2016年12月21日水曜日

つくし紙絵展vol.3 小品展のおしらせ





さくさくと山間の道を歩くと、ステキな風景を足元に発見する。
「昨日は霜がおりたんだな。。」

冷たい地面を保護するかのように、枯れ葉が厚い層になって覆っている。赤や茶色に染まったいろんな形の葉っぱたちが、みんなそろって、白く薄化粧をしていた。

思わずしゃがんで、彼らの顔を見る。
どこに目をやっても、まるで抽象絵画のような風景が広がっていた。



裏高尾の小さな珈琲屋さんで、つくしの紙絵展の第三弾、小品の展示をいたします。

会期中、つくしは毎週日曜の午前中、珈琲を飲んでおります。

美味しい珈琲と、高尾の冬の風景、そして小品展にお越し下さいませ。

期間:2017年1月6日(金)〜30日(月)
東京都八王子市裏高尾町1254
電話:042-661-0798
10時〜17時(最終日16時)
定休日:火・水・木
高尾駅北口『小仏行き』バスに乗り、「裏高尾」下車徒歩1分
(本数が少ないので、時刻表をお確かめください)


今ここにいない



駅前で人の往来を見る。
一人の若い兄ちゃんが、スマホを歩く方向に向けて、にやにやしている。耳にはイヤホン。何か楽しいことでもやっているんかな。

その後ろを、老女が歩いている。キャリーカートを後ろ手に引っ張りながら、うつむきかげんに、誰に話すでもなく口が動いている。

私はそこではっとする。
駅に向かう人、駅から出る人、スーパーに入って行く人、キャッシュコーナーに並ぶ人、歩く人々、すべての人たちの心がそこにはない。
兄ちゃんは、イヤホンでなにかを聞いている。老女は、心の中でだれかと話している。ほかの人々は、口は動かないけれど、心の中でなにかと対話し続けている。

わたしたちは、今、自分がやっていることに感心がないのだ。

『私は今、歩いている。
ただ歩いていることにだけに意識を向けるほどバカなことはない。こうしているあいだにも何か「建設的」なことを考えるべきだ。
そうだ。あれはどうしよう。あれはどうやったら解決するだろう』
などと考えているのかも知れない。

賢者は「今ここ」に意識を向けろと言い続けている。
今、ここ?
そういわれても、なんか漠然としてて、つかみどころがない。
すると心は、みょうに居心地が悪くなって、自動的に何か他に掴むことが出来るものを探して、うろうろしはじめる。

あった。みつけた。あれだ。そうだ、あれを考えなくちゃ。
そういってまた考えはじめる。
心は今ここから、するりとすりぬけて、未来におもいをはせる。
『あれをやらなくちゃ』

兄ちゃんは、今歩くことが退屈で、スマホで遊んでいたのかも知れない。老女は、ただ歩くことはどうでも良くて、何か問題に向かって文句を言っていたのかも知れない。
人はただいることは退屈で、スマホで今をやりすごしているのかもしれない。
ただ夜を過ごすのは退屈で、テレビのチャンネルをカチャカチャ変えているのかも知れない。

無意識にやっていることに気がつくと、心はせわしなくなにかにすがりつこうとしている自分に気がつく。あたまの中が、どれだけ考えに満ちているかに気がつくと、あまりの量に呆然とする。

なにかを考え出せれば、きっとしあわせがやって来る。そう思って、人は考え続ける。


どうもそこには答えがないらしい。

絵:「冬の景色」

2016年12月15日木曜日

盲目的な旅


私たちは、しあわせになる条件を探している。

うまい珈琲を飲んでいるからしあわせ。
ケーキ食ってるからしあわせ。

「~だから、しあわせ」という条件つけ。

未来のためのしあわせの条件つけもある。

「~になれたら、しあわせ」
素敵なおうちに住めたら、しあわせ。
医者になれたら、しあわせ。
お金が入ったら、しあわせ。


わたしたちはなんでかしらんが、無条件でしあわせには、なれないようである。

イヤイヤ。なんにもしないしあわせもあるではないか。
仕事におわれることもなく、なーんにもしない1日がしあわせ。
でも、それも3日たち1週間たちすれば、何だか不安になって来る。
やばい。こんなにのんびりしているばあいじゃないぞ。なんかしなければ。と、なにかしないではいられなくなる。
実際3日どころではない。1日だって、そのうちなにもしない時間をもてあますはずだ。

