を見る。「東京。少ない」とでる。うそだ。目の前を飛び交っているではないかーっ。これが「少ない」なら「非常に多い」はどんだけ〜〜〜〜っ。

精神的に不安定になるのをおさえつつ、症状を冷静に見てみる。石けんなし生活を初めて丸2年。実は花粉症の症状は変わりつつある。
花粉症対策の薬や民間療法は何一つ使っていない。日常も同じパターン。酒は毎日飲む。甘いものもよく食べる。カップラーメンもよく食べる。
で、その状態で実験開始。3回目のスギ花粉症体験。
昨日の夜、目と喉がかゆくなった。寝る前に鼻塩水をやろうと思ったが、やめてみる。何もしないで夜中どんな症状になっているのか観察。
いつもなら、寝ながら喉をかきむしっている。粘着質の鼻水は鼻の奥にたまり、息が出来なくなり目が覚める。「死ぬかと思った〜」といいながら、ごそごそ起きて鼻から塩水を入れて洗浄。また寝る、を繰り返す。
それがきのうは、かゆくなるがそのまま絶えられるかゆさに変わっている。絶えられるかゆさと絶えられないかゆさがあるのを知る。これまでの経験上、かゆさとは絶えられないもんだと思っていたからだ。
喉の奥がひりひりチクチクとするが、かかなくてもいけそーだ。目もかゆいがかかなくてもいけちゃうかゆさだ。くしゃみは出るが、鼻水はそれほどでない。

以前の花粉症を100%と考えて、今の症状をパーセンテージにしてみると、
くしゃみ:60%
鼻水:30%
喉のかゆさ:20%
目のかゆさ:20%
鼻の中の膨張:30%

数字にしてみるとかなり減っているなあ(どんな計算や)。
この変化はうれしい。やまんばのからだの中で何が起っているのか。(おばばになって鈍感になっただけか?)

まず言えるのは、喉がほどんど反応しないことだ。これは明らかに歯磨き粉をやめたせいだ。喉の粘膜が強くなっている。花粉症やアレルギーは、免疫が過剰に反応することによって引き起こされている。つまり免疫さんが神経質なのだ。
「あ〜〜、これってスギ花粉ね!嫌い嫌い、あ〜っ、このイガイガしたのが嫌いなのよ〜〜!こーしてくれる!」
って、くしゃみをし、鼻水をたらし、必死になって花粉を身体の外に押し出そうとする。この神経質な身体がおおらかな性質になると、
「あん?スギ花粉?いーんじゃないのー?」
と、反応しなくなるんで、いくらでもスギ花粉さんは居座って、そのうちいなくなる。ぬらりひょんみたいなもんか。

冬の間に熱を蓄えるために固く引き締まっていた身体の組織が、夏に向かうために、一気に体中の組織を広げ始める。その爆発的な膨張という変化の中で、少し刺激的なものをもらうと、その変化はより活性化する。だから春の野草は苦い。その苦さを食べ、おなかにたまった老廃物を押し流していくのだ。スギ花粉もあるいはそんな刺激を与える役目をしているのかもしれない。それまで季節の変化とともにバランスがとれていたからだの中の刺激と変化が、石けんやシャンプー、歯磨き粉、はたまた人口化合物を取り込んだニンゲンの身体が、免疫力を著しく落とし、それに対抗するために過剰な反応を起こすのが、アレルギーなんではないだろうか。

ひょっとしたらこの花粉症の症状は、このまま持続しないのではないかとひそかな期待を持っている。春への身体の準備が整うまでの間、からだに刺激を与えているのかもしれない。
なんちゃって〜。つごーよすぎ?



