2016年5月29日日曜日

ネガティブ連想ゲーム


思考ってなんなん?
どっからくるの?

それは風のよーなもんだ。

は?
風?

ふと考えつく。
ふと思いだす。

そのふとは、自分で考え出したものか?

あたりまえじゃーん。
自分で考えたから、ふと出てきたんじゃん。

ほんまか?自分で考えたことを、ふと、というのか?
ふとは、ふと、じゃないのか?

『ふと;
はっきりした理由や意識もないままに事が起こるさま。思いがけず。不意に。ふっと。』

これのどこが「考え出した」ことなんやねん(笑)。



ふいに出てきた考えに、あ、それそれ!って、その考えにとびついて、それに関するいろんなキーワードが次々に連想されて、思考が続いて行く。
そういうことが、私たちのあたまの中で起こっている。
次から次へ。

しかもその内容たるや、ほとんどネガティブなものばかり。
それに気がついたととき、「なんやねんこれは!」と愕然とした。
思考は、放っておくと、ネガティブ一直線になる。
なんで?


ネットを見るとおもしろいことに気がつく。
広告はほとんどがネガティブなことから始まっている。
ニキビ、紫外線、シミ、ぱさぱさの髪、白髪、加齢臭、シワ、ヨゴレ、菌、、、、

その「問題」を「解決」するには、これ!と、矢継ぎ早に商品の宣伝をする。それがいかに「問題」であるかもちゃんとそこには盛り込まれている。
何度も流される広告に、私たちはそれがいけないものだと思い込む。

もし、ポジティブな要素であったなら、商品が売れないではないか!
ニキビ、オッケー!それにはこの商品がおすすめ。。。とはならないではないか。



私たちには問題が必要なのだ。
小学校から問題はもらい続けていたではないか。
「問題」に「答え」ると言うパターンが。

問題を解決したときの「せんせー!わかったあー!」という快感は誰でもあるだろう。
先生は「良くわかったね」と褒めてくれた。あまたをなでてくれた。
あのよろこびはずっとおとなになっても欲している。褒められたい。ここにいていいと言われたい。

だから私は無意識に問題を探している。
その問題を解決さえすれば、褒められるし、ここにいてもいいんだと言う実感も持てる。そしてもっと言えば、人生の保証さえ得られるかも知れないのである。

だから私たちは、ふいに浮かんだ「問題」に着手するのである。
風のように流れてきた「問題」をガッチリつかんで、連想ゲームをするのであーる。




2016年5月28日土曜日

ヒマなもんだから、次の実験開始!


石けんなし生活の実験も終えて、石けんなしがあたり前になっちまった昨今、また新たな実験に取り組んでおる。

その名も思考観察実験(笑)!

これがよー。
おもろいんだー。
ヒマなもんだから、四六時中見てるんだな。

夜中におしっこに起きたとき、
お茶入れてるとき、
仕事してるとき、
畑で草刈ってるとき、
ダンナとしゃべっているとき、
ちゃりんこ乗っているとき、

あたまの中に浮かんでいくる「考え」を、見つけて行くんだ。
「あ、今こんなこと考えてる」
って、気がついて行くんだな。

そーするとだ。
ほとーんどの「考え」の内容が、ネガティブなことばっかりなのがわかる。

ああ、まだ仕事が出来てない。やばい。
デッサン狂っとるやないかい。
新しいアートディレクターに嫌われたらいややな。
これで次の仕事がポシャったらどーしよー。
野菜は大きく育ってくれるんだろうか。
やっぱり肥料入れなきゃいけないんかな。
あ、ダンナに否定された。
こんな人生でどうしよう。。
あの人に、人間的に低く見られてるんやないやろか。
もっと有益な存在にみられるよーにするには、どーすりゃええんやろか。
なんか変なオレオレサギにつかまったらどーしよー。
このまま老後に突入したら、どーなるんやろ。。
もうのたれ死にしかない。。。。

などなど、たくさん出てまいります。
ネガティブな商品なら、事欠かないぐらい大量に持ち合わせております!
在庫豊富!
あなたも一度、つくしスーパーにぜひお越し下さい。
あなたがお探しのネガティブ商品、必ず見つかりますっ!

