最近凝っているのは、今にいること!
(それはマイブームの次元なのか)
「今ここ」っていうカフェが近所にあるけど、あの名前をつけたオーナーさんはすごい。
それが一番できないことだもの。
「悟り」ってカフェに名付けるようなもの。
今にいることが全てのカギを握っているようだ。
今って、言ってみりゃ時間のことだけど、
どうも今とは過去と未来の間のことではなさそうだ。
過去と未来は時間なんだけど、
今は時間と呼べる代物ではないようなのだ。。。
頭の中を見てみりゃわかるけど、いつも過去のこと考えて、未来を心配することばっかりだ。
誰かさんのことを考える時も同じ。ほんの数分前の誰かさんの態度でさえも過去だ。
その過去起こった出来事を「あのやろう。。。」と考えているわけだ。
だから今にいない。
そして今にいるということは、判断できないってこと。
解釈も判断もみんな過去だ。
「あのやろう。。。」と思うってことは、あのやろうを思い出し、
あのやろうのやったことを判断解釈している。全部過去だ。
では今にいるって、一瞬のことだから、
その一瞬一瞬をどーやって維持するのだ?と、考えたら、即座にムリゲーだと思う。
そもそも自分で自問自答すること自体が無理。
だってその過去に囚われているのが自我自身だから。時間=自我。
だからその自我に聞いても外れたことしか言わん。知らないんだもん。
ということで知っている存在に聞く。
「ねえねえ。聖霊さん。今って何?どうやるの?それはどんなことなの?おせーて!」
と、聞きまくる。
聖霊さんは相変わらず黙して語らない。
「。。。。。」
ほんとはしゃべっているのかもしれないが、私が聞く耳を持っていないのかもしれん(苦笑)。
この頃頼りっぱなしだ。
私はなんもわかりませんと。
そんな開き直りの私に、あろうことか徐々に変化が起こってくる。
ホゲーっとそこにいられるようになってくるのだ。
それはなんというか、今までじっとしていると、
あれこれ考えが浮かんだり、とっかかりを探している心があった。
「あれはどうなんだろ?これは?」
と、心があっちゃこっちゃうろうろ落ち着きのないのがわかる。
気になる何かが浮上して、考えを誘ってくるのだ。
そう、過去や未来へのお誘いが。
例えて言えば、夏祭りの夜店にぶら下がってるいろんなおもちゃ。
「これはどう?あれなんかおもしろいよ」
と、テキ屋のおじさんが私を誘う~。
魅力的なおもちゃにそそられ、
「おじさん、それくださいな!」
「ホイきた!100円!」
「ありがとう~!」
と、まんまと乗せられる。
そんな幼稚園児みたいな私が、どうしてそうなっていくのかさっぱりわからんが、
あんなにキラキラして見えてたおもちゃが、どれも魅力的じゃなくなっていって、
だんだん薄くなって消えていくのだ。
そしてホゲーっとそこにいる。
心は目の前に見えているものに判断が起こらず、
聞こえてくる音にも関与しない。
五感が解釈をともなって働くことをしなくなる。
判断が起こらなくなれば、当然そこに感情も動かない。
人間としての機能であるもの、五感、思考、感情が、その働きを止めたなら、
もともとそこにあったものが浮上してくるのだ。
それが何と喜びだ。
部屋で一人、窓の外を見ながらニヤニヤする。
誰かがこの姿を障子の隙間からのぞいたなら、ほとんどホラーだ。
くれぐれも、「今ここ」にいる私を
のぞきませぬよう。。。。
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