2022年1月31日月曜日

ひとつ


 

感情と体の感覚は密接に繋がっている。


イライラから、ぞくっとするものまで、

体を観察するとそれぞれに反応しているのがわかる。


イライラはピリピリした感じ。

不協和音がピョンピョンと不規則に現れて、

体のどこかがチクチクする。


お化け屋敷など、体全身が痺れる感じ。


他人に対する怒りは、体がギュッと凝縮して、

個と個がはっきりと別れ、自分と他人が分断された感じがする


恐怖が襲った時、キーンと頭の中に音がして、すべての感覚が一瞬止まったかのようになる。

そしてこの世界から自分だけがはじき出されひとりぼっちにされる感じ。村八分な気分。


怒り、悲しみ、嫉妬、どれも恐れが別の形をとっただけだ。

すべて体をすごく意識させられる。


恐れが来た時、

「自分は体で、限りがあり、弱い生き物だ」

という信念をぐんと強化する。



しかしもう一方、分離を感じない感情がある。

それが喜びや幸せ感。


喜びを誰かと一緒に味わったなら、

誰かの体とか、私の体なんて考えもしない。

分離感が全く消える。

一緒に喜びあい、一緒に笑い合い、一緒に幸せを感じる。




ワンネスという言葉がポピュラーになって久しいが、

そのワンネスの意味がコースを通じて知り始める。

本当に私たちは一つなのだ。


ひとつってことは、同じってこと。

誰かを責める時、実は自分をも責めている。

誰かに怒りを感じる時、自分を怒っているのだ。

人を呪わば穴二つ。よく言ったものだ。

まさにそれだった。


誰かを傷つける時、自分も傷つけている。

誰かをコントロールしようとしたり監視する時、

その人を檻の中に入れている。

しかしその檻のとなりに、もう一つの檻がある。

そこに自分も入っているのだ。



だけど喜びもまた同じだった。

誰かに幸せを送ると、自分も幸せになる。

誰かを祝福すると、自分も祝福される。

そして誰かを赦すと、自分もまた赦されるのだ。


その時、分離などない。

体など意識もしない。

その時、体は消えている。


愛の感覚が水面に広がる波紋のように、さあーっと広がっていく。

そこには自分とか他人とか、そんなことどうでもよくなる喜びが溢れていく。


愛か。恐れか。

聖霊か。自我か。


選択はすごくシンプル。

だけど難しい。


でも一旦その違いがわかり始めたら、

もう前には戻りたくなくなる。





絵:けんぽ表紙イラスト







2022年1月28日金曜日

怒りは恐れ


怒りは、恐れからくる。


ちっちゃなイライラも、ぶっ殺す!と言う爆発するような怒りも、

言葉が違うから違うように感じるだけで、みな同じ。


恐る何かがあって、その恐れを払拭させるために攻撃という怒りを持つ。


恐る理由は言葉。


これはいけません。

という法則(言葉)があり、

その法則にのっとって、正しい間違っているを定め、

「これはいけないことをしているのだわ!」と判断し、

その間違ったことをしている人を怒るのだ。


それは人はもちろん自分にも当てはまる。

これはいけませんを自分に当てはめ、自分は間違ったことをしている!と判断し、

「いけないわ。いけないわ。私、ああなんてことを。。。ぶっ殺す!」となる。(これ、私のパターン)




例えば、家トイレ、立つか座るか問題。


旦那が家で便座トイレでおしっこするとき、立ってするのか、

座ってるべきかという重要な問題である。


なぜなら立ってすると、尿が便器および床に飛び散るからである。

女性は常に座るので、尿が床に飛び散ることはおろか便器の縁に飛び散ることもない。

だからトイレ掃除に理不尽さを感じるのは女性ではなかろうか。

「私が汚くしてるんじゃないのよ!」と。


この小さなイライラは、旦那がそれに対して知らんぷりしてきた時点で、「ぶっ殺す!」となる。


さてこの怒りは、恐れから来るのか?

