2015年7月26日日曜日

不快が消える瞬間



暑い。
暑いんだけど、暑さを感じない。
ヤバい。あたまおかしくなったんか?

今日も近所の珈琲屋さんに珈琲を飲みにいく。
アスファルトからわき上がって来る熱風。車が通り抜けたあとの熱風。でもなぜか「あったかいなあ」ぐらいにしか感じない。
帰り道、いつものお豆腐屋さんに立ち寄って、木綿を買う。
「なに。涼しげな顔して」
「へ?そう?」
「汗もかいてないし、ほっててもいないじゃない」
とおねえさんにいわれる。そー言えば、別にだらだら汗もかいてない。
今、このパソコンに向かっているあいだも冷房もつけていないし、暖かい空気はここにあるが、不快ではない。

実はあることをし始めてから、からだのきつさがなくなっている事に気づいた。
意識を自分のからだに向けているのだ。
ここにいるわたしという存在、わたしのからだ、というふうに。

するとからだというものがここに存在しはじめる。
動かしている指、椅子に座っている腰と椅子の接触、組んでいる足と足の皮膚感覚、鼻にかけているメガネ、少し薫る体臭、外からやって来る風の感触、蝉の鳴き声、扇風機のブーンという静かな音、腕が触れている机の角。。。

そんなことに意識を置いていると、決まって、からだの中からふんわりと暖かいものがあふれて来て、それがからだのまわりをおおいはじめる。ほら、今腕のまわり。そして胸のあたり。。。

そのあったかいものは不快な熱風ではなく、ウチ側から出て来るエネルギーのようなものだろうか。それにつつまれていると、外にあるはずの不快な熱風が、快適な熱風に感じてしまうからふしぎだ。

この感覚はいつでもどこでも気がつけば、よびもどすことができる。
そして夜寝るときは、また同じように、ふとんに横たわる自分のからだを感じるのだ。敷き布団に触れている腕、足。パジャマに触れている腰、背中。重たいあたまが沈み込む枕。。。じんわりと暖かいものに包まれはじめ、いつのまにか眠っている。気がつけばいつも決まって4時15分。

私たちは意識をいつも外に向けている。
危険なものを避けるためにあの手この手をつくす。ああなってはいけないから、こうするというように、外にあるものに対処する事に意識がいく。

この外に向けている意識がエネルギーをつねに外に放出しているようだ。
つまりエネルギーを垂れ流しているようなかんじだろうか。それが疲れを生む。
でも反対に、自分の内側に意識を向けると、エネルギーは自分の内側から溢れ、自分をおおいつくし、勝手に調節していく。。。そんなかんじがするのだ。

一度おためしあれ。
静かな涼しい場所で、ふっと自分のからだに意識を向けてみたら、かすかな変化をかんじるだろう。今まで気がつかなかったなにかをかんじるだろう。

そして、あ、これ、どこかで知っている。。。という感覚を思い出すだろう。  



2015年7月18日土曜日

天狗の遊びに付き合わされた



アスファルトの通りから、森に入る。すう~っと涼しい冷気がほほをなでる。

先日の大雨の最中、夜、山の方でガラガラと土砂が崩れる音がしたので、それを確かめに森に入ったのだ。
いつもの遊歩道が小川になっている。山に落ちた雨が許容量を越えているのだろう。久しぶりの遊歩道は、昔棟梁といっしょに汗だくになって整備した前の状態にそっくり戻っていた。自然はあっという間に自分たちの姿に戻る。

ざっと見渡してみたが、どこにも土砂くずれのあとは見当たらなかった。
山で時々巨木が倒れる音を聞くと、天狗の仕業だと言ったが、あの土砂崩れの音は、天狗の仕業だったのだろうか。わたしは天狗の遊びに付き合わされたのであろうか。

少し広い空間に、苔むした大きな栗の木が倒れている。5、6年前の台風の時倒れたものだ。美しい緑色のビロードにおおわれた木が、わたしにここへ座れと誘ってくる。
少し腰をかけて、目を閉じる。

いつもよりも大きな音がする川、蝉の声、ウグイスの声。
手に触れる少し冷たいビロードの感触、腕に触れてくるひんやりとした空気。
少しカビくさい匂い、木が朽ちてくる匂い、どこからか漂う甘い匂い。
目を閉じていると、それが外からやって来る音なのか、外から感じる感触なのか、匂いなのかわからなくなってくる。
どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが外なのか、あいまいになってくる。
じっと味わっていると、その音や感触や匂いは、わたしの内側にあるような気がしはじめる。わたしの世界の中にすべてが存在しているように思えてくる。