さて今日の絵は、出ました。メディアファクトリーさん新書シリーズ。
その名も「パンダ外交」!テケテケと地球を歩くパンダさんを表現してみました。
中国にとってパンダは最高の外交アイテム。その愛らしさで、世界中をしあわせにしてくれることを願います。

2011年2月24日木曜日

感心事は自分です




人生における一番の感心事は何?
ゴルフ?地位?お金?子供?彼女?神?世界平和?
正直言っちゃいなさい。ほんとは「自分」でしょ。

「私の人生の一番の感心事は自分です」
なんてみんなの前で言っちゃったら、即ドン引きされるだろうね。
ましてやちょっとでも心の中にそんな思いがよぎっちゃったら
「ああ、いけない。私って自己チュー」
と、プルプル頭を振るかもしれない。

なんだか知らないが、自分に感心があるということは、イケナイことのような風潮がある。自分のことを第一に考えることは間違ったことだという人もいる。しかし自分の人生において、自分が向上したり幸せになることを願うのはしごく真っ当なことなのではないか。
「大人として」それを正直に認めることはめったにないとしても、そのことのどこが悪いのだ?恥ずかしいから?

でも人は根本的に自分に感心がある。つまりこーゆーことじゃないかな。人々はいろんな伝統的やイデオロギー的理由によって、それは間違ったことだと考えるのだと。なんでそこに間違っている、という要素を持ち込むのかと。それは単なる考え、観念なのだ。人間は、根本的に永続的に自分自身に感心がある。これは真実なのだ。

するとこう言う人もいる。
自分のことを考えるよりも他人のことを考えて助ける方が満足感があると。えらい人だなあ。しかしよく考えると、それだって自分が満足するからであって、うれしいわけで、つまりは自分の満足のためではないだろうか。何か違いがあるだろうか。これも同じ自己感心ではないだろうか。他人を助ける方がより大きな満足感を与えてくれるのであれば、その人は自分により大きな満足感を与えてくれるものに関心を持っているということになる。やはりこれもぐるっとまわって、自分に感心があるのだ。

そんなことはない!と言われるかもしれない。しかしその言葉も、どこかでその人が「自分中心にものを考えてはいけないのだ」と思い込んでいるからじゃないだろうか。それはいけないことでもいいことでもなんでもないのだ。これは自然な根本的な真実なのだ。それがいけないとか、いやそれはこう言う理由があってやっていることなのだと自分を正当化せず、非難もせず、その巧妙な心理のこんがらがった、からみまくった縄をじょじょに解きほぐしていくのだ。そしてこの世の条件づけから自分を自由にしていくのだ。

ちなみに誰かのためにやっていると、たいていそのうちもめる。ダンナもそうだな(笑)。
「あたしがこんだけやってあげているのに。。。」
と不満が出る。それはやってあげていると思っているからだ。
ところが、これは自分の喜びのためにやっているのだと気がついていれば、もめることはない。この世のもめ事もちょっとは改善されるってえもんよ。。。(?)


さて、今日の絵はニッポンについ最近やって来たパンダちゃん。中国からのかわいいプレゼント。。。。とは単純に言えなさそう。
中国もいろいろたいへんです。

2011年2月23日水曜日

鳩山由紀夫 似顔絵




仏教の教えの、チョト違うなあと思うところは、私たちが抱える思考の山や108つの煩悩など、頭にうごめく考えを、力で粉砕させようとしたところなんだな。

考えないことや、思考を止めるために、滝に打たれたり、同じ文句を言い続けたり、ひとつの文字を見つめたり、イメージを展開させたりするのが、思考を止める方法なんだけど、考えようとする人間の意識を、別のところに追いやろうという手段を使っているわけだ。もしそれが成功していたなら、もちょっとしあわせな気がするんだけどなあ。。。

ところが思考という奴は(心といってもいいけど)、押し付けたり、コントロールしようとしたりすればするほど、巨大になるのだ。その巨大化した思考をなんとか止めようと必死になって、なおのこと力づくで押さえ込もうとする。その繰り返しをしているような。。。。

たぶん私たちは今までその思考というものがどんな存在であるかということ、どんな特徴を持っているかということを、誰も真剣に考えて来なかったんじゃないかと思う。仏教では、とにかくそれはイケナイことだというだけで、そうしてしまう理由を追及して来なかった。

