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2018年9月15日土曜日

これ、夢なんじゃね?



ときどき、ん?これは夢なんじゃないか。。?
とおもうことがある。
いや、最近しょっちゅうやな。

夢ってさあ、奇想天外な展開でも、なぜか納得してその気になってがんばったりするじゃない。

空飛んでる夢なんか見ても、
「ん?空飛べるじゃないかー。よし!がんばって、あの山越えてやるどー!」
とか言って、越えてみせたりする。

友だちの夢もそうだ。
牛乳買ったらUFOが目の前にいて、UFOの棚に牛乳を置いて、家に配達してもらったそう。
(UFOの棚ってどんなんやったんやろな?)
「そんときゃ、なんかへんだなーとかよぎったよ。
けど、何となくそういうもんだと思って棚に置いた」
という。


夢の奇想天外さは、目が覚めたら「そんことあっかよ!」ってつっこみたくなるんやけど、ふしぎなのはそのとき「そーゆーもんだ」と納得してるんよね。
なぜかつじつまあってるような気になってるのよね。

そーゆー理屈で行くと、この今私が現実に生きていると思っている世界も、
そーゆーもんだと納得して生きてるんかもね。

「ウソつけー!夢なもんか!
だってこれとこれとこれは、絶対つじつまあってるじゃねえか!」

とおっしゃるかもしれませんが、それでさえほんとかどーかわかんない。ほんとは「つじつまあってる」と、思わされてるんかもしれんよ。

万有引力の法則だって、つじつまがあってるっておもわされてるんかもしれんよ。
物を落としたら下に落ちるって、地球だけの話しかも知れんよ。
他の星に行ったら
「えーーー、それ、ありえなーーい!」
って、ならんともかぎらん(笑)。


そもそも寝ている時に見た夢が「あー夢だった」って知ってるのは、
「目が覚める」って言う、別次元があるからやろ?
じゃあ、わしらが「起きてる」って信じていることも、
別次元から見れば、夢かもしれんやん?


肩ぽんぽんって叩かれて、
「ねえ、ねえ、そろそろ起きなよー」
って言われてるんかもしれんで。

あん?
私の五十肩は、それか?
ぽんぽんしても起きんから、イッタイ思いさせて揺り起こされている?

おあとがよろしーようで。





2018年9月13日木曜日

手当て その2




一週間後、ハードなバイトのあとのへべれけになったからだに、三回目の施術がはじまった。

今回、彼女は鍼灸師という肩書きを捨てた。
友だちだから出来ることかもしれないが、彼女の臨機応変さ、あたまのやわらかさに脱帽する。

ベッドに仰向けに寝ると、彼女はわたしの丹田に手をあてた。
とたんにお腹が熱くなる。その熱が瞬時に右足に伝わった。だんだん背中が熱くなる。
針灸ではかすかにしか感じられなかった熱が、手をあてられているだけではっきりと現れる。

彼女は足元に場所を変えて、両足首に手を添えた。
からだの中の何かのエネルギーが、一気にあたまにかけのぼった。

今度は足首を離れてどこかに触れている。
両方の足の先が焼けるほどに熱い。
「ど、どこ触ってるの?」
おもわず不安になって聞く。
「ん?足先だよ~」
言って間もなく左半身に何かが走り、左の脳に痛みを感じる。

施術してもらっている間、私の中にずっとあるイメージが浮かんでいた。
それはからだの中が真っ暗で、何もないという感覚だ。
その真っ暗な空間を、かすかなエネルギーが移動している。あきらかに何かが起こっている。しかしそれがいったいなんなのかはわからない。

私たちのからだの中は、物理的にいろんな臓器が存在している。その臓器の変化に応じて治療を施すのが西洋医学。中医では、そこにツボや経絡といった、目に見えないものも存在し、それを前提として治療を施す。

しかし今わたしが見ていたものは、そんなものは存在しないと教えていた。
量子ーまさに本来の物質の姿、何もない世界。
彼女の手を通して、わたしは別の次元のからだの世界を見ていたのか。


彼女は位置を変えて、手をわたしの首の後ろにまわした。
じょじょに今までとはちがう感覚になる。
今度はからだの中ではなく、外にもう一人の自分がはみでた。

その表情はティチアーノが描く、マグダラのマリアのような恍惚な顔をして、私のからだの上でぐるぐると回転している。

なんじゃこりゃあ~~~?

