コース/奇跡講座を読み始めても、やめていく人たちも多い。
その一番の理由は、キリスト教とはあまり縁がない人にとって、贖罪、聖霊、ゆるし、愛、光、父、神の子などのキリスト用語に抵抗感を感じてのことだと思う。
そしてその先に、もっと嫌なことが明らかになってくる。自分の罪悪感だ。
自我と罪悪感の話がこれでもかというほど出てくる。
日本人にとっての罪悪感とは、犯罪レベルの罪と同じほどに感じてしまい、自分とは関係のないことのように思えてくる。だからピンとこないと離れていく人も多いのではないだろうか。
私もコースを読み始めた時、キリスト教用語に辟易した。
「いや~~聖霊って言われましても。。。
あれですか?あの羽の生えたやつ。。(勘弁してくれよ)」
「はあ。贖罪ですか。。。(なんのことやらさっぱり)」
しかも普段使っている言葉、例えば「知識」という言葉も、コースで使う意味が全く違う。
最初に出てくる「奇跡の原理」など、丁寧な日本訳で書かれているのに、
なぜか日本人の私にはちんぷんかんぷん。
これは本当に日本語なのか!?と、あまりにも高い壁に阻まれた。
この本は、世界難解本選手権のかなり高いところにエントリーされるに違いない。
だから私もあっというまに本棚の肥やしにした。
しかしその後ゲイリーレナード氏の著書「神の使者」に出会ってから、
「こっ、、こんなすごい内容だったのか!」
と、もうキリスト教用語に引っかかっている場合ではない!と、がむしゃらに学んでいった。
多分最初の読み始めは、軽いジャブのような用語への抵抗だろうが、
もっと激しく抵抗が押し寄せてくるのは、罪悪感についてだ。
自我とはなんぞや。
そしてそいつが日ごろ四六時中、私たちに一体何をしているのかを徹底的に、
あらゆる角度で畳み掛けるように説明してくる。
自我とほとんど同一化している、いや同一化していることさえ気がつかない私たちは、自我そのものだ。
その自我そのものが隠しておきたいこと、つまりこの世界の原動力である「罪悪感」をあからさまにし、それを見なさいと教えられる。
これは辛い。
今までは世界の被害者であった自分が、実はそのドラマを作ったのは自分であったことがどんどん明らかにされていく。
「起こることが起こっているだけ」などと悠長なこと言ってられない。
その起こることは、他でもない自分が見たいと思っているものを作り上げていただけなのだから。
自分の中にある罪悪感を隠すために。
人や世界のせいにして、自分は無垢で要られたはずなのに、
自分の罪の意識がそう作り上げたのだという。
もう自我は大騒ぎしてその場で激しく転げまわり、地団駄を踏んで抵抗するに決まっている。
だがコースは脅しのためにあるんじゃない(笑)。
その罪悪感など存在しないという。
「えっ?」となる。
拍子抜けだ。
あなたは自我ではない。神の子なのだ。
その、自我と一緒に作った(見ている世界)はでっち上げられた妄想なのだと。
神の子だからゆえに、軽く宇宙などでっち上げられてしまうほどの力を持っているのだ。
もうわけわかんない。
けれども自我と一緒になって作り上げたものは存在しない。
ブッダが言うのと同じように、この世は幻想なのだと言うのだ。
結局コースは一体何が言いたいのか?
私たちは愛である。
それを思い出すためにあんなに分厚い、こっぱ難しい本がある。
しかし愛の意味を教えることは目指してはいない。
それは言葉をはるかに超えているものだからだ。
その愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることを目指している。
コースは最初はかなりきつい本だ。
自分の本性を暴かれるように思えるから。
しかしそれを超えて学べば学ぶほど、
本当はものすごく優しいこと(簡単だという意味ではなく)を
言い続けていることに気がつき始める。
神は私たちを愛さずにはいられないのだ。
絵:つばき
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