お釈迦様が生まれて2000年ほどたっても、ほとんど変わらないのは、それが方法論だけに終始してしまっているからではないか。ほんとは、もっと手前の、ころころと動いて、ぴょんぴょんと跳ねて、とらえどころのない心というものを理解することだったんじゃないかとおもうのだ。

たとえば、言うことを聞かないやんちゃな子供を力でねじ伏せても、やがていつかその子は爆発するでしょ?それをまたコントロールするために、もっと大きな力でねじ伏せる。そんなことばっかりしている気がする。
そんな方法論は世界中どこでもやっている。武力でねじ伏せることもそうだ。歴史はそれの繰り返し。

きっといい先生は、なんでその子は大人の言うことを聞かないのか?とその子の気持ちになって考えるはずだ。するとなんでやんちゃをするのかがわかる。きっと自分の中にある葛藤をどう処理していいか分らずに暴れるのだ。はたまた暴れることで大人が自分に注目してくれているということに執着しているのかもしれない。ゆっくりじっくり見ていると、どう対処すればいいかわかってくる。力で押さえつけることより、まずはその子の中に入って、その子をよくみることだ。

思考はねじ伏せても逃げ回る。巨大化する。しかし思考とは何か?どういった特徴を持っているのか?とそれ自体を観察し理解すると、それはふっと消えていく。

闇を見て、お化けがいるかもしれない、こわいこわいと背を向けてその闇を見ないようにすればするほど、恐怖は大きくなるが、勇気を持ってじっとその闇の中を見つめると、そこには何もないことを知る。するとその人の中から恐怖は消えているのだ。知ることが恐れをなくしていくことなのだ。

思考は絶えず恐怖と一体化している。漠然としたあらゆる恐怖をつねに感じながら、そこから逃げるために、四六時中非難と正当化を繰り返しているのだ。


今日のモンスターちゃんは、鳩山由紀夫ちゃん。
ちまたでは宇宙人とか言われているけど、どうもやまんばには「勘違いお貴族さま」という感じがぬぐえない。やまんば的には好きなお顔です。真面目に少女マンガに出てくる美男子にしてしまいたい衝動に駆られるが、でも遊んじゃいました。


絵:「モンスター列伝・第二幕/鳩山由紀夫」

2011年2月20日日曜日

亀井静香 似顔絵




私ら人間は、思考は絶対的なもんだ、と信じて疑わない。ロケット飛ばすのも悟りを開くのも思考があってこそなのだ、と信じて疑わない。しかしその思考がこの世の悲惨も招いた。

暇なやまんばは、思考ってそこまで絶対的に必要なもんなのだろうか、と考える。
頭の中で思考すると、言葉で考えている。言葉はすでに知っている過去の産物だ。私たちは未来を考えたがる。ところが未来は私たちには何も想像できない。だってまだここにないんだもん。1分先が見えないことは怖い。で、私たちは、過去の経験を通して、「うん、1分後にはこうなるだろう」と予測をする。つまり、過去の経験を使って未来を予測するのだ。だがそもそも過去とか未来とか言う時間を作り上げたのも思考なのだ。

勝手に未来という概念を作り出して、「お先、まっくら」という恐怖も作り上げた。
犬見てると、「お先、まっくら」という顔をしていない。
「今があるだけですが、なにか?」
みたいな顔をしている。

人間だけが、あたまがぼーちょーしている。その原因は思考だ。私たちは思考というものを買いかぶりすぎている。世界の哲学も宗教も戦争もすべて思考が作り出した。思考だけが至高の営みなのだと思い込んでいる。(しゃれ)