その官能的な感覚と、めまいがするような回転に、ただただわたしはなすがままになっていた。


「はい。そのまましばらく横になっててね」

彼女は部屋から出て行った。
ひとりぽつねんと寝ている私。
戻ってくる彼女を待っていられなくて、勝手におき上がった。

「はあ~~~っ!よく寝たあ~~~~っ!」
と、口走っていた。
一睡もしていないのに、その寝起きの爽快感といったら!
(あれ?あのとき両腕をあげていたなあ。。。w)

その後は疲れなど飛んでしまい、晩ご飯も元気に作り、夜の散歩にも出かけた。
何というか、からだがひとつにまとまった。そんな感じだった。

中医はいたんだ箇所を直接治療するのではなく、まわりから責めるのだそう。
バラバラになったからだをひとつにまとめ統一し、元気にさせる。そうすることで、自分で治していくのだという。
彼女の手当ては、まさにそれをやってくれた。最初の針灸の治療があったからこそ、三度目の手当てが効いたのかもしれない。

ただ鍼という金属や、お灸という植物を通して触れられるよりも、何も介さず、直接手で触れてもらうほうが、私のからだはよろこんだ。そのあとのからだの調子がまるでちがっていたのだ。

「手を当ててる間、何を考えてるの?」とわたし。
「なーんも。ただぼーっとしてるだけだよ。手の感覚に集中してるだけ~」
手の感覚だけに入っていると、私のからだの変化がわかるようだ。
おそるべし。ハンドパワー。でも彼女にその自覚はないようだ(笑)。



その晩も相変わらず痛みで目が覚めた。
だけど何かがちがう。
どこかのんきな私がいた。
私が痛いのではない。
ただそこに「痛み」があるだけだ。
私と痛みをくっつけなくなった。

五十肩は一年ぐらいかかるとみんなが言う。
そのぐらいのスパンで付き合っていくんだな。
そう思うと、焦らなくなる。
痛みを悪者にしなくなる。邪見にしなくなる。

明け方、痛みの中で感じた。
ああ、痛みって、怒りなのかもしれない。。。
これは私の怒りだ。
私が自分に向けた怒りを、つまり自分を痛めつけたことを、自分で味わっているんだ。。

そう思うと、痛みも愛おしくなった。
ごめんよ、私。
今までいっぱい痛めつけたね。
そっと左腕に手をあてた。


手当て。
そっと手をあてる。
そのことがいかに人を癒すのかをじかに体験させてもらった。
それは人と人が互いに触れ合うことで交流する何かだ。
これはひとりでは出来ない。
ふたりいて、はじめて何かが動くことを教えてくれる。

癒しってすごいね。




絵:「ねこじゃらし」




2018年9月12日水曜日

手当て その1



この夏、左肩が痛くなった。
あげられない。うしろにまわせない。夜中に痛みで何度も起こされる。いかんともしがたい状況になる。

友だちに鍼灸師さんがいる。
彼女とは非二元の話しで盛り上がるが、一度も施術を頼んだことがなかった。

57歳。自分の身体に変化を感じるお年頃。
彼女はこの道のベテランさん、中医のことは専門家。
ここは一発、お年頃の身体に鍼をうってもらい、お灸を据えてもらい、強烈な刺激を受けてみますか!と、彼女にお願いをした。

お天気の午後、彼女が運営する小さな施術室に、はじめて「患者さん」としてでむく。

「ちょっと遊んでいい?」
彼女の楽しそうな顔に、期待が膨らむ。
「うん。いいよ!」

ベッドに座ると、彼女はそっとわたしの腰に手をあてた。
静かな時間が流れる。
ふと腰の感じがちがうのに気がついた。

あれ、、?
腰が、、、消えていく、、、。

私たちは普段、自分の腰の感覚に気がついていないが、腰という存在は知っている。しかし今、私の腰が消えはじめている。。!重くどっしりとしているはずの腰が、どんどん希薄になり、軽くなり、それと同時に上昇していくのだ。

な、、なんじゃ、こりゃ?


「さて。じゃあ、ベッドに横になって」
彼女の言葉で現実にもどった。
それから鍼灸の治療に入った。

まずはお灸。
むかーし、親にお灸を据えられていた時期があった。怒られて、じゃないよ。
それとなぜかどこかの家で専門家の人にしばらく据えられていたことがあったなあ。。
などと思いだしながら、そのころとはまったくちがう、熱くない、やさしいお灸を味わっていた。その間、環境音楽を聴きながらのウットリとする時間。

そして鍼。一瞬の痛さのあとは、ただじーっとしているだけ。すこーし身体のどこかが反応している。だけど強い刺激ではなかった。
たっぷり二時間。内容の濃い施術をしてもらった。



その晩。
いわゆる好転反応か、痛みが増した。
昔漢方薬を飲んでいたことがあり、好転反応というものがあることを知っていたので、
やはり出たかとおもった。
症状が悪化したことにより、これは本格的に自分でも治していかねばならんと思い立ち、母直伝の民間療法も同時進行。これでは彼女の施術か、民間療法か、どっちが効いたのかわからなくなるが、そんなこといってられない。