私たちは、一瞬しあわせが満たされるとそれに飽きてしまい、次のしあわせを求めはじめる。
たとえうまかろうと、珈琲を何十杯も飲み続けられないし、ケーキも何十個も食べ続けられない。事実それをやれと言われた瞬間、しあわせは拷問になる。はれて医者になれてもそこからが苦しさの連続だし、素敵なおうちは1ヶ月ぐらいで、住んでいるのがふつーになる。

こりゃいったいなんなんだあー。




私たちの心。。。いつもなにかを探しているその心なのだ。
不足感。
これではない、なにか。ここではない、どこか。

『これで満足してはいけない。これで満足してはおしまいだ。人生もっとやれることがある。そうでなければ、お前の人生は路頭に迷うことになるであろう~~~。』
と言う、神のお告げを聞き続けている。

私たちは、自分の心の中で聞こえる声を「自分がいってる」とおもっている。そしてその声は自分の味方だと信じている。しかしよくよくその声の内容を聞いてみると、ある種のパターンに気がつくだろう。
せかす。焦らせる。不安にさせる。脅す。

味方だと思っているから、自分によいことを言ってくれるはずだ。だから焦らせるのは、私のために焦らせてくれるんだ。。。そう思って、あたまの中に聞こえる神のお告げのままに行動し、私たちは、しあわせになるための条件を探し求めて旅をする。
これははたしていつか満たされるのか?

あたまの中の言葉は、いつもそれではダメだ。あれでもダメだ。と言い続けている。
その声は、口うるさい小姑のようであり、こましゃくれた訳知り顔の少女のようであり、もったいぶったくそ坊主のようでもある。

そのことに気づくところから、旅はくるっと方向転換をする。あてのない旅、満たされることのない旅に気づき、元来た方向に帰っていく。
本当は私たちは、何の条件もつけないまま、しあわせそのもののようなのだ。
もともとしあわせそのものだった。

苦悩は、その声にふりまわされているから。

自分の中の声に気づいたかい?
その言葉の内容に、脅しは入ってないかい?
「あなたのためだから。。」というニュアンスはないかい?
そしてその言葉に、あなたはどこかおびえていないかい?
聞こえたとたん、身体がぎゅっと固まらないかい?
それはあなたの味方ではない。

それが聞こえたなら、ただ聞いている。
聞こえるまま、そっとしておこう。
それにあわせて、あわてて行動するのをぐっとこらえてみよう。
その声が、行き過ぎるのをただみていよう。

そんなちいさなことから、盲目的な旅はスピードを落としはじめる。


絵:ミステリーベーパーバック表紙イラスト&カットイラスト

2016年12月14日水曜日

いつか症候群


「いつかわたしも○○になれたら、しあわせになれる」

そう思い続けている人にあった。
だが彼女の現実はまったくそれとは違う場所にいた。
物質的にも精神的にも、その夢とはほど遠い場所にいた。気の毒にさえ思えた。
だがそう思い続けることによって、現実の自分をなぐさめていたのだ。こんな場所にいる私ではない。本当は特別な才能を持った私なのだ。。。。と。

そのとき、はっとした。
これはわたしではないのか。
いつか○○になったら、私はしあわせになれると、おもっているではないか。。。

人はしあわせになるために条件を付ける。
いつかCDをだせたら、ミュージシャンになれてしあわせになれる。
いつか本を出版したら、作家になれてしあわせになれる。
いつか大金持ちになれたら、わたしはしあわせになれる。
いつか個展を開けたら、私は画家になってしあわせになれる。
いつか挿絵が雑誌に載れば、私はイラストレーターになってしあわせになれる。

さて。現実はどうだろうか。
ちっともしあわせじゃなーい!