ほんとにそーなのか。
思考があらゆる自然な流れをさまたげていないだろうか。こうやったらいい、ああやったらいい、あの人のようになりたい、こんな自分はイヤだ、そんな考えがいつも心の中にぐるぐるしている。何かになりたがるのは思考のなせるわざじゃないだろうか。
思考が作り出すのは「こうあるべき」であって、「あるがまま」ではない。私たちは今ある自分を見るのが怖い。それは思考が常に「こうあるべき」とそそのかしているからだ。それによって、実はものすごい労力を使い果たしているんじゃないだろうか。頭の中でぐるぐるする自分じゃない誰かのになろうとする努力。これほど無駄なことはないような気がするんだが。


今日のモンスターは亀井静香ちゃん。
転んでも絶対起き上がってくるダルマみたい。その根性を表現してみました。

しかし達磨大師もその思考と戦って座り続けたんだよな。。。足腐るまで戦うのはちと違うような気がする。思考と戦うもんではなくて、思考とはいったいどんな性質をしているかを理解することの方が、足腐らせずにすむような気がするんだが。。。

絵:「モンスター列伝・第二弾/亀井静香」オリジナル

2011年2月18日金曜日

菅直人 似顔絵




あんまり人の悪口いっちゃいけないんだけど、菅さんはあまり頭がよさそーには見えない。なんかどこかおろおろきょろきょろして、何かを常にとりつくろっている感じで、落ち着きがない。かわい〜お顔はしているんだが、その自分のお顔の良さを知っているあたりが、みょ〜に気に入らない(なんじゃそりゃ)。政治家たるもの、そんな道具を利用するな!ってかんじだな。

描いてて相当な女好きとみた。鼻のカタチでナニが想像できちゃったりする。

だけど心の中はさびしそーなのだ。その心の中は、夕暮れの寂しー雰囲気に包まれている。カラスなんかが、かあーかあーって、鳴いちゃっていたりする。

そんな菅さんにしました。
この方が今の日本をしょってます。


絵:「モンスター列伝・第二弾/菅直人」オリジナル

2011年2月16日水曜日

小沢一郎 似顔絵



似顔絵はやまんばがイラストレーターになるきっかけを作ってくれた。だから一番キャリアが長い。最初はソープランド譲からはじまったなあ〜。写真は出せないよね。それで私がかわいく描いた。ちょっとは宣伝になったかな?それからミュージシャン。NYにいく前に母のところに昔の作品を預けておいたものを久しぶりに開くと、でてくるでてくる昔の似顔絵。プリンスを知ったのも似顔絵の仕事からだった。「戦慄の貴公子」にはまったなあ〜。

さて、今日は今話題の小沢一郎。悪の権化と言われているこのお顔。最近はネットのインタビューによく出てくる。笑うとかわいいお顔をしている。男の人はいいよなあ。どんなナントカでも、自分というものがあると、なんだか味わい深いお顔になってくる。化粧もしないし、ほんとの地顔が出るってもんだ。彼のじっと構えた忍耐の顔がどうしてもお地蔵さんに見えて来て、思わず描いてしまった。オリジナル。ひさしぶりの「モンスター列伝」、勝手にわたしが第二幕はじめます。

絵:「モンスター列伝・第二幕/小沢一郎」オリジナル

スギのお山まっちゃっちゃ!




先日、道志村に別荘を持つ友人宅におよばれした。基本出不精な二人が、道志村でたのしい非日常を体験しての帰途、お山の異変に気がついた。大たるみ峠を越えるあたり、お山の色がなんか変だ。
まっちゃっちゃだ!まっちゃっちゃ。まっちゃっちゃ。スギにおおわれたお山全部が、まっ茶色なのだ!スギは広葉樹ではないから枯れない。一年中緑色のはず。それが、まっちゃっちゃ!(しつこい)

なんと。スギのお花のつぼみがたわわわわ〜に、ほころんでいらっしゃったのだ。この季節やってくるスギ花粉飛来。スギとヒノキはその準備をする。しかしだ。こりゃなんだ!?多すぎる。多すぎるよ〜。がんばりスギ、スギちゃん!
花粉症克服中のやまんばは口をあんぐり開けたままその山々を眺めるしかなかった。