その晩から、朝晩の一回ずつ、ショウガと玉ねぎをすりおろし、はちみつを入れたぬるま湯割りを飲み続ける。
症状は相変わらず一進一退を繰り返した。


次の週、二回目の施術もお灸を中心にしてもらったが、そのうち首が痛くなりはじめ、ガマンできなくなった。

「おねがい。お灸はいいから、手で触って。。。」

じつは最初から彼女の手の力を感じていた。
腰に手をあててくれた感触、時おりお灸のあとにそっと肩に手をあててくれている時のなんとも言えない安堵感。
首の痛さもあいまって、針灸という道具を通してではなく、直接彼女の手で触れてもらうことでの、あの安堵感がほしい!という衝動が起こったのだ。

鍼灸師さんの立ち場としては複雑であったと思う。しかし彼女は患者のわがままを受け入れてくれた。



頭の側に回り、わたしの首を両手で支えてくれた。
とたんに右足に熱が走る。足の甲が熱くなる。やがてそれは左に移っていった。
耳にふれられていたとき、ふしぎなビジョンを見た。
それはおだやかなイギリスの丘陵地帯。
ああ、、、ここで私たちはあったことがある。。。
そのうち、左に修道院が見えた。
ここに、彼女はいたのか、、?
そんな思いが出てくる中、首の痛さは治り、施術は終った。

その日の午後は最悪だった。起き上がれないまま、ソファで一日を過ごす。夕方、母直伝の番茶醤油梅干しで、なんとか元気を取り戻した。
ひどい後退反応だ。こんなに疲れがたまっていたのか。

考えてみれば、たまるはずだ。
父の死の前後、高知を行ったり来たりした。その間日本とアメリカの仕事も忙しく、バイトも入りっぱなし。畑も仕込みの段階であったが、行っても疲れ果て、ほとんど手つかず。
初盆も終り、ホッとしたころだった、痛みが出たのは。

「典型的な五十肩ね」
彼女は言った。
「時間かかるわよ。しぶといんだから」



さて三度目の施術で、わたしはふしぎな旅に出る。
つづきはまた。




絵:ホタルブクロとどくだみ

2017年7月23日日曜日

言葉という魔法


言葉にすると、それはリアルになります。

それまで、ぼよぼよふわふわぼよーんとしていたものが、
「これは○○です」
という名前を付けた瞬間、ぼよーんとしか見えていなかったものが、ゆっくり、急速に形を持ちはじめ、それが○○になります。

「これは○○という出来事です」
と、何かの動きの連続性をみつけ、「出来事」として言った瞬間、それが○○という出来事になります。

わしらの目の前には、最初っから独立して物体が存在していたのではなく、それを誰かが個別の存在としてみつけ、それに名付けたから、みんなはそこを注目しはじめ、リアルなカタチに見え始め、定着し、だれもがそれを
「これは○○です。あたりまえじゃ」
となっていきました。



生まれてまもない頃、目の前のぼよーんとした存在が、こちらに向けてくりかえし、同じ音を発しつづけているので、こっちにあるものは、「つくしちゃん」というものなのだとおもいはじめる。
んで、あっちにあるものが、「おかあさん」というものなのだとおもいはじめる。そうしてこっちとあっちに分れ、その音を出す存在が、カタチとしてくっきりと見え始め、それが、あれは○○、これは○○と、独立した個別の物体を教えてくれる。

そうやってわしらは、音という言葉とともに、この世の「リアル」を作り続けて来たのだ。


今日も新しい言葉/名前が生まれる。
きのうまでなかったものが、今日突然存在しはじめる。
言葉という魔法によって。



絵:表紙イラスト『M1戦国史』

2017年7月21日金曜日

アーシングの威力



庭ではだしになる。
畑ではだしになる。
ついでに畑ではだしで歩いてみる。
ついでにはだしで野良仕事してみる。

こんなに心地よいとは思わんかった。

ふわふわした土の感触。
さらさらした草の感触。
でこぼこした石の感触。
ちくちくした刈ったばかりの草の根元の感触。

むき出しの足の裏が、あらゆる物体の存在を教えてくれる。
いや、そんなことよりも、なんとも言えぬ、なんだろう、ずいぶん忘れていた感覚。。。子供の頃に知っていた感覚。
大地と、この世と、直接触れているという実感と安心感。。。

その感覚にひたろうとすると、大人になった疑い深い心がさわぐ。
「汚い。危ない。破傷風になる。。」


アーシングという言葉を聞いたのは、つい最近だった。
エハンデラヴィという冒険家が教えてくれた。

地面に直接足をつけることは、じつはわたしは昔から知っていた。
身体に電磁波がたまるから、大地に足をつけて放電しなさいと母に言われていたことがあったので、ときどき地面に足と手をつけて四つん這いになって、
「ほうで~~ん!」
と叫んでいたから。

それを徹底してやったことはなかったが、ここに来て、この「ほうで~ん!」がいかに身体に良いか、いかに私たちが常日頃電気まみれになっていて、それを放電する機会がないかを知る。