はい。


もしトイレが汚いことがいけないことだと教わっていなかったら、

汚いことが気になりません。

そもそも汚いという言葉さえも浮かびません。

そしてそこにバイ菌くんという恐ろしいキャラクターが登場。

バイ菌くんは繁殖する。バイ菌くんは病気を連れてくる。

イメージしただけで、恐れ震え上がります。

そんなことをヘーキでしでかす旦那に怒りを覚えます。

「ぶっ殺す!」




このように、恐れは言葉/思考/法則からくる。

こうなってはいけない。こうであるべき。

だからそうならないように、ああしてこうして。。


その法則が実は私たちをがんじがらめに縛る。

これが互いに攻撃を仕掛けるきっかけになっている。


だがこの世界にお互いが納得のいく形はない。

どこかで妥協しながら、心がチクリとしながら、だましだまし生きているのだ。


そんな生活に疲れが出てきたなら、

その法則は絶対的なものなのかと疑ってみる。

本当にバイ菌がない方がいいのか?

そもそもそれは本当にバイ菌なのか?


人の体から出た瞬間、汚いものというその法律はどこから来たのか。

つばもしかり。

そのほんの数秒前は、自分の体の中にあったのに。


ひょっとしたら、それを「知った」から怖くなってるとしたら?

私はバイ菌がなんであるかを知っている!

と思うから、恐れがやってきて怒りに変わるのでは。




形の世界は、自我が作り上げた信念によって見えている。

恐れを見出すために。

お互いがずっと分裂していようとするために。

戦い合わせるために。


その恐れのベクトルを真逆に向ける。

自分が知っていると思っている世界のあらゆることについて、

知っていると思っていることをやめていくのだ。




自分がなんなのか、何をしているのか、どこへいくのか、

世界をどう見たらいいのか、さっぱりわかりません。


というのは、

この世界に救済を求めることをやめること。

ここは救済などしてはくれない。むしろ恐れを助長するだけだった。


そうやってがんじがらめの法則から少しづつ後ろに下がっていくと、

だんだんと自分が犠牲者じゃないとわかってくる。


恐れが緩み始める。

この世界が動かしがたい重いものではなくなっていく。


怒りが、消えていく。



ちなみに怒りに対する私の対処法。


バイ菌とまではいかないけど、私の石鹸なし生活

いまだに続いているからもう13年かあ。


絵/MF新書表紙イラスト



2022年1月27日木曜日

奇跡のコースへの抵抗

 


コース/奇跡講座を読み始めても、やめていく人たちも多い。


その一番の理由は、キリスト教とはあまり縁がない人にとって、贖罪、聖霊、ゆるし、愛、光、父、神の子などのキリスト用語に抵抗感を感じてのことだと思う。


そしてその先に、もっと嫌なことが明らかになってくる。自分の罪悪感だ。

自我と罪悪感の話がこれでもかというほど出てくる。


日本人にとっての罪悪感とは、犯罪レベルの罪と同じほどに感じてしまい、自分とは関係のないことのように思えてくる。だからピンとこないと離れていく人も多いのではないだろうか。