ふつー、「あ、ここにつぼみがついているのねん」と、木の所々に茶色の固まりがあるのを確認してつぼみだとわかるのが、いつものパターン。しかし木全部が茶色をしているのだ。。。つまり木がぜ〜んぶ、お花だらけってことだ。これがキンモクセイなら、「きゃ〜すてきっ!」となるが、スギさんにそうなってもらっては、こっ。。。困るのだ!(勝手な話じゃ)

ウチの家の前の杉林はそこまでついていない。これは北斜面だからか。私が発見したまっちゃっちゃ杉林は、南斜面だった。太陽に照らされて、がんばっちゃったんだろうか。しかし庭に勝手に植わっていたスギの木が、今年初めてつぼみをつけた。ということは、今年は何かいつもと違うことがスギさんに起っているのかもしれない。


さて、勝手に石けんなし生活を初めてもうすぐ3年目に入る。今年の私の花粉症はいかに。
1月末、花粉飛来を鼻と目と喉の粘膜で確認。畑で鼻水ずーずー、くしゃみ50回ぐらいやった後、おさまった。喉のかゆみもない。たま〜に「あ、花粉。。。」と思い出した瞬間、鼻の奥が膨らむのを感じる程度。
今のところはこんな感じ。あの大たるみ峠のスギちゃんがいっせいにパフ〜〜〜〜〜〜っ!とやってくれちゃう頃には、やまんばの粘膜はどう反応するのか。

お、お、お、おりゃ〜、どっからでもかかってきやがれ!
(半ば怖がっていきがっている)


絵:サボテン

2011年2月14日月曜日

コスモポリタンな人




やまんばの若かりし頃、生き方のバイブルは、雑誌「コスモポリタン」だった。そこには新しい女の生き方が満載。大学時代にその創刊号を初めて手にしたとき、うぶなやまんばはコーフンした。

女は強くなければいけない。
女は美しくなければいけない。
女はどん欲であらねばならない。
世界を股にかけて行動しなければいけない。
あらん限りの贅を尽くして、この世の富と権力を身につけねばならない。
男とはつねに平等であらねばならない。自分の名誉のためには、徹底的に戦い尽くす!

と、いうようなことを毎月あの手この手で、私らやまんば世代(勝手に世代を作るな)をそそのかしてきた。いや、言葉が悪いのー。そそのかしたんじゃなくて、導いて来た。うん、導いて来たんだな。

そのかいあって、私らはコスモポリタンな生き方をしなければいけない、とおもいこんだ。んで、女の理想の姿なるものを勝手に自分で作り上げて来たんだな。髪をわ〜っと風になびかせ、胸元を大胆に広げ、かっと両足を広げて大胆なポーズで立つ青い瞳の女性がいる雑誌の表紙を見ながら、
「ふむふむ。こんな風にかっちょいー女に、あたしゃあなるんだ!」
と、目標をかかげていたんだな。自分の容姿忘れて。

よく考えたら、そーゆー理想の生き方を全員がしちゃったら、みんなが一等賞になっちまう。そんなわけない。人生半世紀生きてみて、そんな女の人は、そう見かけるもんではないと知る。「コスモポリタン」という雑誌は、相当高いハードルをわしらにくれたんだ。

ところが、そのコスモポリタンする女の人がたまにはいるもんなのだ。たまにいるから、その人の名をおたまさんと呼ぼう。
彼女はロンドンとNYと日本に家を持ち、その3つの都市を拠点に働くシングルマザー。彼女の身にどんなことが起っても、ありとあらゆる方法で一人果敢に乗り越えていく。これがまたありとあらゆる災難が彼女の身に降り掛かるんだな。なんでかしらんが。で、その巨大な災難をばったばったと次々になぎ倒していくのだ。そのはかりしれないエネルギーと、明晰な頭脳は、アメリカ男もイギリス男もメロメロにさせる。80過ぎの大富豪までも!
これをコスモポリタンな女と言わずして誰をいおうか。