さすがに夏の虫が多い時期に、畑ではだしで野良仕事もできないので、黒足袋を履いて作業をしていた。

地下足袋はゴム底なので絶縁する。だから普通の綿素材の黒足袋を着用。


ある日、足の裏に異変を感じた。
「あれ?魚の目が。。。。?」

それはかれこれ10年以上は持っている持病の魚の目。
さながら活火山のように、カルデラがぱっくりと深い口を開け、カルデラのフチは毎年のように高くなって行く。歩くとフチがあたって痛いので、ときどきカッターで削ぎ落とすが、ほどなくしてまたカルデラのフチは高くなる。それをカッターで削ぎ落とし。。。
そうやって10数年、この魚の目火山と戦って来たのだ。

それがある日。
「か、カルデラが消えてる。。!」
ぱっくりと深い底なしの穴を見せていたはずのカルデラが平らになっている。
「えーーー。なんでえーーー?」


頭をぐるぐるめぐらせる。最近何か変わった事をしなかったか?
ある!あれしかない!アーシング!

1ヶ月前から畑と庭でやっているアーシングだ。
調子がいい、野良作業が疲れない、などの効果は実感をしていたが、魚の目まで治すとはしらなんだ。恐るべし!アーシング!



おもしろいので、写真を撮ってみた。
お見苦しい写真を失礼いたします。

これが6月20日、最初に発見した、消えていくカルデラの様子。
元の姿をお見せできないのが残念。(そんなもん、いらん)
なんともいえぬひどいカルデラであった。


それから20日後/7月10日。
そこに何かがあった足跡はあるが、これがかつて活火山だったとは夢にも思うまい。


そして、10日後/7月20日。
もはや大きな指紋の一部のようにしか見えない、かつての魚の目火山。



アーシングは、私たちの身体にたまった電磁波を放出して、自然体に戻してくれるというだけではなかった。

植物が根を張るために大地を必要とするように、人間もその根のごとく、大地を必要としていたのではないか。それが60年代に靴の底にゴムを貼るという画期的な文明のせいで、大地との交流が絶縁状態になった。そこからありとあらゆる病いや問題があふれて来たのではないだろうか。


眼に見えない根っこが大地と私たちを結んでいる。大地も私たちの皮膚の一部ではないか。いや、私たちこそが大地の一部なのだ。

魚の目事件をとおして、大地とのつながりをじかに実感させてもらったいい体験だった。

大地さん、ありがとうーーっ!
魚の目さん、ありがとうーーーっ!


2017年7月1日土曜日

あの時のショック




あるとき、世界がみんなハリボテに見えた。
立体的でなく、ペラッペラ。ウラなんてない。

しかも世界は自分が見るからそこに世界が存在するだけで、
見てない所には何もない。。。

とゆーことは、この世はみんなウソ???

という衝撃があってから、この世らしきものを受け取りきれず、小学校の授業もまともに聴けず、つねにぼーっとした子供だった。

この世の象徴でもある身体もうまく使いこなせず、もてあますしまつ。
この体に入らなきゃ、早く入らなきゃ、と心は焦るばかり。

でも努力のかいあって、ある日、無事「入りました」となった。その時の爽快感は今でも覚えている。指の先まで、うまく使いこなせるまでになれたのだ。

しかしあの衝撃から50年間、あのショックがこの人生の基盤になっていて、表向きは人らしき生活は営んではいるものの、ひそかにこの世を疑ってきた。

人にはお見せできないほど、怪しー本を読みあさり、だんだんこの世のほころびが見えて来たものの、まだこの世を捨てるほどの勇気はない(笑)。

この世には、達観した方々がおられて、いろんなことを教えてくれる。
あの幼かったころの衝撃(ハリボテ)は、達観した方々がすでに経験されていて、見るからそこに存在するって言う話は、量子力学で100年前に証明されている。

そして自分は身体だと思っていたものさえ、自分ではないという。
この思考も、この感情でさえも。

良く考えてみりゃ、あのとき自分が身体に入った感があったってことは、自分は身体じゃないって、その当時は知ってたってことだ。(使わせてもらってる道具?)

ところがアレから50年。「おとーさん、おとーさん、あたしはからだそのものなのよ。おとーさん!(きみまろ風)」となっちまったけど。


自分は身体じゃない。って知ってた私はだ~れ?



絵:夕方犬のななと一緒に毎日歩いた浜。目の前にサンフラワー号。浜に流れついたワカメをとって、お味噌汁にした。
あのころは、毎日アーシング(笑)。

2017年5月2日火曜日

気まぐれに、ゴボウを掘る。



毎年同じ所からゴボウのこぼれ種が育つ。
カラスノエンドウのいきおいをもろともせず、でかい葉っぱを茂らせる一角。

ちょうど食べごろなんだけど、ゴボウを掘った人ならわかるだろうけど、地面を垂直に掘り起こすたいへんさ。
スーパーでなにげに売っている70センチくらいのゴボウ、実際掘るとなると、軽く1時間はかかる。

だからやまんばは、ゴボウは掘らないに限る。勝手に育たせておくことにしている(笑)。

ところが、ご近所さんがご親切にも、ゴボウを簡単に収穫できる方法として、10キロの米袋をくれた。これでゴボウを育ててみよと。出来上がった暁には、その米袋をタテに裂き、見事軽々とゴボウをゲットするのだ!