てな、かんじ。

よくもマーこんだけあとからあとからわいてくるもんだ。我ながら感心する。

すると、不幸って、自分の思考から来るんやなってわかってきた。
もし思考がなかったら、その人はそこで不幸を感じない。
ほげーっとしていると、あたまの中にふいに「考え」がうかぶ。

あれっ、そうだ、そういや、あれやってない。やばいやばい。
とか、

「老後」と言うキーワードが出て来ると、
「体」と言うキーワードが出てきて、
その次に「健康」とゆーキーワードが出てきて、
次は「お金」とゆーキーワードが出てきて、
「仕事」とゆーキーワードが出てきて、
「営業」とゆーキーワードが出てきて。。。。。。
そうやって、心はその言葉の中に埋没して行き、なにかしようとドタバタする。

さっきまで、ほげーっとしてたのだ。
お山をながめて、ほげっとしてたのだ。
いや、ヒマなもんだから、ネット見たのだ。そしたら、「老後」と言う二文字に引っかかったのだ。その後の連想ゲームはさっきのとおり。

不幸って、動揺って、なんてことない、こんな所からもたらされる。

それをずっとくりかえしているのが、わしなのだ。

思考ってなんなん?
「考え」ってどっからくるのん?



2016年5月24日火曜日

大型コインランドリーへの冒険


毛布やふとん、干してばっかりじゃなくて、洗わなきゃ!と思い続けて、ウン年。
ついに重ーい腰を上げて、朝もはよから大型コインランドリーに冒険に行く。

慣れない車を運転して、だーれもいないコインランドリーに。
毛布2枚、夏布団2枚を、それぞれ2つの大型のドラムに入れて、びびりながらコイン投入。

全然動かない。げげっ!なんでやねん!
上の説明書を読むと、順番が逆だった(笑)。
順番通りやると、ついに動き出した。

コインランドリー使うなんて、ニューヨーク生活以来だ。あっちは個人の洗濯機なんてなかったからなあ。ひたすら、コインランドリー通いをしていたもんだ。

さて、毛布がまわっているのをじーっとながめているのにも飽きて、ニューヨークからの仕事の原稿を読みはじめる。

ふと、毛布を乾燥機にかけて大丈夫かな。。。?と心配事が頭に浮かぶ。
そーいや、夏布団、乾燥機ダメって書いてあった。。。
あっ。。。!洗濯から乾燥まで一気にやるヤツを押しちゃった。。やばい!

そこへランドリーの管理人さん(?)登場。
「あのー、この機械、途中で開けちゃダメなんすかね?」
「だめです」
「乾燥しすぎちゃったら。。。どうしよう。。どれくらいで乾燥するもんですかね?」
「わかりません。布団によります」
と、冷たいお言葉。(つめたかーねえよ)

ドキドキそわそわしながら、時計を見る。まだ15分しかたっていない。あと45分もこのドキドキ感を味わうのか!

非二元によると、起こることは起こるだけだ。マジ避けようがない。
そうだ、失敗しようが何しようが、ただ受け止めるだけだ。。。
そーだ、布団が縮んで足が出ようが、毛布が溶けてなくなろーが、あるがままを受け止めるのだ。。。

でっ、、、できなーーい!

と、心の中でおろおろしつつ、あっとゆーまに、終わったサインの「ピー」が鳴る。

おそるおそるドアを開ける。
原型はとどめている。
でも、こころなしか、縮んでいるよーに見受けられる。
でも、溶けてはなかった(笑)。

ダンナの足が出るかな?
まあ、いいや。
ナイショにしとこう(って、ばれるやん)。


ふー。
朝から一汗かいたぜ。


2016年5月22日日曜日

足りないものを足らすのが人生?


ちっちゃかった頃、親に気に入った服を買ってもらったとき、
天国にも昇る気分でうれしくてしょうがなかった。
毎晩、枕元にたたんでおいて、ながめてしあわせを味わっていた。
でもそれも2、3日で終わってしまう。
その服があることが普通になっちゃって、それからは枕元においてながめたりしなくなった。

それは大人になってからも同じだった。

人って、足りないと思ってたものが足りちゃったら、もうそれに興味がなくなる。

そこにそれがあるのが普通になっちゃって、
前みたいに、
「ああ、これが足りない、、、どうしよう〜」
ってな思いが、頭に浮かびもしなければ、なかったときのことなんて、思いだしもしない。
「ありますが、何か?」
みたいになる(笑)。

