幸せすぎてこわい💙
なーんて言葉は恋愛の真っ只中だけの言葉だと思っていた。
60過ぎたおばちゃん(いやむしろおばあーちゃん)が、ほざく言葉ではないはず。
だけど幸せなのを怖がっている自分に気がつく。幸せをうまく受け取れないのだ。
「この問題が解決したら、私は幸せになれる」
そう思って、ひたすら問題と戦ってきた。
いや~。。。戦ってきた!とか言うと、めっちゃかっこいいじゃん。
ぶっちゃけ正直言うと、単に「問題にテイコー」していただけだった。
「これ、いや!あれも、いや!」
って駄々をこねるオババ。
太ってきたのが嫌だ!と、必死になって歩く、ストレッチする、飯を食わない、いろいろやる。
イッコーに変化がない。
ゼーゼーヒーヒー言うだけで、疲れ果てた。
も一回考え直す。
そもそもこれは本当に問題なのか?
旦那に聞く。
「太っている私、嫌い?」
「別に」
友達にも「トドみたい」と言われる。(ひどくね?)
でも、よく見てみると、からかわれているだけで、嫌がられているわけではない。
体の調子は、すこぶるいい。
「。。。。」
これって、問題?
問題を作ったのは私だ。私が「これは問題だ!」と宣言したのだ。
よーするに、人目を気にするオババがそこにいた。
あんなに太ってみっともない、と陰口を叩かれるのが嫌なのだ。
しかしその陰口は叩かれたのか?
いや。叩かれるであろうと推測したのだ。それってただの妄想じゃね?
ぶっちゃいくな猫ほど、愛されたりする。
ぶっちゃいくな猫は、「私はぶっちゃいくだ!」と嘆いたりしない。
人目など気にしない。むしろ誇りに思っているかもしれないではないか。
問題にしたのは私。
この世のジョーシキで自分を計り、これが良くない!これが問題だ!とレッテルを貼った。
それだけ。
この世のジョーシキほど、人を苦しめるものはない。
それに乗って、あれもこれも問題を作り、それに取り組んでも、また別の問題がさささとやってくる。「ああ、それだ。それも解決しなきゃ。。。。」
そうやって問題の歯車に巻き込まれて、永遠に苦しみ続ける。
さて、冒頭の幸せ。
問題が消えている時、じわじわと沸き起こってくる幸せな心。
60年間、不幸/問題/罪悪感が大好き人間だった私は、その無条件の幸せ感、無条件の喜びにまったく慣れていない。
縁側に座り、目の前の緑に圧倒されて心が震えながら、喜びがどんどん溢れてくる。
心を見てると、必死で問題を探そうとしているではないか。
「あれか?これか?あれでもない、これでもない。ヤバイ。マジで問題が見つからない。。。
このままいったら、喜びで死んでしまうかもしれない。。。」
心は、問題を見つけて(作って)それにテイコーする。
解決のために策を練る、戦う。
いっときの平安を得て、そしてまた新たな問題を見つけ、それにテイコーし戦う。
そうやってこの世界を維持させ続けている。
心が問題を探そうとする衝動は、この世界があると思いたがっているからだ。
私はまだこの世界があってほしい。
そやけどこの世界は苦しい一方。
だけどこの世界にも捨てがたい魅力はある。だからもーちょっと。。。
と、小さな心は私にちっこいニンジンをぶらぶらぶら下げてきているのだ。
問題が消えることは、すべてを捨てることじゃない。
すべてを手に入れることのようだ。
私はすべてを手に入れよう。
絵/Poppy Harmon and the Pillow Talk Killer/ミステリー表紙イラスト
ミステリーは問題から始まる。(あたり前田のクラッカー)