目を開けると、目の前にある緑色の世界が、一瞬何の意味をもなさなくて、心が戸惑っていた。
が、間もなくすると、目の前の風景が立体的に見え始め、これが木、これが葉っぱ、これが地面、というふうに、意味を持ちはじめた。

人はこうやってすべてのものに意味をつけているのだな。立体的に見えるのはそういうことか。。。
小さい時、こんなふうな見え方をしていたんだとおもった。
大人にこれは木、これは大地、と教えてもらってそう解釈をする。

だがそうやって、私たちは意味の世界に突入していくのだ。
外と自分という分離の世界に突入していくのだ。


アスファルトの通りにもどる。
ムッとする暑さが戻って来た。



2015年7月16日木曜日

利休は知ってたんだろうな。



「今日は自分が今やっていることに、できるだけ意識を向けて味わってみよう」と思った。

左手でお皿をもつ感触や、右手でふきんを持つ布の感触や、両手をうまく連動させてお皿を拭く、という行為をする自分を味わうのだ。

ちょっと腰を屈めてお醤油を出す行為や、電話がなってそれに足が向く行為。今こうやってパソコンを打つ指やパソコンのプラスティックの感覚。メガネが鼻にかかっている感じやパソコン画面に映っている、後ろの庭の風景などなど。

そんな感覚を味わいながら、
「あ、利休ってこのことをやろうとしたんじゃないか。。。?」
っておもったんだ。

お茶の作法って、すべてを意識的にやる。
水差しを運ぶ足運び、お茶碗をもつしぐさ、ふくさをたたむしぐさ、柄杓をもつしぐさ。。。
あらゆるひとつひとつの動作が、まったく意識化されている。しかもその行為は、流れるような美しい線を描いて、ムダな動きがない。

その行為の間中、人の心はまったくの静寂の中にある。
静けさと行為だけがそこにある。

それこそ今を生きているではないか。

自分が消え、他人も消え、ただそこになにかがある。

これから戦に行く武士への心構えであり、ギフトでもあったのだろうか。

今ここにいる自分に意識的であると、身体がグワ、、と熱くなる。
今ここに存在するなにかが、ふくらんでくる。
内側からあふれてくるなにかに、くつろぐ。

最近疲れなくなって来たのも、そういうことがあるのかもしれない。

2015年7月12日日曜日

おかしーでしょ。



Aさんから聞いた話。
Aさんはある会社に勤めている。

知り合った頃は、外資系の会社に勤め、ド派手なスポーツカーを乗り回していた。色々あって、今は同じ業種の日本の昔ながらの会社に入社。今日久しぶりにお会いした。昔のイケイケドンドンが、なりをひそめていて、穏やかなお顔になっている。

その会社が業界でトップなのだという。
それがふしぎだと彼は言う。
「何の問題定義もしないんですよ。今月も売り上げ成績よかったね。パチパチパチって。おかしいでしょ」と。

今までの会社は、どこにどんなリスクや問題があるかさぐって、それを分析して、リサーチして、マーケティングして、そしてとことん戦略を練ってきたのだという。それがその会社は皆無。

「部長も新入社員も、同じことしか言わないんです。売り上げ上がって良かったね。また今月もがんばろう~って。ふつう部長はもっと専門的なこと言うでしょ。それが新入社員となんら変わらない」
「なのに、業界トップ!」
と、やまんば。
「そうなんです!」

最近一気に売り上げを伸ばしたものがあると言う。それを彼は、
「ここで一気にすべて売りつくしましょう!といったんです。ところが。。」
「ところが。。?」
「いいよいいよ。10%売り上げればいいから。って言うんです!信じられないでしょう!」
彼は100%をのぞんだにもかかわらず、会社側は10%にとどめておくように、といったのだ。

それで業界トップ。
いったいこれはどういうことだろう?

