雨の音で目が覚めた。
うす暗がりの中で、頭に浮かぶもの、、
これは布団、これは天井、あれは雨、雨の音、時計、時間、、、。
頭にそれらが浮かんだ時、とてもきつく感じた。
布団が布団であるべきは、床との違いがないと布団と言えない。
雨は晴れの日がないと、雨とは呼べない。
互いが否定し合うことでそれが独立して成り立っている。
この、すべてに名前がついた、分離したものを
受け入れることがとても苦しくなったのだった。
心を静かにして、それらの名前とその物体をそっとしておく。
名前のない、物体のない世界が広がる。
雨は音として聞こえるが、そこに名前はなかった。
名前は判断だ。
そしてその判断されたものには、あらゆる解釈が詰まっている。
雨には、雨の日のいろんな物語があり、
そこに喜び以外に悲しみも、苦しみもまとわりついている。
布団だって、いろんな解釈が芋づる式に引っ張り出されてくる。
時間もまた、起きなければいけない、あれしてこれして、、、
とあらゆる行動の計画をねりはじめる。
その言葉や物体から引っ張り出されてくる自我の活動が苦しい。
自分で判断をしないということをやっている。
とは言っても全部判断しないことはできない。
気がついたらあっという間に判断して行動している。
だけど「これはどっち?」
と迷う時はすかさず、
「私にはわかりません。判断できません。聖霊さんに委ねます」
とお願いする。
そうはいっても「はい。こっちです」とは言ってくれない。
あいかわらずだんまりを決め込む聖霊さん。
しかし自分は知っているという程で、
自我と一緒に判断していることが苦しみに向かうことはわかってきた。
だからこそ、私にはわからない何かに委ねていくことは大事だ。
今朝のひとときは、そんな一連のこととつながっているのかもしれない。
形を形たらしめているのは私の判断。
この世界を作り上げている原因がそこにあった。
思いという原因から、形という結果へ。
その結果の苦しみは、原因を放棄することで開放される。
すべてが溶けてひとつになる。
すべてが赦されて広がっていく。
具象から抽象への道筋をほんの少し教えてもらった。
絵:「ささやき」和紙
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