私もコースを読み始めた時、キリスト教用語に辟易した。


「いや~~聖霊って言われましても。。。

あれですか?あの羽の生えたやつ。。(勘弁してくれよ)」


「はあ。贖罪ですか。。。(なんのことやらさっぱり)」


しかも普段使っている言葉、例えば「知識」という言葉も、コースで使う意味が全く違う。


最初に出てくる「奇跡の原理」など、丁寧な日本訳で書かれているのに、

なぜか日本人の私にはちんぷんかんぷん。

これは本当に日本語なのか!?と、あまりにも高い壁に阻まれた。


この本は、世界難解本選手権のかなり高いところにエントリーされるに違いない。


だから私もあっというまに本棚の肥やしにした。


しかしその後ゲイリーレナード氏の著書「神の使者」に出会ってから、

「こっ、、こんなすごい内容だったのか!」

と、もうキリスト教用語に引っかかっている場合ではない!と、がむしゃらに学んでいった。




多分最初の読み始めは、軽いジャブのような用語への抵抗だろうが、

もっと激しく抵抗が押し寄せてくるのは、罪悪感についてだ。


自我とはなんぞや。

そしてそいつが日ごろ四六時中、私たちに一体何をしているのかを徹底的に、

あらゆる角度で畳み掛けるように説明してくる。


自我とほとんど同一化している、いや同一化していることさえ気がつかない私たちは、自我そのものだ。

その自我そのものが隠しておきたいこと、つまりこの世界の原動力である「罪悪感」をあからさまにし、それを見なさいと教えられる。


これは辛い。

今までは世界の被害者であった自分が、実はそのドラマを作ったのは自分であったことがどんどん明らかにされていく。


「起こることが起こっているだけ」などと悠長なこと言ってられない。

その起こることは、他でもない自分が見たいと思っているものを作り上げていただけなのだから。

自分の中にある罪悪感を隠すために。


人や世界のせいにして、自分は無垢で要られたはずなのに、

自分の罪の意識がそう作り上げたのだという。

もう自我は大騒ぎしてその場で激しく転げまわり、地団駄を踏んで抵抗するに決まっている。


だがコースは脅しのためにあるんじゃない(笑)。

その罪悪感など存在しないという。


「えっ?」となる。

拍子抜けだ。


あなたは自我ではない。神の子なのだ。

その、自我と一緒に作った(見ている世界)はでっち上げられた妄想なのだと。

神の子だからゆえに、軽く宇宙などでっち上げられてしまうほどの力を持っているのだ。


もうわけわかんない。


けれども自我と一緒になって作り上げたものは存在しない。

ブッダが言うのと同じように、この世は幻想なのだと言うのだ。



結局コースは一体何が言いたいのか?


私たちは愛である。

それを思い出すためにあんなに分厚い、こっぱ難しい本がある。


しかし愛の意味を教えることは目指してはいない。

それは言葉をはるかに超えているものだからだ。


その愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることを目指している。




コースは最初はかなりきつい本だ。

自分の本性を暴かれるように思えるから。


しかしそれを超えて学べば学ぶほど、

本当はものすごく優しいこと(簡単だという意味ではなく)を

言い続けていることに気がつき始める。


神は私たちを愛さずにはいられないのだ。





絵:つばき

2022年1月26日水曜日

胡蝶の夢


 

胡蝶の夢。


夢と現実とがはっきりと区別できないこと。

とある。


中国戦国時代、荘子は夢の中で自分が蝶になり、花の上で遊んでいたが、

夢から覚めてみると、自分が夢で蝶になったのか、

蝶が自分になっていたのかわからなくなって驚いたという話。



これ、どっちかって話じゃなくて、どっちもだと思うな。


自分が蝶になった夢を見ている。

はたまた自分が人間になった夢を見ている。


荘子の胡蝶の夢は、私たちに別の見方を変えてくれる。

本当に私たちは人間なのか?と。




その夢を見ている自分とは、

コースによれば間違った心によって夢の中に没頭してしまった神の子。


夢と現実の区別がはっきりしていないのではなくて、

そもそも夢の中にしか、私たち(人間)はいない。


ブッダもこの世は夢だと言った。

この輪廻から出ろといった。


私たちは人間で、生まれては死ぬを繰り返す、

肉体を持った生き物だと信じ込んだ信念を捨てて、


夢から覚めようじゃないかと。




絵:「あめがくる」蝶と葉っぱ





2022年1月22日土曜日

さっぱりわかりません

 


先日の続き。

何もわからないということは、

何が正しいか間違っているか、判断できないということだ。


私たちはこの世界のことは知っていなければいけないと思っている。

知ってて当然。知っているのが大人。

だけど世界を見渡してみると、はたして知っていることって本当にあるのだろうか。


あることが世間を騒がせ、その解決方法を探す。

これがいい解決法だというかと思えば、まもなくして違う方法も出てくる。

そして今度はその問題自体に大きな疑問を投げかける説まで出てくる。


そんな一個の状況さえも、何が正しくて何が間違っているかわからないのだ。


知ってて当然は、どこへ行った?