聞けば、その業界の重役たちが集まる会議にも出ないのだと言う。
「他の会社さんにおまかせすればいいから」といって。

その会社のあり方は、数値、業績、競争、目に見えて明らかなもの、そういうものを追いかけ続けて来た私たちに、清涼飲料水のような爽やかさを投げかけてくれる。

あきらかに儲かる方法をあえて10%にとどめておく売り上げ目標も、この業界で生きる智恵のようなものをかいまみせてくれる。
それはその道で長年培って来た叡智なのかもしれない。

成績が成績が、という世界で生きて来た彼。そこでは弱肉強食の世界が広がっていて、トップもつねに変わっていたと言う。
なんという両極の世界を経験しているのだろう。彼の経験はすごく貴重だと思うし、そういう話を聞かせてもらうこともすごいことだとおもう。

彼の意図するところとはま反対なのに、男前がますます男前になっていってるのを嬉しくながめていた。



2015年7月8日水曜日

言葉にならない感情



感情。。。。ってなんだろうね。

これは辛い感情で、これはハラが立つ感情で、これは嫉妬する感情で、これは悲しい感情で、、、
そんなふうに、線引きできるもんなんだろうか。

やまんばは先日、怖いと思う感情が、ワクワクする感情とほぼ似ていることを知った。
どこらへんにパッキリと別れた感情と感情の境目があるんだろうね。
ひょっとしたら、それは「これは怖い感情」「これは悲しい感情」って言うように言葉を作ったから、そんなふうなものがあるって思っているんじゃないだろうか。

そんなことを考えるってばかばかしい?

最近の犯罪を見ていると、なんてことないことで犯罪を犯す。その根底にはその人がとても自分の感情にふりまわされているからじゃないだろうか。
じゃあコントロールすればいいの?
ほんとに?
そんなことできる?
ムリヤリそんなことしたって、どっかで溜まったものが出てきちゃうんじゃないの?そしたらまたコントロールして押し殺す。

そっちの方向じゃなくて、その感情って言われているもののしくみを解いていくってのはどうだろう。


きのう言葉にならない感情がそこにあったんだ。
それでこれはなんの感情?って聞いてみたんだ。
誰も答えてくれなかった。

そこでやまんばは、ああ言葉にしなくていいんだっておもった。

これは何々という感情で、、、と言うと、そこで自動的に、
「これは悪い感情だから、ああしてこうして克服しなければいけない」
なんて、また別の感情を作ることになるんだろうからね。
おもしろいね。

ただそのここにある何かわからない心の中から沸いてくる、そしてそれが身体を伝っていく、ふしぎなエネルギーの往来。それを感じ続けることでいいんだと。

するとふしぎなことに、それまで気づかなかった視点がポソッ、ポソッと、小さな泉から小さな水が沸くように沸いて来たんだ。

きっと、これはあたまでああでこうでと考えて出て来るもんじゃないんだな。

わしらは「考えて答えを出す」とか「考えてなにかをやる」とおもっているけど、
本当は、考えが落ちたところに答えがあるのかもしれない。



2015年7月4日土曜日

心が人を疲れさせる



つかれって、身体の疲れと心の疲れがあるようにおもうねん。

やまんばはきのう、肉体的疲れで家に帰ってばったり。ソファに横になりながら、あたまがアレコレ考えているのに気がついたんだ。

置かれた状況が変わって来てたことに対する不安がぐぐーっと持ち上がって来て、
「ああなったらどーするんじゃ」
「このばあいはどーなるんじゃ。。」
と、未来に起こるであろう状況を見つけてきては、
「そうなったら、だめじゃーん」
「どうしよう~」
なんてぼやいている。


これこれ。
コレが人を疲れさせるねん。

今やまんばは、ソファの上で重たい身体を横たえて、くつろいでいる。
にもかかわらず、あたまが不幸を想像して、不幸な気分になっとんじゃ。

思考は問題をみつけてきては、
「問題だー問題だー」と、大騒ぎをするのが彼の仕事。
それに乗っかると、不幸な気分になる。

けど、ソファの上のやまんばはくつろいでいる。
実はそれが現実。
あたまは、起こってもいないことを想定して、くつろがさないよーにしているのだ。

このまま問題意識に乗っかっていると、仮眠ののちに起きたときは、ものすごーくだるくなっているはずだ。それはこれまでの経験上、いっぱい知っている。

だからその問題定義を受け流した。
爆睡後、目覚めたときは、完全に回復していた。

肉体は本当にちゃんとやってくれている。自然のメカニズムそのものだ。風邪を引いたり、動けなくなったとき、素直に動かないでいると、その間にバババババーって、機能を調節してくれているんだ。

夜寝る前に、足をなでなでする。
「今日も一日ありがとさん」
っていいながら。