それがこれ。↓


米袋に土をつめ、種を蒔いてみたが、いつの種かわからず、こんな状態w


なわけで、なんとなく勝手に育ったゴボウを掘ってみる気になった。
土は柔らかかったが、途中で飽きた。(ごめん、ゴボウさん)
掘ったのがこれ。↓

二股に分かれていた。実際は、もっと長かったはず(笑)。


その穴がこれ。↓

下に行くほど、柔らかい土であった。


家にもって帰って、きんぴらゴボウに。
奥深い味がしたよ。


器は、江戸中期の骨董。


2017年4月26日水曜日

数字が増えるゲーム、減るゲーム。


銀行に行って残高を見た。
相変わらず少ない。

まだニューヨークに行く前、銀行の預金通帳の数字は、増えて行く一方だった。見る度におもしろいほど、どんどん増えて行くのを見ていた。

日本に戻って、今度は減って行く体験をした。
どんどんどんどん減って行く。おもしろいほど(うそだな。怖かったな)消えていった。いつもゼロに近い所でウロウロ。よくもまあ、生きていってるもんだ。


漠然とキャッシングコーナーで残高を見ていたとき、
「わたしはお金と言う数字をふやす遊びをしていたんだ。。」
と、気がついた。

そして今度は、減って行く遊び。
そんなゲームを楽しんでいた自分がいたのだ。

「お?と、ゆーことは?じゃあ、また増やす遊びをしようか♥」
と思った時、
「遊びは二度と繰り返えせない」
という直感が。

人はなぜお金を増やそうとするのか?
それは「お金は何にでも使える。あればあるほど、それにこしたことはない。あればあるだけ、しあわせになる」というような、当然のようにこびりついている概念があるからだった。


しかし今、お金が少なくても困っていない。
畑など、ほとんどお金を使わず、好きなように遊ばせてもらっている。気に入った本を買うお金も、近所でコーヒーを飲むお金も、食べたいおかずを買うお金もほどほどにある。今のわたしにちょうどいい具合に必要な分だけがそこにある。

じゃあなぜもっと欲しいのか。
未来を想定するのだ。
もしこんなことがあったら、もしものときのために、今起こっていないことのために、わたしはもっと必要だと、おもっていたのだ。
ただの無意識的に、誰もがそうするから、もっとあったほうがいい、と考えていたのだ。


ある人が言っていた言葉を思いだす。
「残高気にするから、減って行くんだよ。残高のことなんか忘れろ。
増やすことばっかり考えるから苦しいんだよ。
そして使う分を減らせ。そしたらことは勝手に動く」


数字が増えるゲーム。
数字が減るゲーム。
どっちも外から見ている自分がいた。




絵:「40代から仕事で巻き返す技術」/表紙イラスト


2017年4月9日日曜日

心の旅へダイブ


心の旅を続けている。

わたしは、何気ない自分の行為が、人に迷惑をかけているのではないかという思いに囚われている。

今、こうしてブログを書く、それを文章にすることさえも、間違っているのではないか?人に迷惑をかけるのではないか?と、心はつねに戦々恐々としているのだ。
そうは見えないかも知れないが(笑)。

きのうも近所の八百屋さんで野菜を買い、それを家に配達してもらった。
「老人ホームに配達があるから、いいよ。もっていくよ」
と、いってくれる。
配達代はただ。こういうサービスが、八百屋さんの信頼を買っている。

手ぶらでぶらぶら近所を散歩しながら、心の中がざわざわしているの気にづく。
八百屋さんに配達を頼んだことを気にしている自分に気がついた。

持って行こうと思えば持てる量なのに、配達を頼んでしまった自分。。。
いやいや、ダイコンとキャベツがまるまる入っているのだ。重いに決まっている。。。
言葉にならない言葉が、ざわざわとわたしを襲う。
「これ、罪悪感だ。。。。」

人は自分の感情を見ないようにするため、言葉を使う。

なぜ感情を見たくないのか。
それは持ってはいけない感情があるのだという信念がゆえ。

怒り、哀しみ、嫉妬、不安、そして罪の意識。
そういうものは、あえて気がつかないようにするのが私たちの習性になっている。

怒ってはいけない。嫉妬してはいけない。罪悪感はもってはいけない。。。
何かの出来事に無意識にぴくりと反応する自分にフタをする。
見ないフリ、聞かないフリ、気づかないフリ。
もし、それに気がついてしまえば、それをきっかけに、ありとあらゆるがらくたが、心の中にあふれてきて、おぼれてしまう!と、信じているがごとく。