それが足りてしまうと、今度はまた別の「足りないもの」を自動的にみつけだしてきて、
「ああ〜、これが足りない、どうしよう〜」
と、悩みはじめる。

そーやって、人はえんえんと、足りないものを探しつづける。
それって、どーよ。
それが人生とゆーものだ、というのなら、
あんまりおもしろくないもんだのー(笑)。


先日、ある本を読んでいて、はっとした。

足りないものが手に入ったから、しあわせになったのではない。
服が手に入った瞬間、「足りないものを探す」と言う思いが消えてなくなり、私たち本来の満ちたりた思いが、ただそこに現れてきただけだ、と。

「足りない」と言う思いが、不幸やジレンマを作っているだけであり、また、足りないと言う思いが、本来のしあわせを覆い隠しているだけであって、それが消えたとき、そこにはただ満ち足りたしあわせだけがある。

私たちはそれを、忘れているだけだと。

欠乏感、不安、あせり、悲しみ、怒り、なんでもいい。
思考はそれを使って、不幸をつくり出し、この世に臨場感をもたらす。
ジェットコースターで、上がったり、降りたり。
それをえんえんとつづけるのもまた一興だろう。


でも私はもうそうやってでぐるぐるするのに飽きたぞー。

いーっち、ぬーけ、たあーっ、と。






2016年5月18日水曜日

今、どんな気持ち?



じっとしていることがない。

ご飯作ったり、
LINEやったり、
テレビ見たり、
明日の準備のこと考えたり。

少し間が空くと、あわててなにかすることを探している。

することがないと、あわててなにかを考えようとしている。

考えることと言えば、足りないもの探し。
まだあれをやっていなかった、
体のどこそこが調子が悪い、
そうじしなきゃ。。。

かとおもえば、ふと思いつく、あいつのこと。
あいつがあんなことさえ言わなければ、
あたしはこんな不快な気持ちにならなかったのに。
瞬時に不快な気持ちが思いだされて、
次は似たような不快だった事件を思いだす。

そうやって連想ゲームが続く。

あっ、もうこんな時間。
ご飯作らなきゃ。。。


心はつねにどこかに飛んでいく。
心に浮かんだ事柄に、体も突き動かされる。
ああでもない、こうでもない。
延々と。

そのとき、
まてよ?
今、私はどこにいる?
と、聞いてみる。

家の中。
窓の外には窓いっぱいの緑。
風が樹々を揺らしている。
まるで私の心のように、散り散りに。
不安定。不安な気持ち。

ホントにそう?
今、どんな気持ち?
うん。。と。。。

今、どんな気持ち?
えーっと。。。。

ぷるぷると振るえているなにか。
とらえどころのないなにか。
ただそれをじーっと見る。
言葉には出来ないなにかがある。

ぷるぷると振るえているものを感じ続ける。
じーっとその場にとどまる。

もう一度聞いてみる。
今、どんな気持ち。。?


それまで騒いでいた心は、ただここに安らいでいた。



絵:「苔」/「つくし紙絵展より」


2016年5月17日火曜日

会期中のひとり言



展覧会が無事終わった。

自分がつい最近まで描いていた絵が、ひとつひとつ、きれいな額にきちんとおさめられて、白く広々とした空間に、さあ~~っと、美しく飾られている。

ああ、やってよかったなあ。。
しみじみ思う。
人はどんなふうに思ってくれるのかな。
あの人、来てくれるかな。。。
。。。
来ない。。。。
うーん。
はがきだけじゃダメだったかな。。。
。。。
こっ、、こない。。。
やばい。。。。
電話しよっと。
「もしもし?今やってます~。え、無理?こ、来れない。。。?あ、ソーですか。そちらも頑張ってください。はい。ではまた」
プーップーップー。。。。

こないだとお~~~っ。
なんでだよ~~~っ、
あなたに見てもらいために描いたのにい~~~っ。。。。
と、呟く自分に、はたと気がつく。
いつのまにか、誰か特定の人のために描いていた。

でも、、
そのおかげでこんなにいっぱい絵が作れちゃった。
うん、あの人に感謝だな。うんうん。ありがとう~。

さて、人は来るかな?
。。。。
来ない。。。。
う。。。。
じぇんじぇん来ないやんけ。。。。
どっ、、、どないしょーーーっ!