そーゆーお人がいるから、やまんばは知らず知らずにおたまさんと自分を比べて、
「あ〜、情けない私」となる。
いかんせん、大学時代に「コスモポリタン」な女な生き方を目標としてしまったのだ。ことあるごとにそのお手本の生き方と自分を比べて「こっ。。。この、役立たず!」と自分をののしるのだ。んでもって、そんな自分をテッテー的に嫌いになる。


夜、やまんばは窓を開けてお山を見る。
「なんで自分が嫌いなの?そっかー。。。。私の目標はおたまさんなのだな。。。じゃあ、ほんとに私はおたまさんになりたいのか?。。。いんや。ほんとはなりたくない。。。」

人はいつも自分ではない「なにか」になりたがる。だが、その「なにか」は、本当に本当のこといえば、どこにもないのだ。それは全く外にはないのだということに気がつく。それはきっと心のどこか奥深くに描いている自分の内側にある何かの姿なのだ。その「何か」は他でもない自分自身なのではないか。自分自身を徹底的に生きることが本当の自分の目標なのではないか。だから外にいくら目標を求めても見つけられないのではないのか。この世の人々がこんなに苦しいのは、外にばかり目標を求めるからだ。その外にある目標と自分を比べては、それと違う自分を嘆く。。。私たちはそんなことを延々と何千年も続けているのだ。どっかで道を間違えたのだ。そろそろそ方向を修正してもいい頃じゃないか。

さてコスモポリタンとは世界主義者という意味なんだが、自分自身を生きるのはなんてえのんだ?
全く逆じゃねえか!
けど、ひるがえってみると、ほんとは同じことなのかもしれない。。。。地球をくるっと一周して自分に帰る。。。みたいな?


絵:「女学生」

2011年2月10日木曜日

恐怖のお膳立て




私は恐怖の固まりだ。
今回、自分が権力にいかに弱いかをまじまじと見せつけられた。それはその手の同じ問題で、過去に苦しめられて来た経験が津波のように襲って来たからだ。

ある日突然手紙が来る。その内容に脳天カチ割られたみたいになる。過去の記憶が怒濤のごとく押し寄せる。あのときこうつらかった、その時もあんな思いをした。。。。しかし、その手紙を受け取ったその時、ことは何も起こってはいない。ただ手紙があるだけだ。事実はその手紙を受け取ったら、その後どうなるかということがわかっているだけだ。

この世は不思議なもんで、その道のプロフェッショナルがたまたま私の近くにいてくれた。それもほんの短期間だけ。もし彼女がいなかったら、私は今頃どうなっていただろう。今回彼女には本当にお世話になった。私の状況は、彼女でもわからないことであり、忙しい中を寝ずに調べ尽くしてくれた。そのかいあって、あれやこれやと必要な書類を集め、彼女のおかげで、きのうやっと私ができる限りのことをやった。結果はどうなるかは全くわからない。あとは運を天に任すしかない。

NY時代の友だちが言った名言「その人が乗り越えられる問題しかやって来ない」。まさにそのとおり、運命は実にタイミングよく、彼女と出会い、私が乗り越えなければならない問題をもってきた。全く誰がお膳立てをしているのか。私自身!?