だから誰かを非難する言葉や、自分の正当化などで、心の中を言葉で埋め尽くし、自分の感情を自分で見ないようにしている。

心の旅とは、自分で自分のその心の中を旅することだ。
感情、言葉、感覚。
今、まさに自分のからだの、頭の、この中で起こっている出来事に、直接触れていくこと。
正直に、今感じているもの、そのものに触れていくこと。
ここからすべてがはじまる。

わたしが感じているその罪悪感に、心をよせる。
ただそれだけの中にいる。
そこにある罪悪感を、とりのぞこうと躍起にならない。
その罪悪感を愛おしく観る。


罪悪感をとりのぞこうとすればするほど、それはもっと居座る。大きくなる。ぴったりくっついてはなれなくなる。
それは怒りと同じ。哀しみと同じ。嫉妬と同じ。そして思考と同じ。
考えちゃいけないと思えば思うほど、頭の中の声が巨大になる経験をしたことがあるだろうか。



わたしは八百屋さんに罪悪感を感じていた。迷惑をかけてしまったと。
それはほんとうだろうか。ほんとうかほんとうではないかは、わかりようがない。きっと八百屋さんに聞けば「だいじょうぶだよ」というだろう。でも本心は、わかりようがない。

人が罪悪感を感じる底には、別の考えがある。
罪の意識を感じることによって、
「わたしは罪の意識を感じるいい人間である」
と、自分を自分に納得させたいという隠れた意図がある。
じつはそれは「人のため」ではなく、「自分のため」に、行なっていることだった。

自分の感情を知り、それを見る心の旅。
ひとつの感情は、たったひとつの出来事からストレートに現れてくるものではなく、その人が体験してきた出来事、思い、信念などが複雑にからみあい、つむがれたもので出来ている。

表れて来た感情に心を寄せることは、恐ろしい魔物を見ることではなかった。
むしろ、自分を愛おしく思いはじめる。
こんな感情を持つのは当然だったなあ。。。としみじみと味わうことさえできる。
その後ろに隠された、今まで気がつかなかった、自分がそうせざるをえなかった理由もみえはじめる。

心の旅は、自分の感情を観る旅であり、そして自分の身体を観る旅でもある。

思考を離れ、感覚の中に意識を研ぎすませる。
その時、わたしは今にある。
閉じられていた扉がじょじょに開きはじめる。
小さい頃、開いていた扉だ。
大人になるにつれて、閉じられてきた扉。

深い深い意識の海に、心を泳がせて行く旅は、まだはじまったばかりだ。
深くダイブすればするほど、心もからだも軽くなっていく。


絵:「人はなぜ砂漠で溺死するのか」メディアファクトリー新書表紙


2016年5月18日水曜日

今、どんな気持ち?



じっとしていることがない。

ご飯作ったり、
LINEやったり、
テレビ見たり、
明日の準備のこと考えたり。

少し間が空くと、あわててなにかすることを探している。

することがないと、あわててなにかを考えようとしている。

考えることと言えば、足りないもの探し。
まだあれをやっていなかった、
体のどこそこが調子が悪い、
そうじしなきゃ。。。

かとおもえば、ふと思いつく、あいつのこと。
あいつがあんなことさえ言わなければ、
あたしはこんな不快な気持ちにならなかったのに。
瞬時に不快な気持ちが思いだされて、
次は似たような不快だった事件を思いだす。

そうやって連想ゲームが続く。

あっ、もうこんな時間。
ご飯作らなきゃ。。。


心はつねにどこかに飛んでいく。
心に浮かんだ事柄に、体も突き動かされる。
ああでもない、こうでもない。
延々と。

そのとき、
まてよ?
今、私はどこにいる?
と、聞いてみる。

家の中。
窓の外には窓いっぱいの緑。
風が樹々を揺らしている。
まるで私の心のように、散り散りに。
不安定。不安な気持ち。

ホントにそう?
今、どんな気持ち?
うん。。と。。。

今、どんな気持ち?
えーっと。。。。

ぷるぷると振るえているなにか。
とらえどころのないなにか。
ただそれをじーっと見る。
言葉には出来ないなにかがある。

ぷるぷると振るえているものを感じ続ける。
じーっとその場にとどまる。

もう一度聞いてみる。
今、どんな気持ち。。?


それまで騒いでいた心は、ただここに安らいでいた。



絵:「苔」/「つくし紙絵展より」


2015年12月22日火曜日

かなづちくんのお仕事



自分の中に秘密がある。
古代ギリシャのデルフォイの神殿に刻まれていることば「汝自身を知れ」は、そのことを伝えているように思う。

この世の苦しさは、じつは自分の中から生み出されている。
わしらは外の出来事に眼を奪われ、その外の現象を変えようと必死だ。だけどそんなものは何一つ変わらない。変わったとしても、すぐまた同じような現象がやって来る。いったいこれはなんだ?