どうも私たちは、アレにヤラレている。
おとぎ話症候群(そんなもんあったっけ?)。
「いろいろ苦難がありましたが、最後には王子様と結ばれて、ずーっとしあわせに暮らしましたとさ。おしまい」の、お決まりのパターンだ。
そうなれたら、永遠に安定する幸せが待っていると、そう小さい時にカッキーンとインプットされた。

だがきっと、そのおとぎ話にはつづきがあるはず。
王子様とは性格の不一致で、いつもケンカばかり。その上姑が最悪。ほどなくして城内別居が始まりました。3人の子供も不登校になり、家族みんな、それぞれの部屋でひきこもりましたとさ。おしまい。(いやいや。おしまいじゃないって。)

と、このよーに、物語は、えんえんと続いていくのだ。
終わりなど、ないのだ。
ミュージシャンになれておしまいでもなければ、作家になれておしまいでもない。
大金持ちは大金持ちの苦悩があり、ミュージシャンや作家や画家には、売れるか売れないかの苦悩があり、イラストレーターには仕事が来るか来ないかの苦悩がありつづける。


冒頭の彼女は、ある意味幸せなのかもしれない。
なぜなら、それになれたときの苦労をしらないからだ。永遠に夢を見続け、自分を特別視しつづけ、もしそうなったときの、自分の実力を知らされることもない。

イヤ、待てよ。
本当はその実力を知りたくないがゆえに、ひたすら「いつかそうなれたら。。」という立ち場に立ち続け、本気でそうなることを本当は望んでないのだとしたら。。。

人はなんと狡猾なのだ。

私もまた、そうであることに気がつき、がくぜんとする。


絵:ラブロマンスペーパーバック表紙イラスト

2016年12月13日火曜日

「かゆい」というたびに。。。


夜中に背中がかゆくて目が覚める。
かこうにも手が届かないビミョーな位置。

そこで実験開始。
その身体に感じるかんじを、ただ感じてみる。
「どんなかんじ?」
「かゆい。。。」
という言葉が出て来ると、とたんにかゆくなる。

だが、今自分の身体に感じているもの、ぴりぴりしたかんじ、なにかおもたいかんじ、そこに何かが存在している感じ、など、そのものを味わっていると、「かゆさ」とは違うなにかの反応が起こっているのに気づく。
それだけを見ると、かゆさなんかどこにもないのがわかる。

だが、またあたまの中に「かゆい」というフレーズが出てきたとたん、かゆさが現れるのだ。

これはいったいなんなんだ?

だから私は、今じーっと背中に起こっているできごとにだけ触れ続けた。

気がついたら朝になっていた。


言葉は、現象をクローズアップしてしまうようだ。

あのころはよかった。。。(?)


あのころはよかったなあ。。。
と、ふとおもう。

おい。まてよ。
その「あのころ」の自分はどうだった?

幸せとか、よかったなどとは思ってもなくて、
「ああ、あのころはよかったなあ。。」
などと、その前の過去の自分を振り返っていたではないか。

今考える「あのころ」の自分は、今とちっとも変わりなく、今をなげいて、過去をしのんでいたのだ。

と、ゆーことは、ひとはひたすら、
「あのころはよかったなあ。。」
をつづけているのだ。

いつになったら、
「今がよいなあ~」になれるのか。

ってか、今そうおもえばいいのかいな。

(ムリヤリか?)

2016年12月7日水曜日

青菜の炒め物


 畑からとってきたアブラナ科の雑草、玄関にほっといたら、葉っぱが黄色くなって枯れてきた。

でもあいつらはしぶとい。
一番外の黄色い葉っぱを取り除くと、しっかりげんき。


しかも真ん中から、新たな葉っぱも続々と顔を出す。


根っこなんかなくったって、水なんかなくったって、へーきなのさ。何しか、肥料なしの自力で育った荒くれもんだもん。

こいつらは、むかしよくNYのチャイナタウンで食った「青菜の炒めもの」にすると、うめーんだ。

しかしよー。
青菜ばっかりで、そろそろあきた。

キュウリが食いたいw

2016年12月1日木曜日

私は私の側につく


小さい頃、両親と道を歩くと、すこしめんどうなことになった。

ふたりの歩く速度がちがうために、歩いていくうちにふたりの距離はどんどん開いていく。
幼い私は、父についていったり、あとからくる母の元に走っていったり、また父のもとに走ったり、母を待ったり、行ったり来たりしながら歩いた。
二人は決して、お互いのスピードに合わせようとはしなかった。

ふたりの考え方もまたちがった。
私はどっちの意見にも納得できたがゆえに、どっち側につけばいいのかわからなかった。

大人になって、ダンナとだれかに意見がちがうことに悩まされた。
どっちの意見も納得できたがゆえに、どっち側につけばいいのか、これもまたわからなくなった。

でも、このごろやっとおもう。
どっちにもつかなくていいや。
私は私の側につく。

たったそれだけでよかったんだと。