こーやって、人が来ないあいだはもんもんとし、人が来てくれるとうれしがる自分を発見する。ま〜、なんと心のアップダウンの激しいこと。
何もしてないと、自分の心がいろんな内容にボンボン飛び交ってめまぐるしく動き回っているのがわかる。しかもその内容はネガティブなものばかり。

思わず聞いてみたい。
展覧会期中、作家は、人が来ない時間をどのように過ごすのだろうか。

考えたら、
『人が来る=仕事になる、または絵が売れる』と言う方程式はないし、
『人が来ない=仕事にならない、または絵が売れない』と言う方程式もない。

なのに、思考は勝手にその方程式を組み立てて、人が来ない、→ 仕事にならない、→ おまんまが食えなくなる、という答えを導き出しておおさわぎする。
問題だ!問題だ!どうにかしなきゃ、なにかやらなきゃ!と。



これがその「思考に巻き込まれる」って事なんやな。

たしかに頑張っちゃったのは、ある人がきっかけだ。でもそのきっかけがあったから、ここまでいろんな挑戦が出来た。しかもトークライブまで大胆にもヤッちまって。

いや待てよ。
その人のために描いてたんじゃないぞ。

作っている最中はホントに楽しかった。道ばたに咲く花、山にわざわざ茂っている草たち、地面にへばりついた苔!みんな美しかった。そして、あわててそれを作品に写しこんだ。その時、その人のことなど考えてもいなかった。。。。

それを思いだしたとき、
「ああ、私は人の視線を忘れていたんだ。。。」と思いだした。

今、画廊でひとりで座っている。人の視線を思いだしている。
だけど私のまわりにいるこの作品たちは、人の視線なんかこれっぽっちも気にしていなかった。


そう思ったとき、心は柔らかく、その空間にとけていった。






2016年5月15日日曜日

つくしのトークライブ / Tsukushi_talkshow





「つくし紙絵展」、無事終わりました。
たくさんの方々にお越しいただきまして、本当に感謝しております。
ありがとうございました。

今回ははじめての試み、トークライブをやってみました。
切り絵のこと、畑の事、石けんなし生活の事、心の事など、いろいろしゃべりました。
なんだかものすごいいきおいで喋ってて、わかりにくい所がいいっぱいと反省しております。。。。orz

お時間がある方はのぞいてみてください。
生やまんばが登場しておりますw

「もっと見る」をクリックしてもらえると、項目別にわかれておりますので、見たい所をクリックするとその場所に飛びます。

よろしくおねがいしま〜す!

2016年5月3日火曜日

受け取り下手

受け取り下手ってあるんやな。

ほめてもらっても、「イヤイヤ。私なんか。。」
といってしまう。

一見謙虚に見える。ほめられていい気にならない、自分をセーブするオトナな人。
ともいえるが、別の面もあった。

せっかくもらった宝石の言葉を素直に受け取れないのだ。
うれしい!と言う気持ちが出た瞬間、それを止めようとする意識が出て来る。

小さいとき、オヤジに言われた言葉が頭をかすめる。
「調子に乗るなよ」

この言葉が自分がわあ~っ!ってうれしくなるのを、ぐっとおさえこんでくるのを見たのだ。
ああ、こうやって、自分をおさえこむんだなと知る。

それが認識されたときから、そのオヤジの言葉は、小さい声になった。遠くの方で言ってる声は、ここまで届かなくなった。

もらっただいじな宝石の言葉は、
「ありがとう!」
と正直に受け取れるようになった。


たったそれだけのことなのに、心はどんどん解放されて来る。

2016年5月2日月曜日

疲れと非二元


展覧会がもうすぐ。
絵の制作もだいたい終わり、細かい作業をやっている。

ここんところ、バイト先がものすごくいそがしい。
そしてゴールデンウイークのこの時期、畑は夏野菜の準備で忙しい。
バイト、絵の制作、野良仕事と、体は過酷に使われている。
だけど、心の中がもやもやしていないので、ただ体が疲れているだけだ。

今日もあまりの忙しさに、足や腰が痛くなり、体が重くなり、意識がもうろうとなる。
ふと非二元を思いだす。
「あっ、、、このカラダは私ではないのだった。。。。」
今、これを使わんでどーする。

「このカラダは私ではない。この感情も私ではない。。。」
と心の中で呟く。
すると体の疲れと、感情が切り離されていく。極度の疲れの中にいても、心はとてもクリアになった。

家に帰り着くと、さすがに連日の野良仕事や展覧会の準備やバイトの疲れで動けなくなる。コタツの中にもぐりこんだ。
1時間。目が覚める。腰や足の痛みも和らいで、心はすっきりしていた。

心の疲れは後を引くが、体の疲れは、ただ体さんにまかせて休むだけだ。
心の中にある自分の葛藤をひとつづつ解放して行くと、心は静かになって来る。


なんだ、こんなことだったのか。