その元になるのが、自分の心の中にあるものだからだ。
現象は、自分が信じているものがあらわれている。ただそれだけなのだ。

わしは自分の中を見続けるうち、
1:ひょっとしたら、、、と、うすうす感じていたものが、
2:えーー?やっぱり、そう、なのかな。。。
3:ゲ!マジでえ?

とゆーところにいる(どんなところや!)。

内面を見つめるといっても、とても漠然としているし、だいいち、一番やっかいなのが、自我。こいつはたくみに考えをあやつってくる。

「そんな考え、聞いたことないぞ」
「ほらほら、そんなことやってたら、みんなにきらわれるぞ」
「あかんあかん。それ、自分で自分の首しめるだけや」
「非常識にもほどがある」

自我がなんでここまで抵抗するかというと、それが仕事だから。正確に言うとそれが自分の仕事だと思っているから。

自我は、最初この肉体を守る道具としてつけられたオプションのようだ。肉体が崖から飛び出さないように、極端に酷使して、破壊しないように、そんなことのためにつけられたもののようだった。しかしいつのまにか、自我が主導権をにぎってしまった。道具が主導権をにぎったのだ。

わしらはその道具に向かって、「私の人生はどうしたらいい?」「この場合はどうするの?」と聞いているのだ。
それは、かなづちに向かって、自分の人生の答えを教えてもらおうとしているようなもんだ。

かなづちくんは、よろこんで教えてくれるだろう。
「ふんふん。それはね。こーしなさい。あーしなさい。」と。
しかしその内容はいつだって、どこかで聞いたことのある、ひじょーに常識的な言葉だ。

「あー、それね。それをすると、きっと痛い目にあうから、まず、自分を守って小さくして、ガードを固くして、それにのぞみなさい。ああ、それでもその途中で危ない目にあうから、石橋をたたいてたたいてたたいて、渡りなさい。でも、やっぱりそれも危ないから、やめときなさい。」
と、ゆーだろう。

そのかなづちくんの言葉は、説得力がある。そりゃそーだ。世間で言われていることそのものなのだもの。まちがってもオリジナルな考えではない。
ついでにゆーと、かなづちくんには、何も出来ない。ただ聞きかじったことをしゃべるだけである。しゃべる言葉をうのみにするわしらがいる。そしてその言葉に右往左往させられているだけなのだ。

ところが、わしらは、自分の中から出てきた言葉は、自分のものだと思って疑わない。ましてや、自分の中から出てきたものだもの、自分の味方であるはずだと。自分を助けるために、沸いて来る言葉は絶対的なのだ。

ほんとにそお?

わしら、その自分から出て来る言葉にこそ、ふるまわされてるんじゃない?
その言葉をまにうけて、不幸を感じたりしてるんじゃないの?
その言葉があるからこそ、苦しんでいるんじゃないの?

あったかい部屋で、コーヒーを飲んでくつろいでいても、未来の不安や、やっかいなあいつのことで頭がいっぱいになってイヤな気分になってない?
目の前にあるあったかで心地よいものを感じないで、頭の中だけで不幸を感じる。
かなづちくんは、そんなお仕事をやってくれているのだ。

実にありがたい存在だ。
いやみではない。
だって、それって、リアルドラマじゃん。
ジェットコースターに乗って、キャーとか、わーとかいっている、まさにそれを味わわさせてくれる、お楽しみな道具に変身してくれたのだ。

わしは先日びっくりしたんや。
え~~~~っ、これってほんとはおもしろがってんじゃん!って。

なんか話がドンドンヘチの方へずれていったなあ~。まあえいか。

結局、自作自演やっとるんやなて、実感したんよ。あほかいなーーーーーっ!って。
恐怖ってどんなん?
不安ってどんなかんじ?
嫉妬ってどんなの?
怒りってどんなふうに感じるもんなの?へえ~、からだにくるんや!
とかね。
リアルに感じる。
そしてネガティブなものほど、めっちゃ、リアルに感じるんや!

その時、自分が、ぎゅっと凝縮するのを感じる。カチカチに固まるのを感じる。そこにはっきりと、自分と他人と言う分裂が起こるのを感じる!
超物質の世界に入るのを感じる!
めっちゃリアルや~~~。

反対にポジティブは、ゆるくなる。
しあわせ~。は~、とけていく~。
ついでに他人も自分もいっしょくた~~~~。
ってならん?
どっちかとゆーと、漠然とする。リアル感がないw。

