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2026年9月8日火曜日

私たちは心で食べている

「銀河」和紙、水彩

 

近所に引っ越ししてきた若い人たちが、

農薬はもちろん、肥料も使わない自然農法、自然農、自然栽培、炭素循環農法などに興味を持っていることを知る。


私がそれを始めた頃は、誰も知らなかったというのに。

私はいつもちょい先を行く。

みんな後からついてくる(こらあ~。どこから目線や)。

お隣さんが勤める会社は、そういう農の形をバックアップしようという動きまであるらしい。

時代だねえ~。


私はというと、11年続けた畑を手放してもっぱらスーパーの野菜を買う。

近所を歩けばオヤジが畑からナスやらピーマンやらその場で収穫してくれて、

持ちきれないくらいもらう。


畑をやっていた頃は、農薬も肥料も入っていない野菜にこだわっていた。

山の植物たちと同じ。混ざり気のない自然がそのまま現れてきた純粋な野菜。本当に美味しかった。

だからその横で肥料をせっせと入れる虫食いだらけの野菜を毛嫌いしていたのだ。


ところが今は農薬も肥料もたっぷり入った野菜をありがたく頂戴できる。


理屈ではそんな危ないもの、体に入れてどうするんだ。

純粋なものを取り入れてこそ健康だろうと思うんだろうが、まったく違う。

そんなもの関係なく健康なのだ。


そういう経緯があるから今の私には言えることがある。


体は食べ物でできていない。


私たちは心で食べている。

心こそが私たちを健康にもし、病気にもする。


危ない野菜、安心な野菜。。。

情報が私たちをどんどん不安にさせる。

知れば知るほど混乱を生む。

探せば探すほど、さらに迷子になる。


私が自然農、自然農法、自然栽培、、、と

ありとあらゆる方法で試して訳が分からなくなったことと同じように。


そしてある日気がつくのだ。

これって本当?


物質にエネルギーがあるわけではない。

思いにエネルギーがある。


ありがたい思いで食べる。

喜びとともに食べる。

それが幸せを生み出す。


喜びで料理する。

喜びで絵を描く。

喜びが伝播する。


喜びって味わえば味わうほど、それが真の強さだと知る。

形はきっかけに過ぎない。

その形を見て、その後ろにある神を感じる。

どんな形であろうとも。


心が恐れを選ぶのか、

愛を選ぼうとする意志を持つのか。


恐れを選ぶのは簡単だ。

それ、いつもやっていることだ(笑)。

でもそっちではなく、

愛を選びたいという意欲を持つ。





思い返せば、マクロビとも名付けられていなかったマクロビのはしりの頃(30年前)、添加物や砂糖も一切とらず、豆をひたすら食い、荻窪の「ぐるっぺ」で無農薬野菜を買い、健康に気をつけていたにも関わらず、実態は心も体もボロボロで、井荻にある漢方薬屋さんで漢方を飲み続けしのいでいた。健康と呼ぶにはあまりに遠かった。


その頃の私は恐れを選んでいた。

物質に力があると信じ、その力に翻弄されることを恐れていた。

だからピュアなもの、力があるように見えるものを選んでそれを取り入れることによって

自分もピュアな体になれると信じていた。


だが実際は違っていた。

力は外から取り入れるものではなかった。


内側、つまり心という自分の宇宙が知っているものを思い出すことだったんだ。


それこそが本当の力。

すでに私たち自身が持っている力。







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2026年8月30日日曜日

無駄の中に愛がある。。。?

 