そう考えれば、何もかもがそんなふうに人生は動いている気がする。その問題はなぜやってくるのか。それはその人が何か気付かなければいけないことであり、そのまわりにくっついている恐怖とは何かを知るきっかけをもたらしてくれる。

手紙を受け取ってから、恐怖は私につねにつきまとった。今この瞬間は何も起こっていない。しかし人はなぜ恐怖するのか。それは、過去に起こったことを思い出し、これから起こるであろう未来のことを考えて震えるのだ。
 
私たちはその厄介な「恐怖」を外すにはどうしたらいいのか。
その方法は、克服しろ!とかコントロールしろ!とか、勇気を持て!とか言って、恐怖をふるい落とそうとする。しかしそれは単に恐怖を増大させるだけなのだ。私たちはまず、恐怖とは何かを理解する必要がある。

私たちの頭の中はつねに過去と未来を行ったり来たりしている。過去は既知のものであり、未来は未知のものである。
「あの時あんなことがあったから、未来にそんなことが起こらないようにしたい」という思いが駆け巡っている。しかしそれを考えている今この瞬間、何も起こっていないのだ。恐怖は過去と未来だけを行き来しているが故に起こってくる感情なのだ。

心はいつも何かにしがみつきたがっている。目に飛び込んでくる物質に反応する。コップを見たら、珈琲を思い出し、珈琲飲みながら、「あ〜、ふじだなの珈琲はおいしいなあ〜」となり、「あのおじさんどうしてるかなあ〜?」と思い出す。そのまま興味はおじさんに移り、おばさんに移り、町内会に移り、梅祭りに移り。。。。と連想ゲームが行われる。はたまた、部長に「なにぼけっとしている」といわれて、「な、何よー。珈琲ぐらい呑んでたっていいじゃないの。あたしは息つく暇ももらえないの!だいたい部長ったらねえ。。。」と続いていく。過去を思い出し、未来をうれい、そして未来に夢を託す。

私たちは延々とこう言う心の連想ゲームをやっては恐怖しているのだ。
それは生きている実感を得られると言えるが、それではいつまでたってもその洗濯機の中でぐるぐる回っているだけなのだ。
仏教で瞑想するのは、そんなふうにぐるぐるぐるぐる回っている心を静めるため。しかし残念なことに、どうして心を静める必要があるのかを忘れている。そして心を静める方法論だけが残ってしまった。だからお経を読んでみたり、ひとつの文字だけを見つめていたり、自分の組んだ手の中に地球を思い描いてじょじょに小さくしていくことをやっているのだ。

そんなことしても日常の中では相変わらずぐちゃぐちゃだ。お坊さんはそのぐちゃぐちゃから逃れるために山にこもったりするけど、それは雑踏の日常から逃げているだけなのだ。

心を静めるために瞑想するのではなく、心がどんな特徴を持っていて、どんな動き方をするのかを知ることが、そしてそれを観察することが、本来の瞑想なのだ。恐怖と戦ってはいけない。振りほどいてはいけない。勇気を振りしぼらなくていい。恐怖することを非難してはいけない。ただそこに何があるのか見るのだ。

そうはいってもこの50年近く積み重なって来た恐怖の習慣。ほっといたら、すぐに取り囲まれる。しかし「あ、また怖がっている」と気付き、その恐怖のなかにじっと居座ることで、心が静かになっていくのを知る。その繰り返しが、やたらに恐怖しなくなっていく自分を発見することになるのだ。

これってたタダし、セミナー行かなくていいし、今この瞬間にできて、お手軽だぞー。


絵:カットイラスト/窮屈な地球さん

2011年2月6日日曜日

ほうれん草、うまかったかい?




お、お〜〜〜。ほうれん草がない。

スパルタで育てた一切肥料なしの、自力でがんばって長さ12センチほどに成長していたほうれん草ちゃん。寒さにもめげず、縦に伸びるのをやめて横にロゼッタ状に広がっていた。それがみ〜んなあとかたもなくなっている。その畝にほうれん草があった形跡もない。

鳥ちゃんだ。
大きく育ちそうな予感のノラボウ、順調に育っていたキャベツ、ブロッコリー、ステェックセニョ〜ル、ケール、芽キャベツ、バラのように広がった白菜、ことごとく鳥ちゃんについばまれていた。みんな芯だけ残して骨川スジエモンになっている。おみごと!