そうやねん。
ポジティブもネガティブもどっちもいいわるいじゃない。
その両方を味わいにここにいる。自作自演を楽しみにここにいる。

自分で自分に不安や恐怖を味わわさせてくれるかなづちくんに、感謝状をだす。

今まで楽しませてくれてありがとう!愛してるよ。


絵:「小石の遊び」素材/和紙、洋紙、その他


2015年9月3日木曜日

「絵が売れたよ」



「つくしさん、絵が売れたよ」
大将からの、嬉しい電話だった。
「え?うそ!」
「ホントだよ~。絵をみて、『これ買う!』って、即決してくれたよ」

なんてことだ。
5月の展覧会が終わって、西麻布にあるおでん屋さんに食べに行ったときのこと、
「ウチに君の絵を置かせてくれないか?」
と、思わぬ展開になった。
「いいんですか?」
「いや、こっちこそ、いいかい?」
大好きな大将のお店に飾ってもらえるなんて、光栄だった。今までその店の壁に、絵は一度も飾られたことがない。美意識の高い大将の店の、30年間の歴史の中で、はじめてその大事な壁にわたしの絵が飾られるという栄誉をもらったのだ。
そこで絵が売れるなんて、二重のよろこびになった。

そしてきのう、大学時代の友だちといっしょに食べに行く。
大将が気をきかせてくれて、絵を買ってくれた方に前もって連絡してくれていた。その方は忙しい合間を縫って、わざわざでむいてくださった。ステキな奥様と、ステキな家族に囲まれた、ステキな紳士だった。
絵の話は、そのうち畑の話までひろがり、そしてまた私の友人との接点もあり、ちいさなおでん屋さんは、大きなよろこびであふれた。


絵は作家にとって、自分の分身のようなものだ。その絵が、ステキな雰囲気の場所にお嫁に行った。嬉しいような、こそばいような。心がワクワクする。
彼のオフィスで、「彼女」が少しでも和む空気がつくれたなら、それを生み出した親としては誇らしいなあ~と、しみじみおもった。

関西風のだしがきいた、おいしいおでん屋さんです。
しばらくつくしの絵が飾られています。もしご興味のある方は、おこしください。

『味覺』
〒106-0031 東京都港区西麻布1-15-3
tel: 03-3405-4728
8席のカウンターのみですので、予約された方がいいかと思います。

2015年8月31日月曜日

「私」は習慣である






最近おもしろい本を読んでいる。

おもしろいではないか。
「私」というのは、習慣である、と言ってるのだ。
そしてその本は、その習慣を断つことができると。

やまんばは常々、自分ってなんだろう?とおもってきた。自分と定義つけている自分は、ほとんどが過去にしばられている。過去に起こった出来事、過去にやった事、過去に考えた事、過去に感じた事、すべてが記憶の中にある。その記憶を元に「私」を作っているのだ。

でもその「自分」の特徴を調べるうちに、あらゆる中にパターン的な考えを見出す。そのパターン的な考えが動機になってあらゆる行動の衝動が起こっている事にショックを受けた。

やまんばの考えのパターンは、罪悪感。
およそ自分でとる行動の動機のほとんどがこれだ。
人に迷惑をかけてはいけない。後ろ指さされるようなことはしてはいけない。などなど。
こうなったらどうしようという心配と恐怖にもとづいて、それを回避するような行動を開始する。
それは朝起きた瞬間からはじまる。なにかまちがったことをしていないか?と、目覚めた瞬間から、ものすごい早さで頭が回転し、問題点を探しはじめるのだ。

そのパターンを見つけはじめたとき、「わしは病気か?」とおもったほどだ。

いったんそのパターン(つまり、わたしにとっての罪悪感)を見つけると、芋づる式に、とんでもなく現れ出した。
私は完全にパターンの中にハマっていたのだ。
同じ考えを、同じように感じて、同じような行動をする、というパターンを何十年も続けていたのだ。

その本は、その辺りの事をものすごく細かくわかりやすく書いている。人がどんなふうに自分の習慣の中に没頭しているのか、これでもかというぐらい明確に説明してくれている。

そして、その自分のパターンに気がつきはじめると、そのパターンがだんだん落ちはじめるのだ。無意識に起こっていた行動が、意識化される事によって、明るみになり、解体がはじまる。

この解体作業がない限り、新しい自分を創造する事が出来ないという。
まさにそうおもう。
臭い匂いを、香水でごまかすようなもんだ。
いったん臭い匂いを消さない限り、香水は生きては来ない。

これが引き寄せの法則がうまくいかない原因なんだろう。
ぐちゃぐちゃに描かれた絵の上に、いくらキレイな絵を上書きしても、下の絵が透けて見えるのと同じ。

ポジティブシンキングしたところで、巨大なネガティブの土台の上には、つゆと消える。

いったん、自分をゼロに戻すと言うか、リセットし直してから、新たな自分を作り出していくのだ。
サナギからチョウになるとき、サナギの中は、ただの液体しかないと言う。
そういうことに似ていないだろうか。


小さいときにつくられた自分は、いわば親や環境によって、他力的に受け身的につくられてきた「私」だ。
それをリセットし直し、新たにつくられる自分は、自分でつくる自分なのだ。

そんな自分が新たにつくられるとしたら、そして好きなように設定できるとしたらなんておもしろいんだろう。


絵:「神話」/オリジナル切り絵/まるっとつくし展より