知れば知るほどわからなくなる判断。

公のものだけでなく、個人的に起こる問題に関してもそうだ。


私たちはわかっているはずだという大きな呪いにかけられているのかも知れない。



コースは判断を自分でするなという。

この世界を知った気になって、自分でやろうとするなという。


この世界は秩序立った世界ではなく、混乱した世界だ。

そんな世界に正しい答えなどあろうか。

そしてこの世界は実在などしていないと断言する。


このクレイジーな考えに共感するほど、私にはいろいろ身に覚えがあり、

自分でやろうとすることや、自分があたりまえに使っていた常識を恐る恐る放棄していった。




判断は瞬時に起こる。

息するように判断している。


その判断が起こるわけは、そこに問題を見つけているのだ。

これは正しい。これは間違っていると。


例えば、体のどこかがチクリと痛い。

「ん?これはなんとか病の前兆なのではないか?」

チクリと痛いことをいけないことだと判断している。

そしていけないことは治さなきゃと判断している。

そしてそれはどこのお医者さんに、誰が一番いいのか?と判断している。

一つの出来事に無数に判断が起こっている。



判断が起こると、つまり問題だととらえると、

それを解決しなければいけないというふうに自動的に心が動く。

そしてその解決法に心は没頭し始めるのだ。


大人の私は、自分一人でそれを解決しなければいけない。

山ほどある情報の中でどれが一番正しくて、

どれがいちばんの解決方法であるか正しく判断をしないと、

私はとんでもない人生を歩んでしまう。。。

という恐れが私の中でドカンと居座ることになる。


私はだんだんとその自動反応が苦しくなってきた。




この世界があるという前提に立って、この世界の中で解決法を考える。

水平の考え。AかBかという選択。

お金を稼ぐか稼がないか。路頭に迷うか必死で生きるか。


そのどっちにも行かない考え。それが判断しないということだった。

AかBかという選択は自我とともに考えている。

でも判断しないというのは、自我とともに考えないということ。この世界に没頭しないということ。


その判断は私がするのではなく、この世界がなんであるかを知っているものに委ねるのだ。

そのものとともに判断する。その時私は自我とともにいない。




自動的な判断が起こった時、

「ん?これはなんなのか私にはさっぱりわかりません」

といってみる。

どこかがふわっと軽くなる。

心がこの世界にベットリくっついていない。



私が判断するもしないもなく、ことは勝手に動いていた。


ただ私の心の中が、オロオロ、バタバタ、大騒ぎしていただけだった。

自分でなんとかしようとすればするほど、ことはややこしくなっていった。



自分で判断をしないとは、自由になることだった。

私がこのちっぽけな体の中に収まっているものだとも思えなくなっていく。


大きな何かとともにいる香りが漂ってくる。






絵:MF新書表紙イラスト






2022年1月20日木曜日

雪の日の風景


 

先日雪が降った。

南国育ちの私はちょっとの雪でもワクワクする。


長野育ちのダンナは「そんなもの雪ではない」

とコタツの中で本/奇跡講座に夢中。外を見向きもしない。


だから一人でいつもの場所に出向く。

傘をたたんで、雪の中で佇む。

肩に腕に雪が降り積もる。

自分のカラダがまわりに同化していく。消えて行くみたいで気持ちがいい。


目の前に美しい風景を見た。

絵にしたくなった。


上の絵は、和紙で制作した「雪の梅林」。


アメリカのミステリーの仕事はパソコンでやるが、

自分の作品は和紙で、めいっぱいアナログで作る。


手で味わう和紙の感触がたまらない。

意図せずして出来上がる不思議な風景にいつも驚かされる。


しかしパソコンのイラレではそうはいかない。

触覚はマウスのみ。手の作業と、それを作る目の位置が違う。

これはパソコンならではの現象(笑)。

そして全てを計算しつくす。いわば偶然性がない。


このまったく違う二刀流のやり方に、昔はどっちが本当の私だ?と引き裂かれていたが、

今は一人ほくそ笑む。

どっちも私じゃ。




さてそれに近い感覚なのか、最近私はかなり無責任になってきた。


あおい青年期は4周ぐらい回った還暦過ぎたおばさんが、

社会に反旗をひるがえすわけでもなく、

密かに非社会人的になりつつある。。。。w


以前はものすごく世の中のことを深刻に受け止め、

自分の行為に対して全責任をかぶって生きていくのが正しい在り方だと思ってきた。。。

(ケーサツ官の娘っぽいやろ?)


んが、この頃どんどんアホになっていく。

そもそも私は何にも知らなかったのだ、何もわからなかったのだとわかってきたのだ。

アホの確信!


だから何かを決定しなければいけない時、

「私は何もわかりません」と心の中で言う。

それが実に爽快なのだ。


わからないことが恐ろしいことではなくなった。

むしろわからないことが、とても楽しい(笑)。


どゆこと?


長くなるかもしれんので、続きはまたのお楽しみ。




絵:「雪の梅林」/和紙