今年の夏祭りで気になることがあった。


その日は午前11時から町内にある小さな祠で神主さんを呼び祝詞をあげてもらい、ご神事が行われる。

その後町会の会館に戻って直会(なおらい)が催される。


日頃あまり顔をあわせることもない町会の人々も、

その時だけは日常を忘れて和気藹々と食べて飲み、親睦を深める。


ところが今回は私がここにきて最も質素な直会だった。

テーブルに並べられたのは、のり弁当とビールやお茶だけだった。


コロナ前までは、揚げ物などのオードブル、お刺身、漬物、お赤飯、汁物、

時には自分ちの畑で採れたものを持ち寄って和え物などにもしてきた。


そして隣の町会にあるお豆腐屋さんのお豆腐などが用意されていた。

それはお祝いに花代とお酒も送られてくることへの返し返される、

お互いの連帯の意味でもあった。

正直言うと、私は当初それをうざいなと思っていた。



コロナが始まり、全てが中止になっていった。

そしてここ二、三年から徐々に直会も再開し、夜の部の夏祭りも再開され始めた。

同じ皿を分け合うのは良くないと、一人一個のお弁当になっていったのは仕方のないことだった。

もしものことがあったらという可能性のために全てが縮小していった。

そしてたどり着いたのがのり弁一個。

町会の人々は何も言わず受け入れた。



合理的といえば、合理的だ。

誰かが誰かのお皿を突っつくわけでもない。感染の心配もない。

しかし隣り合わせで喋り合う時の唾はどうなるんだろう(笑)。


正直そこまでコロナに関してもう心配していないようだが、

合理性が別方向へ一人歩きし始めた嫌いがある。

準備するのがめんどくさい、忙しいから無理。。。

そこに今の経済の問題も。

物価がどんどん高くなる、食材もかかる。そりゃそうだ。



だがどうしても私の心に引っかかった。

コースによれば、この世は幻だから、

直会の食事が豪華だろうがのり弁だろうが、幻想は幻想だ。

そこに執着する私は自我の誘惑に乗っ取られている。

そう思えば思うほど、苦しくなった。


ふと合理性って愛だろうかと思った。

時間の無駄を省く。経済の無駄を省く。一人一個のお弁当。


日本に住んで長い外国人が、ある動画で言っていた。

日本にはシェアする心がある。

一つのお皿をみんなで取り分けて食べる。

するとみんないろんなものがちょっとづつ食べられる。それが嬉しい。

西洋は一人一つのお皿だけで完結する。

母国から来た人に、みんなでシェアしようといっぱい頼んだら、

誰も食べてくれなくて自分一人で全部食べる羽目になったと笑っていた。

僕、日本人の感覚になっちゃってたと楽しそうだった。


日本には同じ釜の飯を食うという考えがある。

そこで心はひとつになっていったのかもしれない。

いやきっとそうだったのだろう。

ひとつの釜の飯を食って連帯感を持つ。

楽しいも悲しいも分け合う。

楽しさは分け合うことで拡大する。

悲しさは分け合うことで軽減する。


昔の直会は非合理的で無駄だらけだった。

余ったオードブルやお刺身やお赤飯がたくさんあった。

だけどそれをみんなで分けて持って帰ってその夜の晩御飯になった。

ご神事で備えられた鏡餅の一部ももらって帰る。

私はワクワクして嬉しかった。


無駄の中に愛がある。。。


のり弁は合理的で経済的だ。

今年の夏祭りは夜の部が雷と大雨で途中で中止になったにも関わらず、

蓋を開けてみれば黒字だった。


町会は会社ではない。

そりゃあなんかあった時のための蓄えは必要だが、

必死になって町会にお金を貯めていかなければいけないことはない。

いざとなったら助け合うだろうことは町会の人たちを見ればわかる。


合理的に無駄を省いていくことで、

町会の中から何かが消えていくとしたら。。。



「夏祭りはいつも儲からないものなのよ」

昔の人はつぶやいた。

その言葉の中に深い愛を感じる。


町会の行事はお金を貯めるためにやるのではない。


ご神事を開いて人々が集う。

神を賛歌するための準備は決して無駄ではない。


それは翻って言えば、

自分を賛歌することになる。

神と私はつながっているのだから。


直会をどう捉えるか。

直会にどう接するか。

それは自分に向けたものでもある。


直会はそのためにあるのだなあと、

今回のこときっかけにじんわりと思った次第であった。









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2026年8月26日水曜日

こんなん出来ました〜。ありがとうございます〜。

「喜び」

 

昔、神と出会ったことがある。


って書くと、白いローブを羽織った後光が差す聖人と会ったとかイメージしちゃうけど、

そんなもんは何一つ見えなかった。


そこに物質的にあったのは、

何一つ遮るものがないものすごい広い空と、

ひたすら広がるひび割れた大地と、

完全なる無音の世界。


音がない世界にいたのは生まれて初めての経験。

鳥や虫などの生命の音がしない。

風の音すら飲み込んでしまうほどの無音の空間。


そこで私は神に出会った。

目の前には何にもないのに。

なぜ神と出会ったとわかるのか。


それは神の思いに満ち溢れていたからだ。

愛だ。


私は神にとてつもなく愛されていると、

これ以上ないくらい受け取っていた。


何もないのにはっきりと感じる神の思い。

受け取りきれないほどの愛の量。

愛は、その巨大な空間いっぱいに満ちていた。


私はひび割れた大地の上で喜びに耐えきれず、のたうちまわった。



コースを学び始めてそれが神の思いだと知る。

まったく形がない、抽象の世界。


だから私は神を形で想像することがない。

イエスでさえ、彼をイメージで捉えようとも思わない。


ずっと形を描いてきたからなのかもしれない。

その形の中にそれはいないことを知っている。

神はその背後にいる。


私は絵を描く。最近は器も作る。

しかし神は絵や器の中にいない。

だが喜びの反映としてそこに見えている。


絵を見たとき、器を手にした時、

そこに喜びがあれば、神がいる。





最近、私の絵を見て、心が癒されている人の話を聞いた。

その人は壁に私の絵をかけてなくて、ベッドのそばに置いてある。

眠りに落ちる前、


「意識がなくなる眠りの、、その前、、

夜と、朝の覚醒するまでの、

思考にあまりひきこまれない時間。

その時空の中で、

つくしさんの「喜び」を感じるのが、

情動に落ち着き、呼吸が深くゆっくりになって、

私には心地よい時間です。

包まれ、みちる体感。しあわせです」


それを聞いた時、心が震えた。

これはもう、、、私の仕業じゃない。


絵を描いたのは私なのかもしれないが、

絵が勝手に別のものになっている。

彼女が自分を導くきっかけになっている。

本当の自分自身を思い出すために。


絵とはこんな仕事をするものなのかと驚かされたし、

そんな仕事を請け負っていることがありがたい。



現代絵画って、投資の目的になっていたり、

小難しい論理で構築されていたり、

ちょっと眉間にしわを寄せて鑑賞したりするものとして捉えられがちな節がある。


私はもっと単純で、うわ!と思ったものを絵にしている。

いつも自然の中でそれを見つける。

そして出来上がったら、その絵をお山に見せる。

その時、ちょっと気恥ずかしい。

でも感謝とともに報告する。


「こんなん出来ました~。

ありがとうございます~」と。









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