さぞかしうまかっただろうな〜。栄養たっぷりだもんな〜。
特にほうれん草!
ほうれん草は肥料食いといわれている。元肥を5センチの厚さは掛けないといけないといわれているほど。でもそんなことウチの畑はカンケーなし。自力で栄養とってこい!とほっておいた。そのおかげで、すこしず〜つ育っていたのだ。生でかじるとあま〜〜〜イ!濃厚な味がお口いっぱい広がっちゃう。あ〜、もう少し置いておこう。ちょっとつづ食べちゃおう〜と、欲かいているうちに、
「え?これ食べないの〜?じゃあ、食べちゃうよ!」
と、鳥ちゃんに食べていただいたのだ。
しまった。今頃だった。そうだ。上納金を鳥に渡したのは。

でもご安心を。鳥ちゃんは、
「ねえさん、ほうれん草うまかったぜい。ここにお代をおいておくぜい」
と、ぷりっと黒いちっこいお代を置いていってくれるのだ。
畑のねえさんは、そのお代でまたうまいほうれん草を作るのだ。(負け惜しみ)


絵:「かっこいいおにいさん」

チェルノブイリの森




あの悲劇から、四半世紀経ったチェルノブイリ。
原発に近い町は、廃墟と化したままだった。しかしその無人の町は今自然の宝庫となり、建物や広場には樹木が生い茂っているそうだ。
http://www.cnn.co.jp/world/30001530.html

専門家の人がそこで育った大豆や亜麻の種を調べると、茎や葉からは放射能が検出されたそうだが、種からは放射能はごくわずかだったそう。
我が身は大地から放射能を吸い上げ大地を浄化し、子孫には放射能を残さない。すごいなあ。偉大な母のようだなあ。

近所の友だちにパンつくってもっていくと、それはあっという間に育ち盛りの子供たちに奪われる。母はそのおこぼれをちょろっともらうだけ。だけど彼女たちは、それで十分満足しているように見える。そういう姿は美しく見える。
それと似ている気がする。
植物は大地に空気中にしみ込んだ放射能を我が身に吸収させ、何らかのかたちに変えて浄化させ、その子供たちには正常なDNAを受け継いでいく。

畑をやっていて思うのは、いかに植物が根っこから、大地に入っているものすべてを吸収しているか、だ。最近スーパーで買った野菜が科学的な味がするのに気がついた。たぶんこれは植物が根から化学肥料や農薬を吸い上げているからなのだろう。そしてまた有機肥料も吸われている。私たちは動物のハイキブツや発酵した家庭の生ゴミを吸った野菜もまた食べているのだ。

植物は大地を浄化している。
地球が美しく保たれているのは、海の中や陸地の植物たちのお仕事のたまものだ。すべてがバランスよく正常に働くように、ひたひたと黙々と、彼らの任務をはたしているのだ。その姿を見ていると、人がこうしたら大きくなるだろう、こうしたら効率よくなるだろう、味が良くなるだろうと、世話を焼くほど、ややこしい状況を作り出しているのがわかる。田や畑から排出される肥料や農薬は大地にしみ込み、川に流れ、やがて海にたどり着く。過剰なチッ素やリン酸カリが、海の自然も破壊していく。
諫早湾干拓事業で海が変わって来たのも、農業排水が理由なのではないか?あの不自然に作られた大規模な農地が、もし自然農で行われていたなら、海に損害はこれほどなかったのかもしれない。でもそもそも経済を見越しての事業なのだから、自然農でなんて考えもしないよな。ははは〜。

とまあ、しみ込んだり流れて来ちゃったりした過剰なものを、
「あーあ、またこれがきちゃった」
といいながら、陸の植物や海の植物はせっせせっせと地球を治してくれているのだな。チェルノブイリに育つ植物たちも、せっせせっせと働いてくれている。誰にお礼を言われることを望むわけでもなく。

本当は生物の頂点に立つのは、そしてこの地球の主人公は、植物なのではないのか。


絵:ワイン〜 ぶどうさんありがと〜