最近、心にわけもなく訪れる大きな喜びと、
いきなり苦しみの中に落とされるような感覚が交互にやってくる。
これもまた心の訓練だと粛々と受け止めて、
ごまかすことなく取り組む。
先日も母の強烈な美意識と、旦那の強烈な美学論の間に挟まって、私は苦しかった。
二人の美の巨塔の間の谷底に小さく丸まって、それとは比べ物にならないほど情けない自分の力量に罪悪と恐れの中で自分を呪っていた。
思えばその感覚はずっと昔からあった。
圧倒的に暴力的な世界の中でたった一人、誰にも頼れず、ズタボロになりながら必死で生きていく。
このなんとも心細い惨めな気持ち。
差異の世界。優劣の世界。比較の世界。特別性の世界。
もうやめたい。こんな人生。。。
いつも誰かと自分を比較して足りない自分を呪い、そして束の間の優越感に浸る。
すべてのことは自分一人で解決せねばならず、泣きながら必死でやる。
掃除も料理も洗濯も仕事も、自分の頭の中で罵倒し続ける声に泣きながらやってきた。
「だらしないやつ!能無し!ウスノロ!ばか!そんな味付けでどうする!」
こんなむき出しの自我の罵倒の中で、今までよく生きてこれたと思う。
名もなき二人の巨匠に挟まれてこれだけ苦悩するのに、
誰もが認める巨匠の下に生まれ落ちた人たちの苦悩はいかばかりのものか。
先日他界された沙也加さんの心はどれほどのものだっただろう。
まわりがどう認めてくれようが、「親の七光り」のせいだと自分で思い続ける。
自分でその能力を認められないのだ。
目の前に置いた親を超えるという目標はどれほど高いものだっただろう。
寒い布団の中で私は身を縮こまらせてますます小さくなった。
怖い。。。こんな世界で生きていけない。。。
幼いときから怯えて生きてきた自分を走馬灯を見るように眺めていた。たった一人でこの襲いかかってくる比較だらけの恐ろしい世界を乗り越えていかなければならない。。。。
だが聞こえてくるその声は、私の声ではなかった。
確かになじみ深い声だ。
ずっとその声が私を苦しめてきた。
母と比べ、旦那の評価に怯えていたのは、
「もっと怯えろ。もっと惨めになれ」
と後ろから声援を送ってきたその声だった。
そうして私はその声に促されて同意し、
「そうだ。惨めにならなければ!もっと怯えなければ!そうでないと私は死んでしまう!」
と、訳のわからない法則で生きてきたのだった。
この声は私を破壊する。
沙也加さんの心に聞こえていた声も同じものだろう。
「私が採用されたのは、私の才能じゃない。私に才能なんかない!全部母のおかげなのだ!」と。
しかし本当は母のせいでも旦那のせいでもないのだ。
自我はなんでも利用する。
この宿り主を破壊するためならば、どんなものでも使って苦しませるのだ。
あろうことか、一番近くで囁いていた声は、一番の自分の敵だった。。。
しかしここに朗報がある。
その声に同意したということは、それに同意しないという選択があること。
そう。今、私には、もう一つの選択がある。
他人と比較させ、違いを見せつけ自分を惨めにさせる声、
すなわち自我の声に同意することを選ばず、
他者も自分も同じでたった一つの心。
比較がなく、何一つ欠乏するものを持たず、完璧であることを思い出させてくれること。
すなわち聖霊を選ぶという選択。
私は過去の苦しかったおもいの一つ一つを聖霊に捧げていった。
「私を長いこと信じ込ませてきたこの信念はもう私には必要ありません。
聖霊さん、これを取り消してください」
心がたった一つであるならば、
この思いは、
同じように苦しむ人たちの信念さえも取り消されていくだろう。