暑い。
暑いんだけど、暑さを感じない。
ヤバい。あたまおかしくなったんか?
今日も近所の珈琲屋さんに珈琲を飲みにいく。
アスファルトからわき上がって来る熱風。車が通り抜けたあとの熱風。でもなぜか「あったかいなあ」ぐらいにしか感じない。
帰り道、いつものお豆腐屋さんに立ち寄って、木綿を買う。
「なに。涼しげな顔して」
「へ?そう?」
「汗もかいてないし、ほっててもいないじゃない」
とおねえさんにいわれる。そー言えば、別にだらだら汗もかいてない。
今、このパソコンに向かっているあいだも冷房もつけていないし、暖かい空気はここにあるが、不快ではない。
実はあることをし始めてから、からだのきつさがなくなっている事に気づいた。
意識を自分のからだに向けているのだ。
ここにいるわたしという存在、わたしのからだ、というふうに。
するとからだというものがここに存在しはじめる。
動かしている指、椅子に座っている腰と椅子の接触、組んでいる足と足の皮膚感覚、鼻にかけているメガネ、少し薫る体臭、外からやって来る風の感触、蝉の鳴き声、扇風機のブーンという静かな音、腕が触れている机の角。。。
そんなことに意識を置いていると、決まって、からだの中からふんわりと暖かいものがあふれて来て、それがからだのまわりをおおいはじめる。ほら、今腕のまわり。そして胸のあたり。。。
そのあったかいものは不快な熱風ではなく、ウチ側から出て来るエネルギーのようなものだろうか。それにつつまれていると、外にあるはずの不快な熱風が、快適な熱風に感じてしまうからふしぎだ。
この感覚はいつでもどこでも気がつけば、よびもどすことができる。
そして夜寝るときは、また同じように、ふとんに横たわる自分のからだを感じるのだ。敷き布団に触れている腕、足。パジャマに触れている腰、背中。重たいあたまが沈み込む枕。。。じんわりと暖かいものに包まれはじめ、いつのまにか眠っている。気がつけばいつも決まって4時15分。
私たちは意識をいつも外に向けている。
危険なものを避けるためにあの手この手をつくす。ああなってはいけないから、こうするというように、外にあるものに対処する事に意識がいく。
この外に向けている意識がエネルギーをつねに外に放出しているようだ。
つまりエネルギーを垂れ流しているようなかんじだろうか。それが疲れを生む。
でも反対に、自分の内側に意識を向けると、エネルギーは自分の内側から溢れ、自分をおおいつくし、勝手に調節していく。。。そんなかんじがするのだ。
一度おためしあれ。
静かな涼しい場所で、ふっと自分のからだに意識を向けてみたら、かすかな変化をかんじるだろう。今まで気がつかなかったなにかをかんじるだろう。
そして、あ、これ、どこかで知っている。。。という感覚を思い出すだろう。